ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説

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こんにちは。左大臣光永です。
そろそろ湿ったらしい季節に入りますが、
いかがお過ごしですか?

私は先日、千葉の富津や木更津などに
取材旅行に行ってきました。日曜日の海ほたるは人が多く、
ぶつからずに歩くのが疲れました。

というわけで本日は
「ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説」です。

▼音声が再生されます▼


千葉県北西部には、
ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説にまつわる場所が
多く残ります。

ヤマトタケルは父・景行天皇に命じられて東国遠征に向かいました。
その途上、走水の海(浦賀水道)を通り上総(千葉県)へ抜けようとした時、
烈しい暴風雨となり、まったく船が進めなくなりました。

このままでは全員海の藻屑となってしまう!
その時、ヤマトタケルの妻・オトタチバナヒメが申し出ました。

「私が海に沈み、海の神の怒りを鎮めましょう」
「ばかな。何を言い出すのか!」
「他に方法がありますか!」
「………」

そんなやり取りも、あったかもしれません。
ヤマトタケルは、結局、妻オトタチバナヒメの申し出を受け入れます。

いよいよ海に身を投げるという時、
夫・ヤマトタケルの方を振り返りオトタチバナヒメは歌を詠みます。

さねかし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の
火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

これより以前、
ヤマトタケルは相模国(さがむのくに)で敵に騙され、
野の真ん中で四方から火を放たれ、
絶体絶命の危機に立たされたことがありました。
その横には、オトタチバナヒメの姿もありました。

歌の意味は、あの時、炎が燃える相模の野にあって、
私の名前を呼んでくれた、
あなたのことを忘れないというものです。

歌を詠み終えると
オトタチバナヒメはざんぶと海に飛び込みます。
ほどなく嵐はやみ、おだやかな天気となり、
船は岸に着くことができました。

数日後、ヤマトタケルが海岸を歩いていると、
何か、討ち上げられているものがあります。
駆け寄ってみると、…亡きオトタチバナヒメの袖でした
(『古事記』では櫛)。

「ああ…愛する妻よ…」

ヤマトタケルは妻の袖を握りしめ、
涙にむせび、歌を詠みます。

君さらず 袖しが浦に 立つ波の
その面影を みるぞ悲しき

この歌の「君さらず」が転じて「木更津」「君津」に、
「袖しが浦」が転じて「袖ヶ浦」という
地名になったと言われます。

また別の説には、
オトタチバナヒメを失ったヤマトタケルが、
悲しみのあまりしばらくこの場に留まったことから
「君不去(君、去らず)」が転じて
「木更津」になったとも言われます。

その後、足柄山に登ったヤマトタケルは、
はるか東の海をのぞんで妻オトタチバナヒメのことを思い出し、
「吾妻はや(わが妻よ)」と絶唱しました。
ここから、足柄山より東の地域を「吾妻」と言うようになりました。

千葉県北西部には、
オトタチバナヒメの伝説にまつわる場所が多く残ります。

木更津市富士見の八釼八幡(やつるぎはちまん)神社は、
ヤマトタケルを、
木更津市吾妻の吾妻神社は
オトタチバナヒメをまつった神社です。

「富津」は、古くは「布留津」と書き、
オトタチバナヒメの袖が流れ着いたことや、
ヤマトタケルがこの場に留まったことを指しているという説があります。

ヤマトタケルとオトタチバナヒメの伝説に思いを馳せながら、
海岸を散策してみるのも、いいのではないでしょうか。

では、『古事記』の原文でどうぞ。

其(そこ)より入り幸(いでま)して、走水海(はしりみずのうみ)を
渡りし時に、其の渡の神、浪を興し、船を廻(めぐら)せば、
進み渡ること得ず。爾(しか)くして、其の后、名は弟橘比売命、
白ししく、

「妾(あれ)、御子(みこ)に易(かわ)りて、海の中に入らむ。
御子は、遣(つかわ)さえし政(まつりごと)を遂げ、
還奏(かえりもうす)べし」

とまをしき。

海に入らむとする時に、菅畳(すがたたみ)八重・皮畳八重・
キヌ畳八重を以(もち)て、浪の上に敷きて、其の上に下(お)り坐(ま)しき。
是(ここ)に、其の暴浪、自ら伏(な)ぎて、御船、
進むこと得たり。爾(しか)くして、其の后の歌ひて曰はく、

さねかし 相模(さがむ)の小野に 燃ゆる火の
火中に立ちて 問ひし君はも

故(かれ)、七日(なぬか)の後に、其の后の御櫛(みくし)、
海辺(うみへ)に依(よ)りき。乃(すなわ)ち其の櫛を取り、
御陵(みはか)を作りて、治め置きき。

同じ場面が、『日本書紀』ではだいぶ状況が違っています。

亦(また)相模(さがむ)に進(いでま)して、上総(かみつふさ)に
往(ゆ)かんむと欲(おも)ひ、海を望みて高言(ことあげ)して曰はく、
「是(これ)小(ちいさき)海のみ。立跳(たちはしり)にも渡りつべし」
とのたまふ。

乃(すなわ)ち海中(わたなか)に至り、
暴(あからし)風(まかぜ)忽(たちま)ちに起こり、
王船(みふね)漂蕩(ただよ)ひて渡るべくもあらず。

時に、王(みこ)に従ひまつる妾(おみな)有り。
弟橘媛(おとたちばなひめ)と曰ふ。
穂積氏(ほづみのうじの)忍山(おしやまの)宿禰(すくね)が女(むすめ)なり。
王に啓(もう)して曰(もう)さく、

「今、賤しき妾(やっこ)が身を以ちて、王の命(みいのち)に贖(か)えて
海に入らむ」とまをす。

言(もうすこと)訖(おわ)りて、乃(すなわ)ち
瀾(なみ)を披(おしわ)けて入る。

暴(あからし)風(まかぜ)即(すなわ)ち止み、船岸に著(つ)くこと得たり。
故(かれ)、時人(ときのひと)、
其の海を号(なづ)けて馳水(はしりみず)と曰(い)ふ。

…このように、『古事記』と『日本書紀』でかなり状況がちがうことに
気付くと思います。両方、見比べながら読むと、
いろいろ発見があり、面白いです。

本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。

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