台東区谷中を歩く(一)朝倉彫塑館・谷中銀座

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こんにちは。左大臣光永です。

あなたは図書館を利用してますか?

私はふだん使う参考文献は基本的に買うことにしているのですが、それは、書き込んだりページを折り曲げたりするので「読む」というより本を「使う」ためです。

一方で、図書館も大いに利用してます。図書館のいい所は、絶版になった本やめったに(amazonでも)売ってない本が見つかることです。特に歴史の本はすぐに市場から消えることが多いので、図書館は重宝します。

また、その土地特有の、郷土史のコーナーがあるのは楽しいですね!郷土史の本は、なかなか東京やamazonでは手に入らないですから。だから旅先では図書館に寄ると楽しいですよ。

さて本日は、台東区谷中を歩きます。

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谷中銀座の賑わい
谷中銀座の賑わい

観音寺の築地塀
観音寺の築地塀

谷中は70あまりの寺寺がひしめく寺町です。本郷と上野の間の谷間であることから「谷中」と言われるようになったといいますが、現在「谷中」と呼ばれる地域はほとんど上野台地の上にあります。

明暦の大火(1657年)の後、神田や日本橋から多くの寺院が移されて以来、寺町としてにぎわっていきました。

松尾芭蕉『おくのほそ道』には、

上野、谷中の花の梢、またいつかはと心細し

と芭蕉がこれからみちのくへ旅立つにあたっての感慨を記しています。

谷中・根津・千駄木をあわせて「谷根千」と呼ぶのは、タウン誌『谷根千』が語源です。通りには猫が多く、猫の町としても親しまれています。

本行寺

JR日暮里駅西口を出て、目の前の御殿坂(ごてんざか)を上っていきます。すぐ右手に見えてくるのが、「月見寺」と呼ばれる日蓮宗本行寺です。

月見寺・日蓮宗本行寺
月見寺・日蓮宗本行寺

太田道灌の嫡孫大和守資高の開基と伝えられ、境内には太田道灌の物見塚があったということで、「太田道灌物見塚の碑」が建っています。

太田道灌物見塚の碑
太田道灌物見塚の碑

また「月見寺」と呼ばれているように、月見の名所として知られます。小林一茶はしばしばこの寺を訪れ、「青い田の 露をさかなや ひとり酒」などの句を詠んでいます。

境内には種田山頭火と小林一茶の碑があります。


ほっと月がある東京に来ている

種田山頭火


陽炎や
道灌どのの
物見塚

小林一茶

風流人が月を見て、団子食べて、こんなことやってたんですね。

本行寺の左隣は日蓮宗経王寺です。

日蓮宗経王寺
日蓮宗経王寺

慶応4年(1868年)上野戦争の時、敗走する彰義隊がここ経王寺に逃げ込みました。彰義隊が逃げ込んだであろう。出せ。隠すとためにならんぞ。いいえ、ここにはそのような者はおりません。そうか。隠すならヨウシャせん。ぱばーん、ぱぱーーんと射撃された、その時の穴が門に残っています。


朝倉彫塑館

このまま通りを上りまっすぐ進むと夕焼けだんだん、そして谷中銀座ですが、その前に左に道を折れます。この通りにも猫グッズの店や、初音小路という飲み屋街など、味わい深いです。



しばらく進むと、見えてきました。朝倉彫塑館。

朝倉彫塑館
朝倉彫塑館

明治から大正にかけて活躍した彫刻家・朝倉文夫(1183-1964)の自宅兼アトリエを一般公開しています。

朝倉文夫は明治16年大分県の生れ。東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業後、この地に自宅兼アトリエを建てました。その後、増改築を繰り返し、現在の建物はほんどが昭和10年竣工のものです。

昭和42年、故人の遺志により一般公開され、昭和61年、台東区に移管され、「台東区立朝倉彫塑館」となりました(案内板より抜粋)。

黒い建物正面とその前に立つ青年像がひときわ目を引きます。ここで視線を上に向けてください。

朝倉彫塑館
朝倉彫塑館


なんですかあのガーゴイルは!屋上庭園から、彫刻がこっち覗いています。夜にシルエットが見えたら、ギョッとしそうですね。

内部は洋間吹き抜けのアトリエと、日本間の居住区に分かれます。まずアトリエに入ると、巨大な大隈重信像と小村寿太郎像。小村寿太郎は帝王って感じの椅子に座っています。

そして、谷中霊園の墓守のじいさんをモデルにしたという「墓守」。後ろに手を組み、ほがらかに微笑んでいます。朝倉文夫が自然主義に目覚めた転機となった作品です。

たしかに、彫刻というとある程度美化されているものですが、この「墓守」は、素朴な感じで、ぼてっと垂れた中年腹も見事に再現されています。なるほど、これが、自然主義ですか。

面白いのが屋上庭園です。朝倉彫塑塾は彫刻の専門学校でありながら、園芸が必修科目でした。それは朝倉文夫の考えでは彫刻と園芸は通じるものだったから。植物を育てることは、自然を見る目を養うことに通じる、植物は土によって命がはぐくまれる、それは彫刻が土によって命を吹き込まれると同じだと!



大きなオリーブの木が印象的です。スカイツリーと谷中霊園が見渡せます。

というわけで朝倉彫塑館は特に彫刻に興味が無くても、庭園や、家屋といった面からも楽しめます。おすすめです。

さて、朝倉彫塑館を後に、もとの通りに立ち返り、しばらく進むと、「夕焼けだんだん」という階段があり、これを下りると商店街「谷中銀座」が始まります。


夕焼けだんだん
夕焼けだんだん

夕焼けだんだん
夕焼けだんだん

谷中銀座
谷中銀座

異世界というか、非日常?縁日感覚がいっぱいです!

谷中だけあって猫グッズの店が多いです。

谷中銀座の賑わい
谷中銀座の賑わい


また竹細工の店、籐細工の店、ベーゴマを実演しているおっさん、軒先で昼間っから飲んでる人たち、イラン・トルコ料理の店、雰囲気あるたたずまいの飴屋さん。ガラス製のランプを作らせてもらえる店…







よそでは見られない光景です。しかも店のひさしの上に猫の置物が置いてあったり、時々路地からすーーと猫があらわれて通りを横切ったり、町中いたる所猫のイラストがあり、町中が猫!な作りです。



猫好きにはたまらない世界です。ぜひ歩いてみてください。

ところで谷中はとても道が入り組んでいてコース取りが大変です。あれっ?今どっちに歩いているのかなと方向感覚を失います。そんな時。いったん「谷中銀座」に立ち返り、座標を確認し直すのがいいです。

岡倉天心記念公園

さて谷中銀座を最後まで通り抜け、左に折れて、よみせ通りをしばらく進み、左に「春木屋」の看板が見えたら左に折れます。

よみせ通り


突き当りまで進むと岡倉天心記念公園です。

岡倉天心記念公園
岡倉天心記念公園

岡倉天心像
岡倉天心像

岡倉天心(1863-1913)。東京美術学校(現東京芸術大学)の創設に尽力し、校長をつとめた後、引退し、この地に日本美術院を築きました。

日本美術院は明治31年(1898)民間団体「本邦美術の特性に基づきその維持開発を図る」ことを目的として創設された民間の美術団体です。従来の日本画の流派に反対し、西洋画の手法を取り入れました(案内板より抜粋)。

園内の六角堂の中には、平櫛田中(ひらぐしでんちゅう)作の岡倉天心の上半身象が収められています。金ピカピンです。なんか見るからに説教くさいオッサンという印象を受けましたが、実際の人柄はどうだったんでしょうか。

岡倉天心記念公園を後に、通りを進んでいくと、左手に「初音公園」が見えたところで左に折れて階段を上ります。

初音公園
初音公園

しばらく道を進むと、いよいよ寺町の雰囲気になります。

見えてきました。あれが、観音寺の築地塀です。粘土と瓦を交互に重ねたもので、江戸時代の寺町の雰囲気を今に伝えます。谷中名物の一つです。

観音寺の築地塀
観音寺の築地塀

観音寺の築地塀
観音寺の築地塀

ゴーーンと鐘の鳴る寺町を、いなせな江戸っ子が、団子かじりながら歩いていく情景を思いながら歩くと味わいがあります。

観音寺は、赤穂浪士にゆかりの寺です。

赤穂浪士討ち入りの一員である近松勘六行重(ちかまつかんろく・ゆきしげ)と奥田貞右衛門行高(おくださだえもん・ゆきたか)が観音寺の住職と兄弟であったことから、赤穂浪士の会合にしばしば使われました。境内には赤穂浪士供養塔があります。

全生庵

さて寺町の中を突っ切り、三崎坂(さんさきざか)まで出ます。

三崎坂上
三崎坂上

三崎坂を下っていくと、右手に見えてくるのが全生庵(ぜんしょうあん)です。臨済宗の寺院です。山岡鉄舟と初代三遊亭圓朝の墓があります。

全生庵
全生庵

全生庵
全生庵

山岡鉄舟(1836-1888)。幕末の幕臣で、駿府で西郷隆盛と会見し、勝海舟とともに江戸城無血開城を実現させた人物です。維新後は天皇の側近として活躍しました。また書家としても剣術家としてもすぐれていました。

山岡鉄舟の墓
山岡鉄舟の墓

初代三遊亭圓朝(1839-1900)。江戸時代の噺家。「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」「怪談牡丹灯籠」「塩原多助一代記(しおばら たすけ いちだいき)」などの作者として知られます。

三遊亭圓朝の墓
三遊亭圓朝の墓

また本業の噺の外にも茶、歌、俳句、禅、建築、庭園、古美術鑑定など、さまざまな分野に才能を発揮しました。

全生庵では毎年8月の圓朝忌を中心に、圓朝が怪談創作の参考として収集した幽霊画が公開されています。全生庵の幽霊画。私は大学時代に一度だけ、見たことがあります。「堕落僧」という幽霊画が、いかにも酒ばっかり飲んでて堕落しまくった、ダメ人間な感じで、よかったです。

耳しひて聞き定めけり露の音

圓朝辞世の句です。耳が聴こえなくなって、はじめて露の音が聴けた。露に音はなさそうなもんです。しかし、普通には音がしないはずの露が、耳が聴こえないからこそ、イメージとして、露の音が、聴こえてきた。心眼が開いたのです。

左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

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