「島原の乱」の舞台、長崎県島原を歩く

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本日は「島原の乱」の舞台、長崎県島原を歩きます。

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島原の乱は寛永14年(1637)から翌38年にわたって島原と対岸の天草で起こった農民一揆・キリシタン一揆です。天草四郎時貞がそのリーダーと伝えられますが、その人物像は謎に包まれ、よくわかりません。

ことに原城の攻防戦は熾烈を極め、88日間にわたる籠城の末、天草四郎時貞以下、一揆勢3万7千人は皆殺しにされました。今でも人骨が出土し、心霊スポットとしても知られています。

島原へ

熊本港から島原行きのフェリーに乗ります。


約40分。島原半島がワッと迫って見えてきました。


鬼ヶ島のような迫力があります。


島原港で車に乗り換え移動すること約10分。見えてました。島原城の復元天守閣が。


この場所はもと有馬晴信が本陣を構え、佐賀の竜造寺隆信を撃破した場所です。

その後有馬晴信が失脚し、晴信の息子・有馬直純が延岡に転封になると、かわって松倉重政が大和五條から移ってきます。

島原城は松倉重政の下、元和4年(1618)から7年あまりの歳月をかけて築城されました。五層の天守を持つ本丸、その北に二の丸、三の丸、それらを取り囲む堀の外には家中屋敷がありました。


松倉氏以後、高力(こうりき)氏・松平氏・戸田氏・ふたたび松平氏と、4氏19代の居城となりました。明治維新後、廃城となりました。


寛永14年~15年(1637~38)島原の乱では、大手門(現裁判所)と桜門(現島原第一中学校玄関付近)で戦闘が行われました。

昭和39年(1964)に復元された天守閣の内部は、キリシタン資料館になってます。島原のキリシタン文化や島原の乱についてトコトン学ぶことができます。

北村西望記念館

天守閣の隣には北村西望記念館があります。北村西望は島原が生んだ彫刻家で、長崎の平和記念増の作者として有名です。


祈りをささげる天草四郎像、平和記念像の原型、日蓮上人像など、60点あまりが展示されています。

島原城跡の北西には、武家屋敷跡があります。松倉重政が島原城を築いた時に、下級の武士を住まわれた屋敷が立ち並んでいます。

水路

通りの中央には細い清水が流れています。


この水は当時、飲料水としても使われ、大切に管理されていました。常に水音が響き、いい感じです。

土塀と石垣に囲まれた家々が、当時の面影をそのまま伝えています。

山本邸・鳥田邸・篠塚邸

山本邸・鳥田(とりた)邸・篠塚邸の三つは無料開放されており、



当時の武家生活の様子をしのぶことができます。係の方が親切に案内してくださいました。



家と家の間には境がなく、鉄砲の筒の中を覗いたようでした。ここから鉄砲町と呼ばれていました。また、鉄砲組すなわち鉄砲を主力とする歩兵部隊の居住地であることからも鉄砲町と呼ばれていました。

どこを歩いていても清水の水音が心地よく、落ち着いた気分にひたれました。

有馬のセミナリヨ址

島原城跡・武家屋敷跡を後に、国道251(島原街道)を南下していきます。車で約40分。国道30号線と分岐するところから入り、どんどん坂道を登っていくと、坂の途中に有馬のセミナリヨ址があります。


戦国時代。この地に有馬氏が勢いを持っていました。有馬晴信は熱心なキリシタンで、キリスト教を保護する一方、仏教徒を迫害し、領民にキリスト教の信仰を強制しました。

イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーニは、有馬晴信に進言します。キリスト教の勢いをのばすためには、教育こそ大事です。日本人の司祭・修道士を育成するのです。ぜひ領内に学校を作らせてくださいと。

なるほどそうだと、有馬晴信は受け入れます。

こうして天正8年(1580)日本最初のイエズス会の中等教育機関・有馬セミナリヨが創設されました。セミナリヨでは宗教だけでなくラテン語・日本文学・音楽・美術など広く教えました。

そして有馬セミナリヨが創建されたと同じころ、安土では織田信長の保護の下、安土セミナリヨが創建されていました。

有馬セミナリヨに学んだ伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアンの四人の少年は、天正10年(1582)、天正遣欧使節団海を渡り、ローマ教皇に謁見しました。

その後も有馬セミナリヨは日本におけるキリスト教布教の一大中心地となるかに見えました。しかし慶長19年(1614)、徳川家康により禁教令が出されると閉鎖されました。

以後、生徒たちは潜伏して隠れキリシタンになったり、国外に逃れたりしました。

有馬セミナリヨ址からさらに坂道を上ると、日野江城址に行きつきます。


戦国大名有馬氏の居城・日野江城址です。

鎌倉時代の建保年間(1213-19)有馬氏によって築城されました。


戦国時代。有馬晴信は戦国武将として勢いをのばし、肥前21万石の大名にまで成長しました。日野江城はその本城として機能しました。


しかし。慶長17年(1612)有馬晴信は贈賄と長崎奉行への恐喝(岡本大八事件)によって失脚します。ついで慶長19年(1614)晴信の息子・直純が延岡に転封になります。

有馬氏にかわって松倉重政がこの地に入り島原城を築くと、一国一城令により日野江城は廃城となり、その歴史に幕を下ろしました。

原城址

日野江城址を後に、島原街道をさらに南下していきます。見えてきました。

原城の二の丸址です。


桝形虎口を通って、石段を上り切ると、本丸です。


原城は明応5年(1496)有馬氏8代当主・有馬貴純の築城と伝えられます。有明海に突き出した岬の上に位置する天然の要害です。有馬貴純は日野江城を本城、とし、原城を支城としました。

以後、有馬直純の代まで118年間続きました。

有明海を背景に原城が朝日夕日に照り映えるさまは、一日中見ていても飽きず、日が暮れるのも忘れるほどだったことから、日暮城(ひぐらじょう)とも呼ばれました。

有馬氏の後、松倉氏が入って来て島原城を築くと、一国一城令により日野江城も原城もともに廃城となりました。

島原の乱

寛永14年(1637)10月末。島原のキリシタンを中心とした領民が、過酷な取り立てとキリシタンへの弾圧に耐えかねて、一揆をおこします。

彼らは幕府側の代官を殺害し、島原城に迫りました。

同じ頃、海を隔てた天草上島でも一揆が起こります。島原の一揆と連動しての武装蜂起でした。

この出来事を島原の乱、もしくは島原・天草一揆といいます。

幕府は鎮圧のため、板倉重昌を九州に派遣。

一揆勢は島原城・富岡城の包囲を解き、島原南部の原城に立てこもります。その勢3万7千。

12月8日、板倉重昌は島原の松倉氏、肥前の鍋島、久留米の有馬、柳川藩の立花などを率いて、原城に攻撃にかかります。しかし。


一揆勢は思いのほが抵抗はげしく、その上幕府側は統制が取れず、それぞれが出柄を立てようとして先駆けするしまつ。てんでバラバラでした。


ついに司令官の板倉重昌も戦死してしまいます。


翌寛永15年(1638)新しい司令官・松平伊豆守信綱が派遣されてきます。「知恵伊豆」の異名を取る、将軍徳川家光の懐刀です。


「知恵伊豆」松平伊豆守のもと、幕府軍は12万6000の軍勢で原城を包囲。のべ88日間にわたる籠城戦の末に、一揆勢を全滅させました。

天草四郎時貞はじめ天草・島原の一揆勢3万7千はすべて殺されました。

出土する人骨

平成8年(1996)から行われている発掘調査で、無数の人骨が出土しています。遺体はロザリオやメダイをつけていることから、島原の乱で死んだキリシタンのものとわかります。

メダイとは信仰の証のペンダントのようなもので、キリストや聖母マリア、聖人の絵が刻んであります。

遺体は大きな石の下に敷かれ、胴体を切断されているものもありました。キリシタンは死後復活するという恐れられていたため、そのような処置を行ったのかもしれません。

宮本武蔵の参戦

ところで島原の乱に参加した、有名な剣豪がいます。

宮本武蔵です。

宮本武蔵は島原の乱に、豊前中津の小笠原勢の騎馬武者として参加しました。

また武蔵の養子の伊織は中津藩の本家筋にあたる小倉小笠原藩の家老として2500石の扶持を受けており、島原の乱には侍大将として参加しています。

中津小笠原藩主・小笠原長次はこれが初陣でしたので、武蔵は藩主の周りで19騎を率いて、小倉藩と連携を取りながら護衛しました。

2月27日28日の原城総攻撃にも武蔵は前線で活躍したようで、一揆軍の石が当たってすねを怪我したという書状が残っています。

湯島・天草四郎の墓・天草四郎像

本丸に立って有明海をながめます。






むこうに見える島は湯島。


島原の乱の前、天草四郎時貞以下、天草・島原のキリシタンたちが集まって作戦会議を持ったと言い伝えられています。そのため、談合島とも言われます。


本丸には、民家の石垣に埋もれていた天草四郎の墓、


北村西望作・祈りをささげる天草四郎像があります。


原城は凄惨な歴史の舞台だけあって心霊スポットとしても有名です。私はそういう感覚がまったくないのでわかりませんでしたが、感じる人は感じるかもしれません。

帰り道、畑のところ、モソモソなんか動いてると思ったら、タヌキでした。


上から丸見えの、とても視界がいいところなのに。何の危機感もなく歩いている…キミちょっと、野生動物として大丈夫かねって言いたくなりました。

というわけで、本日は「島原の乱」の舞台 長崎県島原に、
島原城、有馬のセミナリヨ址、日野江城址、原城址を歩きました。

島原は海の幸もおいしく、歴史も深く、いろいろな発見があります。
九州に訪れた時には、ぜひ歩いてみてください。

次の旅「名護屋城を歩く

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