宮本武蔵ゆかりの霊巌堂・武蔵塚を訪ねる
こんにちは。左大臣光永です。強い寒波が迫っていますね!特に日曜日は大変な寒さになりそうです。食料のたくわえは、万全ですか?私も、23日は、部屋にひきこもる覚悟で、乾パンなど買い込んできました。
さて本日は、宮本武蔵が晩年『五輪書』を執筆した霊巌堂(れいがんどう)と、武蔵ゆかりの引導石(いんどうせき)、そして武蔵の墓と伝えられる、武蔵塚をご案内します。
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二刀流の達人として知られる宮本武蔵は、寛永17年(1640年)57歳の時、初代細川家肥後藩主・細川忠利に客分として招かれ、熊本城東部・千葉城に屋敷をかまえました。
しかし1年たらずで細川忠利は急逝。武蔵は、主君忠利の三回忌にあたる寛永20(1643)、熊本・金峰山山麓の霊巌堂にこもり、兵法の極意を記した『五輪書』をあらわします。
雲巌禅寺・霊巌堂
雲巌禅寺
熊本市の西にそびえる金峰山。その西の山麓にある雲巌禅寺の裏山に霊巌堂はあります。
山道を進んでいくと、見えてきました。雲巌禅寺です。のんびりした田園風景の中に、たたずんでいます。
雲巌禅寺は、南北朝時代、元の禅僧で日本に帰化した、東陵永ヨ(とうりょうえいよ)が建立したと伝えられる、曹洞宗の寺院です。
九州西国三十三観音霊場・第14番霊場に数えられ、裏山にある宮本武蔵がこもった霊巌堂・24年の歳月をかけて奉納された五百羅漢像・平安時代の女流歌人・桧垣(ひがき)が訪れたことで有名です。
本堂右手に、霊巌堂と五百羅漢への入り口があります。入ります。
宝物館
入るとまず宝物館になっています。
ガラスケース内に、巌流島で使用した木刀や、自画像などが展示してあります。また、平安時代の女流歌人桧垣がこの地を訪れ、肥後守として赴任していた清原元輔と親睦をふかめている様が描かれています。清原元輔は、清少納言のお父さんです。
五百羅漢像
境内を進みます。右の岩山上にワアーーッと広がっているのが、五百羅漢です。
熊本の商人渕田屋儀平(ふちだやぎへい)が、安政8年(1779)から享和(きょうわ)2年(1802年)まで24年間かけて奉納したといわれます。
明治初頭の廃仏毀釈や明治22年(1889年)の熊本地震・そして長年にわたる風雨によってダメージを受け、首が落ちたものや原型を留めないものも多いですが、往時の雰囲気を今に伝えています。一つ一つの羅漢像が、個性的な表情や、ポーズをしており、見ていて飽きないです。羅漢とは、仏法を説く、釈迦の弟子のことです。
1800年前後の奉納ですから、宮本武蔵が生きた時代には、まだこの五百羅漢像は、なかったわけです。
霊巌堂
突き当たりまで順路を進むと、右手に見えるのが霊巌堂です。
岩をくりぬいてお堂をつくってあります。内部には、岩戸観音とよばれる石体四面の観音像が安置されています。急な階段をのぼり、堂内に入ります。
宮本武蔵は、主君・細川忠利の三回忌にあたる寛永20(1643)、ここ霊巌堂にこもり、生涯の集大成として、『五輪書』の執筆に取り掛かりました。時に武蔵60歳。
「地之巻・水之巻・火之巻・風之巻・空之巻」の五巻からなる兵法書『五輪書』は、2年の月日を経て完成し、門人・寺尾孫之允勝信(てらおまごのじょう・かつのぶ)に授けられました。
ここに武蔵がしゃんと座って、心をすまして『五輪書』を書いてたかと思うと、しみじみ、こみ上げるものがあります。
桧垣と清原元輔
また武蔵より600年昔の平安時代の女流歌人・桧垣(ひがき)は、たびたび霊巌堂を訪れ、岩戸観音に参詣したと伝えられます。
伝説によると、桧垣は京都や大宰府で、その美貌と文学的才能で名声をはくしましていました。しかし藤原純友の乱(939)にあい、家も財産も失って落ちぶれ果て、肥後白川のほとり・蓮台寺のあたりに流れ着き、小さな庵を結び暮らしていました。
「ああ…なんでこんなことになっちゃったのかしら。私、あんなにチヤホヤされてたのに…。やっぱり、傲慢になっていたのかしら。慢心していたのだわ」
そんな感じで後悔してか、どうだかわかりませんが、桧垣は金峰山山麓の霊巌堂に日々通い、熱心に岩戸観音にお参りしていました。
さて清原元輔といえば、清少納言の父として有名です。当時の歌壇の中心人物であり、『後撰集』編纂の中心となった「梨壷の五人」の一人です。この清原元輔が、肥後守として肥後に赴任してきました。
ある時元輔が白川のほとりを通りかかった時、老婆を見かけたので、
「これ、ノドがかわいたので、白川の水を汲んではくれぬか」
すると老婆は、
年ふればわが黒髪も白川の みづはくむまで老いにけるかな
(年をとって私の黒髪も白くなり、白川の水を手ずから汲むまでに落ちぶれてしまった)
「おお…このような老婆が、これほど見事な歌を詠むとは…はっ!
もしやそなたは、音に聞く歌人・桧垣!」
「いかにも、私が桧垣でございます」
「なんと…!ああ…」
かつて一世を風靡した女流歌人・桧垣が、今はこんなにも落ちぶれていた。清原元輔はふびんに思い、桧垣を館に招いて、丁重にもてなします。以後たびたび桧垣は清原邸に出入りし、元輔と風流の交わりをしました。
清原元輔が任期を終えて京へ戻っていく時、桧垣が詠んだ歌…
白川の底の水ひて塵立たむ 時にぞ君を思ひ忘れむ
(白川の水が枯れて水底に塵が立つ時まで、あなたを忘れません)
もちろん伝説的な話で、どこまで本当かはわかりませんが、遠く肥後の地に流れ着いた女流歌人と、国司として赴任してきた風流人・清原元輔の交わり…ロマンを感じずには、いられません。
さて、宮本武蔵は細川忠利に客分として招かれてから五年後の正保(しょうほう)2年(1645年)、熊本城の東・千葉城内の屋敷にて息を引き取ります。武蔵の葬儀は熊本藩の手で厳粛に執り行われます。
しずしずと進む葬送の行列。道中、武蔵と交流のあった細川家菩提寺・泰勝寺(たいしょうじ)の春山和尚(しゅんざんおしょう)が、石の上に置いた武蔵の棺に引導を渡しました。引導を渡す、とは僧が死者に対してお経を唱え、成仏を願うことです。
「武蔵、お前も、とおと死んだったい。成仏ば、せにゃんたいなあ…」
すると、
ビカビカビカーーーッ
ドカーーン
雷が落ちました。
その時の石が、「引導石(いんどうせき)」として熊本大学キャンパス東側の坂道の途中に、ひっそりと、あります。
武蔵塚
「死後も藩主を見守りたい」
それが、宮本武蔵の遺言でした。世話になった主君・細川忠利公のことを、武蔵はずっと恩義に思っていたのです。そこで、武蔵の遺体は藩主の参勤交代の行列を見送る大津街道(おおづかいどう)上に葬られたと伝えられます。
それが、現在の武蔵塚公園です。葬儀を終えた武蔵の亡骸は、甲冑を着た立ち姿で葬られたと伝えられます。
もっとも武蔵の墓と伝えられる場所は全国にいくつかあり、真偽のほどはわかりません。
宮本武蔵像
武蔵塚公園は高台にあり、景色がいいです。
公園内には宮本武蔵の精悍なブロンズ像。二刀流の構えが、独特のシルエットを作ります。
獨行道の碑
武蔵像の横には、「獨行道(どっこうどう)」の碑が立っています。
正保ニ年(1645年)五月十二日、武蔵は自分の死が数日後に迫ったことを覚り、病床で自ら筆を取り、獨行道と題し、辞世あるいは自戒の心で、次の二十一か条を書きしたためました。
一 世々の道をそむく事なし(世のさまざまな道にそむかない)
一 身にたのしみをたくまず(身の楽しみを追い求めない)
一 よろずに依怙の心なし(万事において不公平の心を持たない)
一 身をあさく思世をふかく思ふ(わが身を浅く、世のことを深く考える)
一 一生の間よくしん思はず(よくしん…欲深いこと)
一 我事において後悔をせず(自分ことにおいて後悔をしない)
一 善悪に他をねたむ心なし(他人の善悪についてねたんではならない)
一 いずれの道にもわかれをかなしまず(どんな道においても別れを悲しまない)
一 自他共にうらみかこつ心なし(自他共に恨みんだりねたんだりしない))
一 れんぼの道思ひよる心なし(恋愛からは遠ざかる)
一 物毎にすきこのむ事なし(物事に好き嫌いを言わない)
一 私宅においてのぞむ心なし(自分の家を豪華にしようなどと望まない)
一 身ひとつに美食をこのまず(常にわが身一つしか持たず、美食を好まない)
一 末々代物なる古き道具を所持せず(子々孫々に伝えていく骨董品を持たない)
一 わが身にいたり物いみする事なし(自分にとって縁起が悪いなどという物忌みのことは無視する)
一 兵具は格別よの道具たしなまず(武具は別だが、その他の道具にはこだわらない)
一 道においては死をいとわず思う(道にかなっていれば死をもいとわない)
一 老身に財宝所領もちゆる心なし(年老いて財宝や所領地を持っていても仕方ない)
一 仏神は貴し仏神をたのまず(仏や神は敬うが、頼みにはしない)
一 身を捨て名利はすてず(身を捨てて、名を捨てない)
一 常に兵法の道をはなれず(いつも兵法の道から離れない)
松浦新吉郎の墓
また、武蔵塚公園の東隣には、西南戦争で薩摩方について処刑された、松浦新吉郎(まつうらしんきちろう)の墓があります。
松浦新吉郎は肥後藩士松浦十郎の長男として生まれ、明治10年、西南戦争が起こると、池辺吉十郎(いけべきちじゅうろう)・佐々友房(さっさともふさ)らと共に熊本隊を組織。みずから副大隊長として薩摩軍に加わり、官軍と戦いました。
田原坂・吉次越の戦いで奮戦し、薩摩軍の熊本城撤退後も、各地で戦いましたが、宮崎の長井村で降伏。長崎で処刑されました。武蔵塚のかたわらで眠りたいとの遺言により、遺髪はこの場所に葬られました。
ちなみに松浦新吉郎とともに熊本隊を組織した佐々友房は、西南戦争後、薩摩に味方したということで投獄されますが、後に病気のため出獄を許され、明治12年(1879年)済々黌(せいせいこう)高等学校の元となる同心学舎(どうしんがくしゃ)を設立しています。
次回は、大阪堺に仁徳天皇陵を訪ねます。お楽しみに。
次の旅「女流歌人・桧垣と清原元輔の伝説の地を歩く」