知恩院を歩く
本日は、浄土宗総本山・知恩院を歩きます。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
https://roudokus.com/mp3/Chionin.mp3
知恩院について
知恩院は、浄土宗総本山。東山三十六峰の一つ・華頂山(かちょうざん)のふもとにあります。建暦2年(1212)の法然入寂後、弟子の源智上人が小さな廟堂を建てたのが始まりです。
その後、織田信長や豊臣秀吉、徳川幕府の保護を受けて大伽藍が整えられていました。正面入口にあたる三門は京都三大門の一つにして日本最大の木造三門です。
清水の舞台や金閣寺と並び、京都のシンボル的な存在となっています。
新門~三門
バス停知恩院前下車。徒歩1分。知恩院入り口の「新門」に来ました。
参道を進んでいきます。
やがて三門が見えてきます。
知恩院三門。元和7年(1621)徳川秀忠による造営。高さ24m、幅50m、五間三戸、二階二重門。
入母屋造・本瓦葺。日本最大の木造三門にして「京都三大門」の一つです(ほかは南禅寺の三門と仁和寺の二王門)。
「華頂山」と書かれた扁額は畳二畳分の広さがあります。
一般に寺院の門は「山門」と書きますが知恩院では「三門」です。これは悟りに至る三つの境地、「空門」「無相門」「無願門」をあらわす「三解脱門」であるためです。
つまり、この門をくぐると「空」→「無相」→「無願」という状態になり、やがて悟りに至るというわけです。
御影堂(みえいどう)
三門をくぐり、男坂とよばれる石段をのぼっていきます。石垣が見事です。
登り切ると、踊り場状の広いエリアに出ます。
正面に御影堂。迫力の大きさです。
寛永16年(1639)徳川家光による再建。桁行11間、梁間9間、入母屋造、本瓦葺。知恩院の中心となる建物です。
法然上人の御影(みえい)=像を安置しすることから御影堂と呼ばれ、大殿(だいでん)とも呼ばれます。
毎年4月に行われる法然上人の御忌大会(ぎょきだいえ)、12月の御身拭式(おみぬぐいしき)では堂内に念仏の声が響き渡ります。御忌大会は法然上人の忌日法要。御身拭式は法然上人の御尊像を御門跡猊下が布で拭う儀式です。
平成24年より御影堂は8年間におよぶ工事に入りました。平成31年完成予定。
知恩院七不思議
知恩院には七不思議とよばれるものがあります。
御影堂と集会堂方丈をむすぶ「鶯張りの廊下」、三門楼上の「白木(しらき)の棺(ひつぎ)」、御影堂の「左甚五郎忘れ傘」、大方丈の襖絵に描かれたスズメが抜け出したという「抜け雀」、大方丈杉戸に描かれた「三方正面真向きの猫」、すべての人を救うという「大杓子(おおしゃもじ)」、一夜にして瓜が生え、実ったという黒門近「瓜生石(うりゅうせき)」。
このうち現在見ることができるのは「鶯張りの廊下」「左甚五郎の忘れ傘」「瓜生石」「抜け雀」「三方正面真向きの猫」の五つです。
泰平亭(たいへいてい)
御影堂正面の泰平亭は、茶処兼売店です。
江戸後期の版画『花洛名勝図会』に「知恩院本堂前茶所」と見える、由緒ある茶処です。
阿弥陀堂(あみだどう)
御影堂の西側に阿弥陀堂。
もとは勢至堂の前にありましたが、宝永7年(1710)、今の位置に移転。明治時代に荒廃し、いったん取り壊され、明治43年(1910)再建されました。
体長2.7メートルの阿弥陀如来坐像を本尊とします。阿弥陀如来坐像は東に向いて鎮座していますので、参拝者は西に向かい、西方極楽浄土に思いをはせながら阿弥陀如来を拝することになります。
法然上人御堂(ほうねんしょうにんみどう)=集会堂(しゅうえどう)
阿弥陀堂を後に、四脚門をくぐり、進んでいくと、右に集会堂の参拝入口があります。
集会堂は寛政12年(1635)徳川家光による建立。僧侶が集まり学習する場ということから集会堂(衆会堂)(しゅうえどう)といいます。俗に千畳敷と言われる広いお堂です。
御影堂の北に位置し、御影堂とは鶯張りの渡り廊下でつながっています。明治5年(1872)京都博覧会の会場ともなりました。
平成24年より御影堂が工事に入ったため、法然上人像をこちらの集会堂に移しました。そのため、工事期間中に限り、集会堂のことを法然上人御堂と呼んでいます。
それまで御影堂で行われていた法要も、工事期間中はこちらの集会堂で行われます。行くと、なにかしらいつも法要が行われていており、御念仏の声が満ちています。
方丈庭園
集会堂の奥の入り口から方丈庭園に入ります。
大方丈(だいほうじょう)・小方丈(こほうじょう)の2つに建物に付属した、池泉廻遊式庭園です。
江戸時代初期、小堀遠州と縁のある僧玉淵による作庭と伝えられます。方丈の華麗な建物と背後に迫る東山の緑が、情緒を醸し出しています。
慈鎮和尚(天台座主慈円)が腰掛けたという慈鎮石、
三代将軍家光手植えの松(三代目)があります。
権現堂
方丈庭園の奥に権現堂。
徳川家康、秀忠、家光の三人を祀ります。三者とも、浄土宗と知恩院の熱心な保護者でした。
山亭
方丈庭園から石段をのぼります。
やがて勢至堂の客殿たる山亭にいきつきます。
霊元天皇第十皇女・吉子内親王の宮殿を下賜されたものです。庭園には阿弥陀三尊を意味する三尊石を配します。知恩院のお堂の屋根の甍と、京都の町並みが一望できます。
しばらく眺めを楽しんでいきましょう。
千姫のお墓
山亭の出口を出ると、そこは墓地です。
千姫の墓があります。
千姫(1597-1666)。徳川秀忠長女。母は浅井長政の娘崇源院(お江・お江与)。慶長8年(1603)7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。慶長20年(1615)大坂夏の陣で秀頼が自害すると、徳川方に救出される。
翌年、伊勢国桑名藩主本田忠政の嫡男本田忠刻(ただとき)と再婚し、姫路に移る。寛永3年(1626)忠刻が病死したことにより落飾して天樹院と号し、江戸城竹橋御殿にすまいました。三代将軍家光に保護され、その子綱重の養育に当たりました。享年70。
濡髪祠
墓地のすみには濡髪(ぬれがみ)大明神の祠があります。
このあたりに住んでいた狐が、御影堂が出来たため住めなくなり、知恩院の住職に頼んで別の住処を作ってもらったという所以です。濡髪というのは、狐が童子に化けていた時に髪が濡れていたことから来ています。
濡髪という言葉がしっとり濡れた女髪をイメージさせることから、祇園の舞妓さんたちから信仰を集め縁結びの「濡髪さん」として親しまれています。
勢至堂
墓地の表には勢至堂があります。
この場所で法然上人は亡くなる瞬間まで念仏を唱えられました。現在の勢至堂は享禄3年(1530)再建、七間四面、単層、入母屋造、本瓦葺。現存する知恩院でもっとも古い建物です。
現在の御影堂が建立されるまで、ここが御影堂とよばれていました。御本尊はもともと法然上人の御影(像)でしたが、その御影が御影堂に移されてからは、勢至菩薩像が本尊となりました。これが勢至堂の由来です。
紫雲水
勢至堂のかたわらに紫雲水という小さな池があります。
法然上人入滅の時、聖衆(阿弥陀如来の使い)が来迎し、紫雲がたちこめ、芳香(よい香)がただよったといいます。
現在は、モリアオガエルの産卵地として知られています。
御廟(ごびょう)・拝殿(はいでん)
勢至堂から石段をのぼると、拝殿があり、
拝殿のむこうに御廟(ごびょう)があります。
御廟は法然上人の御遺骨を安置した廟堂です。方三間の宝形造、本瓦葺。周囲には唐門を配した玉垣をめぐらせます。
法然上人は建暦2年(1212)この地の大谷禅房にて、門弟たちに見守られながら、念仏三昧のうちに入滅しました。それがさっき見た勢至堂のあたりといいます。その後、門弟たちによって廟堂が建てられ、御遺骨が安置されました。それがこの御廟です。現在の御廟は慶長18年(1613)改築されたものです。
拝殿を通して御廟を拝む形になります。拝殿左には京都の町並みが一望できます。
法然上人像
石段を下り、
下りきったところに法然聖人像。
法然上人の八百年大遠忌記念として、平成23年(2011)に建てられたものです。袖のひるがえり方が、ハデでいいですね。
経蔵
法然上人像の南に経蔵。
元和7年(1621)、二代将軍徳川秀忠により、三門とともに建てられたものです。
中には徳川秀忠寄付による宋版一切経五千九百巻あまりをおさめた八角輪蔵があります。これを一回転させると、一切経をすべて読んだと同じ功徳があるとされます。
納骨堂
池むこうに納骨堂。
大鐘楼
宝佛殿左手の道から石段を登っていきます。青もみじが見事です!
やがて大鐘楼に行き着きます。
大鐘楼は延宝6年(1678)造営。その中に下がる梵鐘は寛永13年(1636)鋳造。重さ70トン。日本三大梵鐘の一つです(ほかは京都方広寺、奈良東大寺)。僧侶17人がかりでつく除夜の鐘は京都の冬の風物詩です。
大鐘楼裏の入り口からは、山道がのびており、山頂の将軍塚まで登れます。
ただし獣道であり、安全の保証はありません。知恩院では推奨しないようです。自己責任でどうぞ。
友禅苑
最初に登ってきた男坂(石段)の横の女坂を下ります。
ふもとに友禅苑。
友禅染の祖・宮崎友禅斎の生誕300を記念して、昭和29年(1954)に造営された庭園です。
東山の湧き水を取り入れた池泉廻遊式庭園と枯山水庭園の2つからなります。
苑内には補陀落の池中央に、高村光雲作の聖観音菩薩立像。
「白寿庵」「華麗庵」という2つの茶室。
宮崎友禅斎の像などがあり、落ち着いた風情があります。
黒門
ここで知恩院を出て、三門前の神宮道を北へ向かいます。すぐ右手に黒門が見えてきます。
今回は正面の三門から知恩院に入ったのですが、この黒門から入るのもいいです。
苔むした石垣と石段と青もみじが、すばらしいです。
本日は浄土宗総本山・知恩院を歩きました。御影堂、大方丈、小方丈といった伽藍が素晴らしく、高台からの眺めもすばらしく、法然上人のご遺徳に触れられる感じがします。
明日は松尾芭蕉埋葬の地・膳所(ぜぜ)を歩きます。お楽しみに。
次の旅「将軍塚~平安京始まりの地に登る」