静岡 清見寺・坐漁荘を訪ねる

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こんにちは。左大臣光永です。当方もデータ量が膨大になってきたので、ハードディスクを増設しました。いや~4TB!のびのびしますね。これが2万円弱で買えるなんて!200MBでハードディスクだ、わーーいとか喜んでたPC98時代から考えると、夢のようです。

さて本日は静岡の清見寺と、明治の元老・西園寺公望公の別荘・坐漁荘を訪ねます。先日、静岡で講演した際、同志社大学OB会静岡支部の方に案内していただきました。

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清見寺

清見寺は、巨鼇山清見興国禅寺(こごうさんせいけんこうこくぜんじ)といい、臨済宗妙心寺派の寺院です。天武天皇の御世、「清見関」を守るために建てられた仏堂がその始まりといわれます。清見関は『枕草子』にも逢坂関などと並んで挙げられ、『平家物語』にも登場する、東海道の関所です。

現在は海から離れていますが、かつては海のすぐそばで、三保の松原も見渡せました。

室町時代には「五山十刹」の十刹の一つに数えられるほど栄えましたが、その後、荒廃。天文8年(1539)今川義元の軍師を務めた禅僧・太原雪斎が再興し、第一世住持となりました。

徳川家康が朝鮮と国交を回復してからは、朝鮮通信使がしばしば訪れ、ここ清見寺に滞在しました。歴代の朝鮮通信使は日本や三保の松原の景観を漢詩に詠みました。

また琉球通信使も何度も来訪しました。境内奥には琉球の具志頭(ぐしちゃん)王子の墓があります。

明治時代に東海道本線が敷設されたことにより境内が分断されてしまいました。現在、お寺のまん前を東海道本線が走っています。明治天皇や皇太子時代の大正天皇が海水浴に訪れた際には、ここ清見寺を御座所とされました。

総門

JR東海道本線興津駅から西へ約10分。見えてきました。清見寺の総門です。「東海名区」の扁額は、朝鮮通信使玄徳潤(ヒョンドギュン)の筆によります。


山門をくぐると目の前がJR東海道本線です。ほんとうに、寺の真ん前に線路があることに驚きます。敷設当初は反対も多かったことでしょう。



山門

高架線をわたると、山門です。彫刻は左甚五郎の弟子の作と伝えられます。


清見関跡

山門から少し離れた所に清見関跡があります。礎石が残るばかりで見る影もありませんが、私はこの日、一番見たかった所です。平家物語『海道下』の一節を唱えます。


清見関をうちすぎて、富士のすそ野になりぬれば、北には青山峨々として松吹く風も索索たり。南には蒼海満々として岸打つ波も茫々たり

朝鮮通信使遺跡

境内には見所が多いです。まず正面に見えるのが朝鮮通信使遺跡。豊臣秀吉の文禄・慶長の役により朝鮮との国交は断絶しましたが、徳川家康の外交政策により国交が回復し、以後、将軍の代替わりごとに朝鮮通信使が派遣されました。慶長12年(1607)江戸時代に入ってはじめの朝鮮通信使が訪れ、江戸からの帰路、ここ清見寺に滞在。三保の松原の気色などを楽しみました。歴代の朝鮮通信使は詩歌にもすぐれていました。境内には朝鮮通信使が日本や三保の松原の気色のすばらしさを詠んだ詩が残されています。

咸臨丸碑

その隣が咸臨丸碑です。明治維新の時、徳川幕府所属の軍艦・咸臨丸は清水港において新政府軍の砲撃を受け、死者が出ました。後年、その死を悼んで建てられた碑です。榎本武揚の筆による『史記』の一節が刻まれています。


食人之食者死人之事

(人の食を食む者は人の事に死す)

出典は、『史記』の漢の張良のことを言った一文です。

高山樗牛「清見寺鐘声」の文学碑

境内中央には、明治の文学者・高山樗牛による「清見寺鐘声」の文学碑があります。


鐘の声はわがおもいを追うて幾度かひびきぬ。
うるわしきかな、山や水や、偽りなく、そねみなく、憎しみなく、争いなし。人は生死のちまたに迷い、世は興亡のわだちを廻る。山や、水や、かわるところなきなり。おもえば恥かしきわが身かな。ここに恨みある身の病を養えばとて、千年の齢、もとより保つべくもあらず。やがて哀れは夢のただちに消えて知る人もなき枯骨となりはてなむず。われは薄幸児、数ならぬ身の世にながらへてまた何の為すところぞ。さるにをしむまじき命のなほ捨てがてに、ここに漂浪の旦暮をかさぬるこそ、おろかにもまた哀れならずや。
鐘の音はまたいくたびかひびきわたりぬ。わが思ひいよいよ深うなりつ。

臥龍梅

また臥龍梅があります。


徳川家康公が清見関の梅を取らせて接木したと伝えられます。与謝野晶子が詠んだ歌。

龍臥して法(のり)の教を聞くほどに 梅花のひらく身となりにけり

梵鐘

梵鐘は正和三年(1314)鋳造です。


伝説があります。昔、この地方に長者がありましたが、ある時最愛の愛娘が人さらいにあってしまいました。母親は半狂乱になり、娘をさがしまわります。流れ流れて、大津の三井寺に至りました。ごおーーーーん。鳴り響く三井の晩鐘。「なんとまあこの鐘の音は、故郷の清見寺の鐘の音を思わせること」。「えっ、清見寺ですって」「えっ?」なんと、人さらいにあった娘が、不思議にもそこにいたのでした。「お前!」「母さま!」ひしと抱き合う母と娘。二人は鐘の導きに感謝し、再会を涙ながらに喜んだ…という伝説が伝わります。

書院

受付の所で鐘を打って、見学したい旨を告げます。


係の方が案内してくれました。まずは書院。慶応三年(1867)の建築で、明治天皇御成の間があります。徳川の葵紋が至る所に見えるのが気になりましたが、やはり御成の時は布で隠したそうです。徳川嫌いでしたからね。



書院の天井近くには、清見関跡から出土した板が四枚、はめこんでありました。こんな形でも、わずかに清見関の面影にふれることができたのは、喜びでした。


名勝清見寺庭園

書院の裏手は名勝清見寺庭園です。


江戸時代初期、山本道斉による築庭と言われ、徳川家康がこの庭をことに愛し、駿府城から虎石・亀石・牛石を移してきました。どよんと緑に濁っています。全面の白砂は銀沙灘と言われ、(銀閣寺のやつと同じですね)周囲の緑とともに美しい色彩を作っています。池の正面にあるカエルの置物が、さぞかし由緒のあるものかと思いきや「あれ住職の単なる趣味なんですよ~」と説明してくれました。

芭蕉の句碑があるということですが、何かこの位置からは見えなくなっていました。

西東あはれさ同じ秋の風(『笈日記』)

別の形では「東にしあはれさひとつ秋の風」。こっちのほうがメジャーです。

徳川家康公手習いの間

庭園に面した大方丈の裏手には、徳川家康公手習いの間の遺構があります。



廊下が狭く、至近距離すぎて、写真はどうやっても撮れませんでしたが。家康が竹千代と呼ばれていた少年時代、8歳から12年間を今川家の人質として捕えられ、今川家の軍師・太原雪斎のもとで学問を習っていたと伝えられます。静岡市葵区の臨済寺(りんざいじ)にあるものが有名で、去年無理を言って実物を見せてもらいました。駿府城公園の未申櫓にはレプリカが展示されています。

聖観世音銅像

ふたたび外に出て、本堂左手の裏山に向かいます。左手正面に聖観世音銅像が立ちます。昭和十三年北村西望作。


五百羅漢石像

聖観世音銅像の右一帯に、五百羅漢石像があります。


羅漢さまは、釈迦の弟子で仏典編纂に功徳のあった人たちです。江戸時代中期の製作で、作者はわかっていません。わーーっと広がるたくさんの羅漢さまが、、さまざな表情をしており、なかなかの愛嬌です。どれもほぼ原形をとどめており、表情までハッキリわかるのが嬉しいです。




この五百羅漢群像は、島崎藤村の小説『桜の実の熟す時』のラストシーンの舞台として描かれています。

興津の清見寺だ。そこは古い本堂の横手に丁度人体をこころもち小さくした程の大きさを見せた青苔の蒸した五百羅漢の石像があった。起ったり座ったりして居る人の形は生きて物言ふごとくにも見える。誰かしら知った人に逢へるといふその無数な彫刻の相貌を見て行くと、あそこに青木が居た岡見がが居た、清之助が居た、ここに市川が居た、菅もいた、と数えることが出来た。連中はすっかりその石像の中に居た。捨吉は立ち去りがたい思をして、旅の風呂敷包の中から紙と鉛筆を取出し頭の骨が高く尖って口を開いて哄笑して居るやうなもの、広い額と隆い鼻とを見せながらこの世の中を睨んで居るやうなもの、頭のかたちは円く眼は瞑(つぶ)り口唇は堅く噛みしめ歯を食いしばって居るやうなもの、都合五つの心像を写し取った。五百もある古い羅漢の中には、女性の相貌を偲ばせるやうなものもあった。幾子涼子それから勝子の面影をすら見つけた。


清見寺を後に、西園寺公望の別荘・坐漁荘跡に向かいます。


西園寺公望は嘉永2年(1849)右大臣徳大寺公純(きんいと)の次男として生まれ、西園寺の養子となり家督を継ぎました。伊藤博文の側近を経て第一次・第二次西園寺内閣を組閣。首相辞任後は元老に任じられ、大正天皇・昭和天皇を輔弼しました。現在の立命館大学の原型となった「私塾立命館」の創始者としても有名です。

坐漁荘は70歳になった西園寺公望が、老後の静養のために建てた別荘です。風光明美な興津の海の前で、目の前に三保の松原。はるかに伊豆の天城連峰が見渡せました。坐漁荘の名の由来は、周の文王が太公望が釣りをして座っているところをスカウトした故事により、子爵渡辺千冬が命名しました。

西園寺公望は首相後任などに生涯にわたって影響力をもちました。そのため「興津詣」といって政財界の要人の来訪が公望が昭和15年(1940)に亡くなるまで絶えませんでした。

坐漁荘の建物は昭和45年(1970)に解体され、愛知県犬山市の博物館明治村に移されましたが、もとあったこの場所に、オリジナルに忠実に、復元されました。



中は博物館のようになっており、西園寺公望の遺品などが展示されています。窓からの景色は…往時の面影はまったく無いですが、涼しい風が吹き込み、わずかに昔をしのばせます。



本日も左大臣光永がお話いたしました。

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