西御門・二階堂を歩く(三)鎌倉宮・覚園寺・護良親王の墓
本日は「鎌倉 西御門・二階堂を歩く(三)」です。
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西御門・二階堂は、鶴岡八幡宮の東に広がるエリアです。源頼朝はこのあたりに最初の御所…大蔵(倉)幕府を築きました。その北の端には源頼朝の墓があり、東には頼朝が奥州の中尊寺を意識して築いた永福寺(ようふくじ)の跡、荏柄天神社(えがらてんじんしゃ)、さらに、後醍醐天皇の皇子大塔宮を祀る鎌倉宮(かまくらぐう)、代々の鎌倉公方の菩提寺であり庭園で有名な瑞泉寺など、景色の美しさも、歴史的背景においても、みどころいっぱいのエリアです。
鎌倉宮
前回のつづきです。
荏柄天神社を後に、鎌倉宮の参道を歩いていきます。
見えてきました。鎌倉宮の、白い大鳥居です。
鎌倉宮は後醍醐天皇の皇子・大塔宮護良(もりなが)親王を祀り、明治2年(1869年)に創設された神社です。毎年秋に行われる薪能でも有名です。
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の皇子。比叡山で天台座主を務めていましたが、父後醍醐天皇の討幕の動きに応じて挙兵。討幕に大きな働きをなしました。
鎌倉幕府滅亡後の建武政権では征夷大将軍・兵部卿に任じられますが、やがて足利尊氏(高氏)と対立。その讒言により、土牢に9ケ月幽閉の後、殺害されました。
※ちなみに現在、「もりよし」親王と読むのが一般的です。文部科学省の検定に通ったすべての教科書で「もりよし」親王と表記されています。
しかし、宮内庁は依然として「もりなが」親王としており、鎌倉宮境内の案内板にも「もりなが」親王とルビが振ってあります。
当左大臣プロジェクトでも「もりよし」親王説を採っていますが、ここでのみは、鎌倉宮と宮内庁に敬意を表して、あえて「もりなが」親王としてお話していきます。
村上義光の撫で身代わり
まずは本堂で参拝します。
すぐに大塔宮の土牢に向かいたい所ですが、ここで右手を見ると、「身代わりさま」なる武士の像があります。何でしょうか?
大塔宮護良親王に仕えていた村上義光という武士がいました。元弘3年(1333年)、鎌倉幕府方に吉野を攻め落とされた護良親王は、もはやこれまでと覚悟を決め、別れの酒宴を開きます。そこへ、
「殿下、早まってはなりませぬ!義光が、身代わりになります」
駆けこんできた村上義光の鎧には、矢が十六本立っていました。村上義光は、大塔宮の錦の鎧をお脱がせし、それを自分が着ると、「我こそは大塔宮護良親王。これぞ自害する手本。とくと見よ」ずぶっ、ずぶぶっ…腹を一文字にかっ切って、果てました。そのスキに大塔宮は逃げることができた、という話です。
この話に基づき、本堂右手に欅の木で彫った村上義光の「撫で身代わり」があります。自分や家族の体の弱っている部分を撫でると、身代わりになってくれるということです。
護良親王御土牢
では、本堂左手の入り口から、護良親王が幽閉されていたという土牢に向かいます。
大塔宮護良親王は後醍醐天皇の皇子。比叡山で天台座主を務めていましたが、父後醍醐天皇の討幕の動きに応じて還俗し、挙兵。楠正成らとともに討幕に大きな働きがありました。
鎌倉幕府滅亡後の建武政権では征夷大将軍・兵部卿に任じられますが、やがて足利尊氏(高氏)と対立。父後醍醐天皇とも不和になります。ついに足利尊氏は、訴えます。
「大塔宮は、皇位を簒奪し、みずからが天皇になろうとしています」
「なんと」
とういうわけで、建武元年(1334年)大塔宮は父後醍醐天皇によって捕えられます。そして京都から鎌倉へ送られ、足利尊氏の弟・直義の監視のもと、土牢に幽閉されました。
翌建武2年(1335年)北条高時の息子・北条時行が鎌倉幕府復活をめざして反乱を起こします。中先代の乱です。この時、足利尊氏にとっての懸念は、北条氏の残党が大塔宮を担ぎ出して将軍とし、鎌倉幕府の復活をはかることでした。
そこで足利尊氏の弟・足利直義は配下の武士・淵辺伊賀守(ふちべいがのかみ)を護良親王の幽閉されている土牢に送りこみます。
この時、大塔宮は一日中闇夜のような土牢の中で、朝が来たのも知らず読経していましたが、淵辺伊賀守の輿が庭に止まり、淵辺が土牢の中に入って来ると、
「お前は、私を殺しにきた使いだなッ」
バッ、
淵辺の太刀につかみかかろうとするも、淵辺は帯びていた太刀を持ち直し、
バシイーーー
宮の左の膝頭を叩く。
ぐはああっ
宮は9ケ月にわたるの狭い土牢生活のために力が出ず、ううと倒れたその胸の上に、淵辺は馬乗になり、腰の短刀を抜いて
ぶんっ
振り下ろすも、
がちーーーっ
「なっ!!」
「ぐぬぬ」
宮は咄嗟に首を起こして歯でこれを受け止め、離せ離さぬ。じたばた、じたばた、する内に、
バキン
短刀のきっ先が折れたので、
淵辺は短刀をからりと投げ捨て、ええい。今度は脇差を振り上げると、
すぷっ、すぷっ、
ぐはああああっ
宮の胸を二度、尽き刺し、宮が弱った所を
髪の毛をひッつかんで首を起こし、ずぶっ、ずぶぶぶっと
首掻っ切りました。
「はあはあ、ついにやった」
淵辺は牢の外に出て明るい所で宮の首を見ると、目は生きているようにらんらんと輝き、口の中には短刀のきっ先が入ったままでした。
「このような首を主君に見せるわけにはいかぬ」
そう呟いて淵辺は、首を草むらの中に投げ捨てました。
「ああ…宮さま!なんということ…」
大塔宮の身のまわりの世話をしていた南の方(みなみのかた)という女性が、この一部始終を目撃していました。しかし足がすくみ、どうすることもできませんでした。
「だめだめ。しっかりしなきゃ」
南の方が大塔宮の首を取り上げてみると、まだ生暖かく、表情は生きているようでした。
「ああ…これは夢かしら。夢なら覚めてほしい」
泣き崩れる南の方!
さて、鎌倉宮の大鳥居前から、北へ向かいます。閑静な住宅街の中をしばらく歩くと、
見えてきました。覚園寺(かくおんじ)。真言宗の寺院です。
覚園寺の前身は二代執権北条義時が開いた大倉薬師堂と言われます。その後、9代執権北条貞時が、二度とモンゴル襲来が起こらないようにと願いをこめて寺としたと伝えられます。
鎌倉時代を通して北条氏の保護を受け、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に、また鎌倉公方に信仰され、後には小田原北条氏の保護も受けました。
御本尊の薬師三尊座像と、それを取り巻くように配置された十二神将立像(じゅうにしんしょうりゅうぞう)は必見です。その十二神将のうち、戌神将(いぬしんしょう)について、エピソードがあります。
建保7年(1219年)、三代将軍源実朝の右大臣拝賀式の夜、二代執権北条義時は太刀持ち役をつとめていました。その時義時は雪の中に、白い犬の姿を目にしました。「う…」急に気分が悪くなった義時。今夜の太刀持ち役はムリということでお役を源仲章にまかて、自分は小町の家に引き返しました。
まさにその直後、実朝は甥であり鶴岡八幡宮別当の公卿に殺され、太刀持ちをしていた源仲章も殺されたのでした。北条義時はその報告を受け、「あの白い犬は戌神将の化身だったのだ。私を守ってくれたのか…」
そんな話が『吾妻鏡』に記されています。北条義時はこの時の戌神将の御神徳に感謝して、この地に大倉薬師堂を建て、それが後に9代執権北条貞時によって寺とされた、ということです。
護良親王の墓
さて、鎌倉宮まで立ち返り、今度は鎌倉宮南側の道を東に向けて歩いていきます。
少し行って右に折れ、二階堂川を渡り、
少し歩くと、見えてきました。大塔宮護良親王の墓です。
大塔宮護良親王の首はくさむらの中に投げ捨てられましたが、後に理智光寺の住職の手に渡り、手厚く葬られました。それがこのあたりと伝えられます。ただし理智光寺は明治時代に廃寺となり、現在は石碑が残るのみです。
長い石段の上に、
玉垣に囲まれた大塔宮護良親王のお墓があります。しっかりと手をあわせていきましょう。
次回は「鎌倉 西御門・二階堂を歩く(四)」源頼朝が奥州平泉中尊寺の二階堂大長寿院を模して築いた、永福寺の跡、代々の鎌倉公方の菩提寺であり庭園で有名な瑞泉寺を訪ねます。お楽しみに。
本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。
次の旅「西御門・二階堂を歩く(四)」