楠公父子訣別の地、桜井を歩く

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本日は『太平記』に記された楠公父子訣別の地、大阪府三島郡島本町の桜井を歩きます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

http://roudoku-data.sakura.ne.jp/mailvoice/Sakurai.mp3

史跡桜井駅跡

JR京都線島本駅下車。

東口出てすぐが楠木正成・正行父子の訣別の地と伝えられる、史跡桜井駅跡です。

『太平記』によると、建武3年(1336)5月、九州から大軍を率いて上ってきた足利尊氏を討つため、楠木正成は摂津湊川へ向かいました。

途中、西国街道の桜井駅で、正成は11歳の息子正行(まさつら)に今後の生き方について訓戒を与え、別れの酒宴をもよおし、正行を故郷河内に帰したとあります(『太平記』巻16「正成兵庫に下向の事」)。

唱歌『桜井の別れ』でもおなじみの場面です。

青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木の下陰に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧の袖の上に
散るは涙かはた露か

ただし正成・正行父子が桜井駅で別れたという話は『太平記』以外の史料に一切記述がないため、『太平記』作者の創作であろうといわれています。

しかし実際に正成と正行は別行動して、それぞれ討ち死にしています。『太平記』に書かれたようなドラマチックな場面はなかったにしても、なんらかの「別れの場面」は父子の間にあったろうなと私は思ってます。

公園内にはクスノキが生い茂り、楠木正成・正行父子の像をはじめ、さまざまな碑が立っています。

楠公父子別れの石像(なんこうふしわかれのせきぞう)

昭和15年に新京阪電鉄(現 阪急電鉄)「桜井の驛」の駅前に銅像が建てられました。「滅私奉公」の文字は公爵近衛文麿によります。戦時中の金属供出でコンクリート製に変わり、戦後はここ国史跡桜井駅跡に移されました。現在の像は平成16年に有志によって寄贈されたものです。

正行の頭の上にハトがとまってるのがおもしろかったです。

楠公父子訣別之所碑(なんこうふしけつべつのところひ)

大正2年(1912)建立の碑。字は陸軍大将乃木希典によります。

明治天皇歌碑

子わかれの 松のしつくに 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらゐの里

明治31年(1898)明治天皇が桜井に行幸された時に詠んだとされます。碑は昭和6年(1931)建てられました。題字は東郷平八郎によります。

裏面には頼山陽が桜井を訪れた時に詠んだ「過桜井駅詩(さくらいのえきをすぐのし)」が刻まれています。長いので、前半だけ読みます。

過桜井駅詩(さくらいのえきをすぐのし) 頼山陽

山崎西去桜井駅
伝是楠公訣子処
林際東指金剛山
堤樹依稀河内路
想見警報交奔馳
促駆羸羊餧獰虎
問耕拒奴織拒婢
国論顚倒君不悟
駅門立馬臨路岐
遺訓丁寧垂髫児
従騎粛聴皆含涙
児伏不去叱起之

山崎 西に去れば桜井の駅
伝(い)ふ 是れ 楠公(なんこう)子に訣(わか)るる処(ところ)と
林際(りんさい) 東を指せば金剛山(こんごうさん)
堤樹(ていじゅ) 依稀(いき)たり 河内(かわち)の路
想見(そうけん)す 警報 交(こもごも) 奔馳(ほんち)し
羸羊(るいよう)を促がし駆りて獰虎(どうこ)に餧(くらわ)せしを
耕(こう)を問ひて奴(ど)を拒み 織(しょく)に婢(ひ)を拒み
国論顚倒(こくろんてんとう)して君 悟らず
駅門(えきもん) 馬を立てて路の岐(わか)るるに臨み
遺訓丁寧(いくんていねい)なり 垂髫(すいちょう)の児(じ)
従騎(じゅうき) 粛(しゅく)として聴き 皆 涙を含み
児(じ)は伏して去らず 叱(しっ)して之(これ)を起たしむ

【現代語訳】
山崎を西に行けば桜井の駅である。
ここは楠公が息子正行と別れたところと伝えられる。
林の切れ目を西に指差せば金剛山が見える。

土手の並木の間に、河内路がかすかに見える。

思い起こせば賊軍足利尊氏が攻め来たったという知らせが、かわるがわる馳せ巡り、痩せた羊のような後醍醐天皇方を駆り立てて、獰猛な虎のような足利尊氏軍に食らいつかせた。

しかし農作業のことをきくのに農夫の言葉を拒み、機織りのことをきくのに機織り下女の言葉を拒むがごとく、すぐれた武将である楠木正成の意見を容れず、国論がひっくり返っていることを後醍醐帝は悟らなかった。

駅前の門で馬を立てて路の分岐点に臨んで、
正成はお下げ髪の我が子・正行に丁寧に訓戒した。

従う騎馬武者たちは厳粛に聞き、皆涙をふくみ
子はうずくまって去らないので、叱りつけてこれを起たせた。

【語句】
■山崎 淀川右岸。西国街道(山崎街道)沿いの宿。古くから交通の要衝。山崎から西に行ったところに桜井駅がある。■金剛山 奈良県と大阪府にまたがる金剛山地の主峰。楠木正成が鎌倉幕府軍を相手に戦った千早城や赤坂城がある。 ■堤樹 堤の土手の並木。 ■依稀 かすかに見えること。 ■想見 思い返す。 ■警報 賊軍である足利尊氏の軍勢が攻め上ってくるいうしらせ。 ■羸羊 やせ衰えた羊。後醍醐天皇方をさす。 ■獰虎 獰猛な虎。足利尊氏方をさす。 ■奴・婢 下僕・下女。それぞれ「耕」と「織」の専門家として、耳を傾けるべき相手ということ。 ■垂髫児 おさげ髪の子供。正行をさす。

高浜砲台跡

史跡桜井駅跡を後に徒歩15分。

淀川河川敷に面した住宅街の一角に、高浜砲台跡があります。高浜砲台は慶応2年(1866)幕府の命令で淀川の守りとして対岸の楠葉砲台とともに造営されました。

慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いでは、旧幕府軍の津藩が布陣していました。津藩守備隊長藤堂采女はしかし、新政府方の説得を受け、淀川対岸に陣取る旧幕府軍を砲撃しました。これにより旧幕府軍はダメージを受け、大坂まで撤退することになります。淀川河川敷に面した堤防の上から、対岸の楠葉砲台跡と男山がよく見えます。

待宵小侍従の墓・顕彰碑

島本駅の北側には田園が広がっています。彼岸花がきれいに咲いてました。

田園を横切り、坂道を登った先の貯水池のそばに、待宵小侍従(まつよいのこじじゅう)の墓と顕彰碑があります。

待宵小侍従は平安末期から鎌倉初期の女流歌人。父は石清水八幡宮第25代別当、大僧都光清。母は花園左大臣家女房・小大進(こだいしん)。はじめ二条天皇に仕え、二条天皇崩御後はその皇后・藤原多子(たし)に、ついで高倉天皇に仕え、出家後はふたたび多子に仕えました。太皇太后小侍従として歌合わせに参加し、歌人としての名声をはくしました。

待宵のふけゆく鐘の声きけば あかぬ別れの鳥はものかは

この歌は『新古今和歌集』にも選ばれ、これにより「待宵」と呼ばれるようになりました。

『平家物語』「月見」には、「待宵」と呼ばれるようになったいきさつがより詳しく語られています。

ある時、藤原多子が女房たちにお題を出しました。「待宵、帰る朝、いずれかあはれは優れる」(来ない人を待っている夜と、帰っていくのを見送る朝、どちらがあはれ深いだろうか)それに答えて、

待宵のふけゆく鐘の声きけば 帰る朝の鳥はものかは

と詠んだ。これによって待宵とよばれるようになったと、『平家物語』ではそういう話になっています。

晩年は摂津国桜井に寺(真如院)を建てて隠棲したと伝えられます。能因法師・伊勢とともに「東摂の三歌人」と呼ばれます。

告知

日本の歴史「南北朝の動乱と室町幕府」
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後醍醐天皇による建武の新政・足利尊氏による足利幕府樹立から南北朝の動乱、三代将軍足利義満の黄金期を経て、六代将軍足利義教の時代までを語っています。

聴いて・わかる。『徒然草』 DVD版・DL版
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『徒然草』全243段を、すべて原文と、現代語訳で朗読し、必要に応じて補足説明を加えた音声とテキストです。全14.6時間にわたりますが、それぞれの話は数分から十数分程度で、気軽に聴けます。

京都で学ぶ歴史人物講座~足利義昭 10/26
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将軍の座を追われながらも中国毛利領に亡命し、広島鞆の浦で独自に活動をつづけた、最後の将軍足利義昭。その数機な生涯について語ります。