西御門・二階堂を歩く(一)畠山重忠邸跡・源頼朝の墓・大蔵幕府跡・来迎寺

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本日は「鎌倉 西御門・二階堂を歩く(一)」です。

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西御門・二階堂は、鶴岡八幡宮の東に広がるエリアです。源頼朝はこのあたりに最初の御所…大蔵(倉)幕府を築きました。その北の端には源頼朝の墓が立ち、東には頼朝が奥州の中尊寺を意識して築いた永福寺の跡、菅原道真を祀る荏柄天神社、さらに、後醍醐天皇の皇子大塔宮を祀る鎌倉宮、代々の鎌倉公方の菩提寺であり書院庭園で有名な瑞泉寺など、景色の美しさも、歴史的背景においても、見どころいっぱいのエリアです。

畠山重忠邸跡

鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場の東の鳥居を出ると、目の前に畠山重忠邸跡の碑があります。


畠山重忠は武蔵国の豪族で、勇猛果敢で清廉潔白。坂東武者の鑑のような人物と言われます。源頼朝挙兵時は平家方として大庭景親に随い、頼朝と敵対しましたが、ほどなく頼朝に降伏。

一の谷の逆落としの際は、源義経の配下にあって、馬を傷つけるのは忍びないと、馬をかついでガケを駆け下りたエピソードが有名です。

平家滅亡後も鎌倉幕府の有力御家人として重きをなしていましたが、頼朝没後は北条時政ににらまれ、謀反を企てていると讒言されました。元久2年(1205年)、六男の畠山重保は由比ヶ浜で騙し打ちにあって討たれ、

畠山重忠は武蔵国の領地から鎌倉へ向かう途中、武蔵国二俣川(神奈川県横浜市旭区)で鎌倉方の軍勢と合戦になります。

「かかれーーっ」
「攻めろーーーっ」

ワアーーーッ

弓矢の戦い、刀剣の戦い、4時間に及ぶも、圧倒的な幕府軍の前に、畠山勢はあそこに、ここに討たれていく。その中にも、

「まだまだ、わしは戦える!」

鬼神のごとく敵をけちらす畠山重忠。しかし

ひょーーーう、

ふつうっ

飛んできた遠矢が畠山重忠の体を射ぬき、

ぐはっ。

どたーーっ。

ついに畠山重忠は落馬し、首かっ切られてしまいました。謀反など、もっとも遠い清廉潔白な人物だったのに、北条時政ににらまれ、陥れられた、ああ畠山重忠の、そのまっすぐな人柄をしのびつつ、閑静な住宅街の中を歩いていくと、



見えてきました。源頼朝の墓の入り口です。


源頼朝は平治元年(1160年)平治の乱で父義朝が討たれ、14歳の頼朝は伊豆に流されましたが、20年目の治承4年(1180年)打倒平家を呼びかける後白河法皇第三皇子以仁王の令旨を受けて伊豆で決起。鎌倉に入り、大蔵幕府を築き、ここを拠点として元暦2年(1185年)壇ノ浦に平家一門を亡ぼしました。

正治元年(1199年)頼朝が没すると、そのなきがらは、この山のふもとにあった法華堂に葬られました。頼朝公の遺骸をおさめた法華堂は、以後鎌倉の御家人たちの間で信仰の対象となります。

長い石段を登ると、素朴な石塔が立っています。源頼朝の墓です。その質素で素朴であることに、驚きます。


現在残っているこの石塔は薩摩藩主・島津重豪(しまづしげひで)が再建したものと言われます。

もともとの墓は、この山のふもとの持仏堂にありましたが、明治初年の神仏分離令で廃され、その跡地には、白旗神社(しらはたじんじゃ)が建てられています。

御覧ください。墓の台の所に、島津家の家紋「丸に十の字」が見えますね。


なぜ源頼朝と島津家が関係してくるのか?実は幕末に討幕の原動力となったあの薩摩の島津家と長州の毛利家、それぞれの初代は、いずれも源頼朝に仕えた御家人なんですね。

島津氏のはじまりは、伊豆の流人時代の頼朝を援助していた比企尼(ひきのあま)の孫である島津忠久です。島津忠久の実家・比企氏は「比企の乱」で北条氏に滅ぼされ、比企氏の日向・薩摩の領土も北条家のものになりましたが、南北朝時代には島津氏に戻りました。そして戦国時代の、あの島津氏につながっていくことは、よく御存知の通りです。

そんな縁があって、徳川時代に、第8代薩摩藩藩主・島津重豪が鎌倉に頼朝の墓を整備したわけです。

そして毛利氏初代・毛利季光(もうりすえみつ)は、源頼朝のもとで知恵袋として活躍した大江広元(おおえのひろもと)の四男です。だから長州も、鎌倉と源頼朝には縁が深いんです。

十一代将軍徳川家斉の文政年間、長州藩家老村田清風は鎌倉を訪れ、大江広元・毛利季光父子の墓を整備しました。

幕末には吉田松陰が鎌倉を訪れ、叔父が住職をしていた瑞泉寺に滞在し、大江広元・毛利季光父子の墓や源頼朝の墓を参りました。長州と鎌倉とのつながりを示す興味深いエピソードですね。現在、瑞泉寺の境内に吉田松陰の石碑が立っています。

墓を前にすると、こんなふうに色々な方面に考えが飛び、時がたつのを、忘れます!これが、墓歩きの楽しさです!

大蔵幕府跡・西御門跡・東御門跡

頼朝の墓のやや南、清泉(せいせん)小学校の前に大蔵幕府跡の碑が立っています。


治承4年(1180年)8月、伊豆で打倒平家の旗揚げをした源頼朝は、同年10月、鎌倉に入り、ここ大倉の地を拠点と定めます。

当初は父義朝の館のあった亀ヶ谷の地、現在の寿福寺のあたりに御所を建てる計画もあったようなんですが、手狭なことと、すでに義朝の菩提を弔う寺院があったために、ここ大倉の地を選びました。そして2ヶ月後の12月には、御所が完成していました。

これが、鎌倉幕府最初の御所。大蔵(大倉)御所です。東西約270メートル。南北約200メートル。

大倉幕府の西御門と東御門の場所を示す石碑も、現在、それぞれの位置に立っています。


清泉小学校の前の大蔵幕府跡とあわせて、三つとも歩いて、大蔵幕府の大きさを足で実感したい所です。

東御門の石碑の横には地元の清泉小学校の生徒さんがまとめた、大倉幕府や頼朝についての研究発表が貼ってありました。

こういうのは、いいですね。ああ、勉強してるなと、その姿が浮かんできて、ウキウキしてしまいます。

大倉幕府は頼朝没後の承久元年(1219年)火事で焼失します。その後しばらく小町の北条義時邸を仮の御所としましたが、三代執権北条泰時の時にまず宇都宮辻子幕府(1225年)、次に若宮大路幕府(1236年)に遷されました。

それぞれの場所は、

北条義邸は小町の宝戒寺あたりと言われ、宇都宮厨子幕府の碑はカトリック雪の下教会横の細い道を入った所にあります。そして若宮大路幕府跡の碑は雪の下の大佛次郎邸の前に立っています。

さて西御門跡の碑から北に歩いてきます。住宅街の中を延々歩いていくと、右に「来迎寺」の案内があるので曲がります。


来迎寺は時宗の寺院です。



時宗の祖・一遍上人は伊予の河野氏の出身ですので、寺のあちこちに河野氏のそして時宗の紋である「墨切角に三の字(すみきりかくにさんのじ)」が見えます。


インターホンを押すと、本堂内に入れてくれます。中央に阿弥陀如来像。左に地蔵菩薩像。右に如意輪観半跏像。特に、木像の衣類の上に粘土を押し付けて装飾品をあらわす、「土紋」という鎌倉特有の様式は、しっかり観察したいポイントです。

人もいないので、ゆっくり見れるかな~と思ってたんですが、後ろで寺の人がじーーっと監視してるので、落ち着かなかったです……

次回は、「鎌倉 西御門・二階堂を歩く(ニ)」菅原道真公を祀る荏柄天神社。悲劇の皇子・大塔宮護良(おおとうのみやもりなが・もりよし)親王を祀る鎌倉宮・北条貞時が二度とモンゴル襲来が起こらないようにと祈願して寺とした覚園寺(かくおんじ)を訪ねます。お楽しみに。

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