和泉式部(四)花盗人

こんばんは。左大臣光永です。日一日とクリスマスが迫り
街がはなやかさを増しています。そんな華やかな街を避けようと、
ますます引きこもりがちになる昨今ですが、いかがお過ごしでしょうか?

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この商品にあわせて、また年末年始という季節柄のこともあり、
百人一首の話題をおとどけしています。

本日は和泉式部の四回目「花盗人」です。

▼音声が再生されます▼

http://roudokus.com/mp3/Shikibu04.mp3

北の方 出て行く

「もうガマンできませぬ!」

和泉式部が館に来てからというもの、敦道親王は日に四度も
和泉式部の部屋に通い、北の方(正妻)は見向きもされなくなりました。

北の方つきの女房たちはしきりに北の方をなぐさめますが、
そのこと自体が、北の方には大きな屈辱となりました。

とうとう北の方は、実家に戻ってしまいました。

(ああ…私はそこまで、北の方を追い詰めてしまっていたのだわ)

今さらながら、自分の罪深さ、北の方への申し訳ない気持で
いっぱいになる和泉式部。

しかし、現状を変えるでもなく、ずるずると、流されるように、
毎夜、毎夜、求められるがままに敦道親王に体を許し、
床を共にするのでした。

敦道親王は、北の方が出て行ったことで吹っ切れたのか、
いよいよ遠慮なく、大胆に、式部を求めます。

敦道親王と和泉式部の道ならぬ関係のことは、しだいに周囲でも
噂になってきます。しかし敦道親王は若さにまかせて、
そんな噂などお構いなく、人前に式部を連れ出すのでした。

それは、式部の美しさを、見せびらかすが、ごとくに!!

葵祭の和泉式部

「おお…」
「なんと大胆な…」

寛弘元年(1004年)4月、敦道親王は和泉式部を牛車に同乗させ、
賀茂祭の見物にあらわれます。

車の正面の簾を真ん中からピーーッ縦に切り込みを入れて、
敦道親王が乗っている側の簾は高くかき上げ、
和泉式部が乗っている側は簾を下ろしたままにしていました。

しかし簾をおろしているとは言っても、
簾の下から和泉式部の衣の裾や袖口がこぼれ、とても目立ちました。

また紅の袴に赤い色紙でこしらえた「忌中」と書かれた札の、
とても幅の広いのをつけて、その袴を地面に届くほど、垂らしていました。

忌中札はふつう白黒の地味なものです。それがまっ赤な忌中札とは、
異常なかんじです。恋の極限にあって、我々は気が狂っているんだ、
このケガレに、近寄るなよとでも言いたかったんでしょうか。

「宮さま、大胆ねえ」
「あの女も、いい立場をかっさらっていっちゃって、憎たらしい」

などと、周囲は賀茂祭の行列見物そっちのけで、噂しあいました。
時に敦道親王25歳。和泉式部30歳前後。

師宮の祭のかえさ、和泉式部の君と相乗らせ給ひて御覧ぜしさまも、
いと興ありきやな、御車の口すだれを中よりきらせ給ひて、わが御方をば
高うあげさせ給ひ、式部の方をばおろして、きぬ長う出させて、
紅の袴に赤き色紙の物忌、いとひろき附けて、土とひとしうさげられたりしかば、
いかにぞ、ものいみよりは、それをこそ、人見るめりしか

「大鏡」より

花盗人(はなぬすびと)

「もし、公任(きんとう)卿はおられるか」

寛弘二年(1005年)春。花盛りの頃、
敦道親王は和泉式部を連れて藤原公任卿の北白川の山荘を訪れます。

藤原公任(966-1041)。当時最高の文化人です。
政治的には父も祖父も太政大臣に到ったのに対し公任は
正二位権大納言に留まり、先祖のはなばなしい名声のわりには不遇でした。

時の権力者が兼家→道隆→道長とうつりかわるに従い、
公任の政治的立場は弱くなっていきました。

この頃は権力者藤原道長にすりよることで、
何とか保身をはかっているような状態でした。

なので、公任の政治的功績は、ほとんど残っていません。
しかし文化面では、公任は後世に輝かしい功績を伝えています。

文化にうとい道長とちがい、
公任は漢詩・和歌・管弦すべてに通じた当時最高の文化人でした。

『和漢朗詠集』を編纂し白楽天の詩を広く日本で知らしめました。
『枕草子』でもっとも活躍する登場人物の一人でもあります。

百人一首には55番、

滝の音はたえて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ

が採られています。

「申し訳ございません。公任さまは外出中です。
花見ならご自由に、どうぞとおっしゃっておりました」

「そうか。せっかくの公任卿のご好意だ。式部、
ぞんぶんに楽しんでいこうじゃないか」

広い庭園に、満開の桜。その中を敦道親王と
和泉式部は、貸切状態で、ぶらぶらと歩きます。
最高のぜいたくです。

「しかしこれだけの桜を、ただ見て帰るのも惜しいな…
よっと…一本くらいは、いいだろう」

ポキン…

敦道親王は桜の一枝を、折りました。

「宮さま!なんてことを。公任卿に知られたら
怒られてしまいますよ」

「公任卿は風流を愛するお方だ。
ただ折って帰ったでは怒られるかもしれんが…
歌の一つも残しておけばいい」

我れが名は花盗人と立たば立て
唯だ一枝は折りて帰らん
敦道親王

(花を盗んだという汚名が立つなら立てばよい。
どうしても、私は一枝折って帰ります)

後日、公任卿から返事がとどきました。

山里の主に知られで折る人は
花をも名をも惜しまざりけり

敦道親王 薨去

このように、たわいない歌を詠んだりして、
敦道親王と和泉式部にとって有頂天の日々が続きます。

二人の間には男の子もうまれました。

「もう引き返すことはできない。
世間が何と言おうと、私はどこまでも宮さまについていく」

しかし、和泉式部の考え通りにはいきませんでした。

寛弘四年(1007年)年秋、
敦道親王は体調が悪化し、帰らぬ人となります。
御年27歳。

「お前のせいで、宮さまは、宮さまは!」

などと物を投げつけられたかどうかはわかりませんが、

敦道親王との間に生まれた若宮は館に留めおかれ、
乳母の手で養育されることとなり、式部は身一つで
寒空の下に放り出されます。

親には勘当され、夫には絶縁され、
恋人は亡くなり、生まれたばかりのわが子からも引き離され、
精神的にも、経済的にも、八方塞な中、

和泉式部が向かった先とは?

つづき「和泉式部 出仕する」

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