近江八幡を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

上賀茂で熊本ラーメン食べてきました。熊本ラーメンというと、ガッツリした麺の存在感、ツンと鼻をつく強烈なスープのニオイ、遠慮ない塩辛さ…とにかく線が太い印象を私は持ってるんですが、そういう点をふまえつつ、京都好みのあっさりしたアレンジが加えられていて面白かったです。

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本日は滋賀県の近江八幡を歩きます。

近江八幡は秀吉の養子・豊臣秀次が開いた町で近江商人発祥の地の一つです。

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八幡堀

秀次が開いた八幡堀という運河があり、現在、観光船がゆったりと行き交っています。建築家ヴォーリズによる西洋建築と古き近江商人屋敷が混在し、風情ある町並みをなしています。

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朝鮮人街道道標

JR琵琶湖線・近江八幡駅下車。

JR琵琶湖線・近江八幡駅

近江鉄道バスに乗り、バス停「小幡上筋(おばたかみすじ)」下車。徒歩3分。大通りから右の小道に入ります。道端に朝鮮人街道道標があります。

朝鮮人街道道標

朝鮮通信使は15-19世紀、将軍の代替わりごとに朝鮮国王の国書をもって朝鮮から派遣された使節団です。足利時代からありましたが、羽柴秀吉の朝鮮出兵により中断。その後徳川家康の時、復活。江戸時代を通じて将軍の代替わりごとに来日しました。狭義には「江戸時代の」朝鮮通信使を朝鮮通信使といいます。

役人・文人・学者など、多い時は500人を越え、一年以上にわたって滞在しました。朝鮮・日本双方にとって負担となったためしだいに縮小し、1811年に廃止されました。

彦根から野洲までの一部の地域で、今も「朝鮮人街道」と呼ばれています。

道を進んで角のところに旧伴家住宅と郷土資料館が向かい合っています。

旧伴家住宅。

旧伴家住宅

江戸時代初期の豪商・伴庄右衛門が本家として建てた商家です。伴庄右衛門は屋号を「扇屋」といい畳表・蚊帳・扇子・麻織物を商い、京都・大坂にも出店を構え、やがて江戸日本橋に大店を構え、為替業務・大名貸しもやりました。

旧伴家住宅

しかし江戸時代末期に家運が傾き、明治に入ると商売をたたみ、家も断絶しました。

旧伴家住宅

その後、伴家は八幡役場や学校、図書館として使われました。平成16年、明治時代に学校として使われていた状態で復元されました。

旧伴家住宅

広大な土間、三階までの吹き抜け、2階には45畳敷の大広間、3階の「地震の間」とよばれる用途不明の部屋、そして各部屋の歴史展示物が見どころです。

郷土資料館

旧伴家住宅の真ん前にあるのが郷土資料館です。

近江八幡 郷土資料館

古代~近世にいたる近江八幡の歴史説明と展示物があり、近江八幡の歴史をざっくり頭に入れることができます。

近江商人の中でも豪商とされる森五郎兵衛の控え宅とされる建物です。

近江八幡 歴史民俗資料館

近江商人の家訓、道具、日常品が展示され、近江商人の息吹に触れることができます。

近江商人とは

近江商人とは中世から近世にかけて活動した近江出身の商人です。近江に本店を置いて天秤棒一つかついで全国に出かけ、商売しました。中にも近江八幡の「八幡商人」は、近江商人の発祥の一つとされます。

近江商人は神仏への信仰あつく、質実剛健・質素倹約を旨に、信用を重んじました。「売り手よし、買い手よし、世間よし」は近江商人の心意気を示した言葉として有名です。売り手も買い手もトクをして、しかも商いを通じて世の中をよくしていくということです。

また「利真於勤(利は勤むるに於いて真なり)」ともいいます。真の利益とは地道に仕事に取り組んだ結果得られたものだけだと。人を騙す商売などとは正反対なのです。

現在の大丸や高島屋、伊藤忠商事も近江商人の流れをくみます。

歴史民俗資料館を出ると新町通りです。近江商人屋敷が立ち並び風情ある町並みです。

近江八幡 新町通り

近江八幡 新町通り

近江商人の伝統と心意気を感じながらのんびり歩いていくと…

旧西川家住宅

旧西川家住宅があります。

近江八幡 旧西川家住宅

近江商人の豪商・西川利右衛門(りえもん)の本宅です。母屋の居室と店の間が公開され、近江商人屋敷の雰囲気を知ることができます。

近江八幡 旧西川家住宅

新町通りを北に、突き当りまで歩くと、八幡堀です。

八幡堀

天正13年(1585年)秀吉が関白となったのに伴い、秀吉の姉の息子・18歳の豊臣秀次は近江43万石の領主となりました。

八幡堀

秀次は八幡山(はちまんやま)に八幡城(はちまんじょう)を築き、城下町を整え、旧安土城下の商人や職人を招き入れ、楽市・楽座制度を行い商工業を盛んにしました。

八幡堀

また秀次は八幡山山麓の低地を開削して運河「八幡堀」を開き琵琶湖を往来する船を八幡城下に導き入れ、水運を盛んにしました。

八幡堀

天正18年(1590)秀次は尾張清須に転封となり、かわって京極高次が八幡城主となります。翌天正19年(1591)秀次は関白の宣下を受け秀吉の跡継ぎとなり、京都における秀吉の居城・聚楽第を譲り受けます。

八幡堀

ところが文禄4年(1595)、秀次は秀吉から謀反の疑いをかけられ、自刃に追い込まれました。秀次の妻子・愛妾39名も京都三条河原で処刑されました。京都の聚楽第も、近江の八幡城も廃城となりました。

八幡堀

しかし八幡城廃城後も八幡堀は活用され続けました。その水運は、近江商人の一派「八幡商人」が活躍する基盤となりました。

八幡堀

八幡堀は昭和30年代にはすっかりドブ川のようになっていましたが、市民の清掃活動より美しい水路として蘇りました。

八幡堀

現在も写真や絵画の愛好家が多く訪れ、時代劇の撮影にもよく使われ、市民の、観光客の、憩いの場となっています。

八幡公園

また今回のコースからは外れますが、八幡堀の北方に八幡公園があります。八幡山のふもとの公園です。八幡城の石垣が、よく残っています。

八幡公園 八幡城の石垣

八幡公園 八幡城の石垣

秀次の像が立ち、近江八幡の町並みを見下ろしています。

八幡公園 豊臣秀次像

どうしてこの人が無残な死を迎えなければならなかったのか…つくづく考えさせられます。

八幡堀をわたった先は広大な日牟禮八幡宮の境内です。近江商人から熱心に信仰された神社です。

日牟禮八幡宮

日牟禮八幡宮

日牟禮八幡宮

日牟禮八幡宮

日牟禮八幡宮

安南(ベトナム)貿易で活躍した西村太郎左衛門が奉納した絵馬が社宝として納められています(公開されているのはレプリカ)。

日牟禮八幡宮 西村太郎左衛門が奉納した絵馬(レプリカ)

西村太郎左衛門は近江商人の豪商で、安南にわたって財をなしました。やがて帰国を願うも鎖国令のため許されず、絵師に絵馬を描かせて日本に送りました。

日牟禮八幡宮では3月中旬の左義長(さぎちょう)まつりと4月中旬の八幡(はちまん)まつりという二大祭りが有名です。

左義長まつりは各町内の氏子が左義長(山車)をかついで練り歩き、日牟禮八幡宮の境内で燃やします。もとは安土で行われていた祭の名残です。

日牟禮八幡宮 左義長

日牟禮八幡宮 左義長 

八幡まつりは各町内で作った巨大な葭(ヨシ)の松明に火をともします。応神天皇が行幸した際、葭に火をともしてお迎えしたという故事に基づきます。

日牟禮八幡宮 葭

日牟禮八幡宮 葭

八幡山

日牟禮八幡宮の境内を抜けると、八幡山に登るロープウェーがあります。

八幡山 ロープウェー

八幡山 ロープウェー

乗ります。しだいに近江八幡の町の全景が見えてきます。いい気分です。

約5分。つきました。山頂駅です。ここから八幡山山頂まで登っていきます。

そこかしこに八幡城の石垣跡があります。

西の丸阯から琵琶湖と比良山系を見わたし…

北の丸阯に来ました。おお…城が今も生きています。西の湖と安土城阯が見えます。

風がさわやかです。高いだけあって涼しいんですよ。7月半ばというのにアジサイが咲いてました。

八幡山山頂にあるのが村雲瑞龍寺門跡。

村雲瑞龍寺門跡

村雲瑞龍寺門跡

秀次の菩提を弔うために母日秀尼が後陽成天皇の勅許を受けて、京都嵯峨野村雲に建立した寺院です。村雲御所とよばれ、日蓮宗で唯一の門跡寺院でした。江戸時代の火事で西陣に移され、昭和37年(1962)ここ八幡城本丸跡に移されました。

本堂内部は京都御所と同じく御所造りで、狩野派絵師による絵が描かれています。

近江八幡はほんとうに美しい町です。ゆるやかに流れる八幡堀、風さわやかな八幡山、歴史ある近江商人屋敷の数々…それにしても豊臣秀次はなぜ悲惨な死を迎えなければならなかったのか。つくづく考えさせられます。

次回は京都将軍塚に登ります。お楽しみに。

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第三回目。小倉百人一首の歌を会場の皆様と
ご一緒に声を出して読み、解説していきます。
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よろしくお願いいたします。

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