山科 毘沙門堂とその周辺を歩く

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本日は、山科の毘沙門堂門跡と周辺を歩きます。毘沙門堂は山科盆地を見下ろす山麓にあり、山里の風情ただよう、雰囲気のあるお寺です。春は枝垂れ桜、秋は紅葉の名所として知られています。

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JR、もしくは京阪山科駅、もしくは地下鉄東西線山科駅下車。

JR山科駅駅前の矢印に従って、毘沙門堂に向けて歩いていきます。

山科疎水を超すと、

しだいに山里の風情がただよってきます。

見えてきました。

毘沙門堂の石段です。

毘沙門堂は天台宗の門跡寺院。山科盆地をみおろす山麓にあり、春は枝垂れ桜、秋の紅葉の名所として知られています。

京都における天台宗五箇室門跡の一つで、京の七福神の一つ毘沙門天を本尊とすることから毘沙門堂と呼ばれます。

大宝3年(703)文武天皇の勅願で行基上人を開山として創建。当初、現在の上京区、相国寺北の出雲路にあったことから護法山出雲寺といいました。

その後、平治の乱や応仁の乱の兵火にあい衰退するも、寛文5年(1665)天海僧正の弟子・公海僧正が山科安朱(あんしゅ)の地に再興。後西天皇の第六皇子・公弁法親王が住寺となって以来、皇族や摂関家の師弟が門主をつとめる「門跡寺院」となりました。

仁王門

石段の最上段にあり阿吽の仁王像が護っています。仁王門です。

寛文5年(1665)毘沙門堂が山科安朱の地に再建された時の建立です。毘沙門堂は天海僧正の考えに基づき、建築様式を日光東照宮と同じようにしています。そのため全体的に朱塗りで、寺であるのに神社のような雰囲気がただよっています。

本殿

梁行六間桁行五間・入母屋造り・本瓦葺。

※梁行…建物の梁に平行な方向。建物の長辺側(多くは建物正面)の水平軸。桁行…建物の桁に平行な方向。建物の短辺側(多くは建物側面)の水平軸。

御本尊の毘沙門天像は伝教大師最澄の手彫りによるもので、延暦寺根本中堂の薬師如来を刻んだ香木をもって刻まれたと伝えられます。宝塔の中に秘仏としておさめられ非公開です。しかし宝塔の前に御本尊をかたどった「お前立ち」があり、御本尊のお姿をしのぶことができます。

毘沙門天は仏法守護四天王の一つで、別名を多聞天。北方を守護する福の神であり、また戦の神としても知られています。

本堂正面の左手には不動明王が祀られ、毎日護摩の祈願が行われています。本堂右奥には東照大権現(家康公)が祭られ、徳川の葵の紋があります。日光東照宮とのつながりを感じさせます。

ここ毘沙門堂ふもとの山科駅前の旧三条通りが、かつての東海道です。西国の諸大名が参勤交代の途中、山科を通る際、かならず毘沙門堂に参拝していきました。

高台弁財天

本殿から霊殿への渡し廊下から池ごしに高台弁財天が見えます。秋になると紅葉が真っ赤になり見事です。

豊臣秀吉の母・大政所が大坂城内に建てた弁財天が、大坂城落城後、秀吉正妻の高台院に伝わり、京都の高台寺に移された後、毘沙門堂三代門主が譲り受けて、高台弁財天と名づけました。

霊殿

阿弥陀三尊像を中心に、歴代門主(法親王)の御影や位牌を安置します。周囲には極楽浄土を描いた障壁画があります。

外陣の天井には、狩野永叔主信(かのうえいしゅく おものぶ)による天龍図が描かれています。霊殿の守り龍です。

夜な夜な、龍が水を飲みに外に出かけるので、龍のまわりを水をあらわす青い絵の具で囲ったところ、龍は抜け出さなくなったといわれます。

宸殿

御所にあった後西天皇の旧殿を、第六皇子公弁法親王が拝領し、元禄6年(1693)この地に移したものです。内部は御成之間、九老の間、鷺の間など六部屋からなります。

狩野益信作の障壁画は116面あり、大半の絵は見る角度によって形が変化するよう「逆遠近法」という手法で描かれています。

※逆遠近法…通常の遠近法と逆で、奥に行くほど広がっているように描く技法。

たとえば左側から見ると机が細長いが、右に移動するにつれて机が縮んでくるといった具合です。原理は解明されておらず、逆遠近法を使うにしても、なぜこんなに見事に絵が動くのか、謎のままということです。

晩翠園

江戸初期の池泉回遊式庭園です。

谷川の水をひきこんだ心字池を中心に、七重塔、座禅石、亀石・千鳥石などを配します。紅葉の季節は手前のドウダンツツジと楓が赤く染まり、奥には常緑樹が緑をなして、あざやかな色彩の対比をなします。

枝垂れ桜

宸殿前の庭に樹齢150年の枝垂れ桜は毘沙門桜として知られます。

毘沙門堂中興の寛文5年(1665)から五代目ということで、歴史を感じさせてくれます。

勅使門

枝垂れ桜南の勅使門は後西天皇より拝領した檜皮葺の総門です。現在は開かずの門となっています。

双林院(山科聖天)

毘沙門堂西の谷沿いに塔頭の双林院(山科聖天)があります。

寛文6年(1665)公海僧正が毘沙門堂をこの地に再建した時に、同時に創建されました。当初、阿弥陀如来を本尊としましたが、明治元年(1868)聖天堂を建てて、インドの大聖歓喜天を本尊としました。

山門くぐって右に聖天堂、奥に毘沙門堂。

聖天堂は約70体の大聖歓喜天をまつります。商売繁盛・夫婦円満にご利益ありといいます。

武田信玄も大聖歓喜天像を寄進したということで、境内には武田の四つ割菱が目立ちます。

不動堂は明治16年(1883)比叡山無動寺より勧請した不動明王像を安置します。

織田信長の比叡山焼き討ちによって焼失した仏像を、不動明王として作り変えたものといわれます。

不動堂裏手の滝は「不動の滝」とよばれ、小さな不動明王像(お瀧不動尊)が安置されています。

山科駅のほうに引き返していきます。途中、山科疎水に沿って少し西に歩き、橋をわたった北側に、安祥寺があります。

現在、立ち入り禁止ですが『伊勢物語』にも登場する由緒ある寺です。

嘉祥元年(848)、仁明天皇后・文徳天皇母の藤原順子(なりこ)が空海の弟子恵運を開山として創建。一時は広大な寺領を誇りましたが応仁の乱などで衰退。宝暦年間(1751-64)現在地に再興されました。付近は桜の名所です。

『伊勢物語』七十七段には、

文徳天皇の女御・多賀幾子が亡くなり、安祥寺で法要が行われた。人々が多くの捧げ物をもってきて木の枝につけたので、まるでお堂の前で山が動き出したかのように見えた。

法要の後、右大将藤原常行が、今日の法要を題に、春の風情のある歌を詠めと言われて、右の馬の頭であった老人(在原業平)が詠んだ。

山のみな移りて今日にあふことは春の別れをとふとなるべし

(山がみな今日の法要にあわせて場所を移してきたのは、春の別れを惜しむためでしょう)

本日は、山科に毘沙門堂を訪ねました。山里の風情風情ただよう、雰囲気のあるお寺です。春の枝垂れ桜、秋の紅葉の時にもぜひ訪れて、堪能してほしいところです。

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