将軍塚~平安京始まりの地に登る

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こんにちは。左大臣光永です。

今日、久しぶりに龍安寺に行って、ぼーっと石庭を見てたんですよ。すると、奇妙なことに気づきました。

石の上に十字架らしきものが浮かび上がっているんですよ。石庭右奥の石の表面に十字架らしきものが見えます。

この模様は単なる偶然なんでしょうか?どなたか情報をお持ちの方ご連絡ください。

さて本日は京都市山科区の華頂山山頂にある将軍塚に登ります。

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延暦13年(794)桓武天皇が和気清麻呂のすすめに従って平安京遷都を決めた場所とされます。京都市内が一望できる、見晴らしのいい場所です。

将軍塚へ登るコース

将軍塚に登るコースは複数あります。粟田口の粟田神社横から登るコース。知恩院の梵鐘の脇の道から登るコース。円山公園裏手から登るコース。そのほか私は未経験ですが、清水寺からも登れます。

今回は円山公園裏手から登っていきます。

バス停祇園下車。

目の前が八坂神社です。祇園祭の最中で、賑わっていました。中国語がやかましく、耳が裂けそうでした。

八坂神社

参拝すませたら、

円山公園を突っ切り、

円山公園

円山公園

円山公園

大谷祖廟北門を右に見て坂道を登っていくと。

大谷祖廟北門

長楽寺の石段が見えてきました。

長楽寺

長楽寺

長楽寺の歴史

長楽寺は延暦24年(805)桓武天皇勅願により最澄が比叡山延暦寺の別院として創建。

当初は天台宗でしたが室町時代初期に国阿上人に譲られ時宗の寺院となりました。平清盛の娘・建礼門院徳子が出家した寺として有名です。

もともとは円山公園の大部分を含む広大な寺域でしたが、大谷廟建立の時大幅に削られ、明治初年に境内のほとんどが円山公園に編入されました。

建礼門院と長楽寺

元暦2年(1185)3月24日。壇ノ浦の合戦で平家一門は滅びました。平清盛の妻・二位尼徳子は安徳天皇と三種の神器を抱いて海に身を投げました。清盛の娘・徳子も海に身を投げましたが、源氏方に救出され、囚われの身として京都に戻ってきます。

5月1日。徳子は東山長楽寺にて阿証房印西のもとで出家。その時、我が子安徳天皇がいまわの際まで身につけていた御衣で旗を織って奉納したと伝えられます。

同年10月、長楽寺より大原寂光院に移り住みます。以後、徳子は寂光院で平家一門の菩提を弔い承元4年(1210)生涯を終えました。

本堂・境内

本堂には建礼門院がわが子安徳天皇がみぎわの際まで召していた衣で編んだ仏幡(旗)。建礼門院御影。建礼門院尊像などが安置されています。

長楽寺 本堂

これらは建礼門院ご出家の時期である4月1日~5月10日のみ公開されています。

境内には建礼門院供養の十三重の塔、

長楽寺 建礼門院供養の十三重の塔

建礼門院や法然上人高弟の隆寛律師が修行したという平安の滝。

長楽寺 平安の滝

長楽寺 平安の滝

裏山に頼山陽の墓とその息子・三樹三郎の墓があります。

長楽寺 頼山陽の墓

長楽寺 三樹三郎の墓

「洛中随一の絶景の霊地」

古来、長楽寺はそう言って文人墨客に讃えらてきました。今も木々の切れ間から京都の市街地が一望できます。騒々しい四条通りがすぐふもとにあるとはとても思えない静けさです。

平安時代、一条天皇中宮上東門院に仕えた中将が、長楽寺の風情を詠んで、

匂ふらむ花の都の恋しくて折にものうき山桜かな

都では桜の花が美しく色づいているだろう。それが恋しいので、この山里にいても、山桜を手折っても、物憂く思えるのだ。

此比(このごろ)は木々の梢に紅葉して鹿こそはなけ秋の山里

最近は木々の梢が紅葉してきた。鹿よ鳴け。秋の山里に。

おもひやれとふ人もなき山里にかけひの水の心細さよ

考えてみてください。人もいない山里にかけいの水だけがぼちゃぼちゃいってる、その心細さを

『後拾遺和歌集』

吉水草庵 安養寺

長楽寺門前から左に折れて細い道を進んでいきます。

右に見えてきたのが吉水草庵 安養寺です。

吉水草庵 安養寺

法然上人の吉水草庵跡であり、念仏発祥の地と言われます。

平安時代初期(延暦年間)に桓武天皇の勅願によって伝教大師最澄が創建。平安時代末期に法然上人は比叡山を下り、まず西山の広谷に。ついで東山の吉水に庵を結びました。

そこで法然は老若男女・身分の上下を問わず、専修念仏の教えを述べ伝えました。専修念仏…念仏を唱えれば誰でも救われるの教えです。

しかし。比叡山延暦寺からの専修念仏への弾圧は激しく、法然は四国に、弟子の親鸞は越後へ、流罪となってしまいました。

その後、安養寺は荒れ寂れますが、室町時代に国阿上人が再興し、天台宗から時宗にあらためました。

吉水草庵 安養寺

円山公園が一望できる見晴らしのいい所です。円山公園という名前も、安養寺の寺号、慈円山から来ています。境内には慈鎮和尚(大僧正慈円)が閼伽水を汲んだという井戸が残っています。

安養寺を後に、山道を登っていきます。非常にわかりにくいのですが、「将軍塚道」と刻まれた碑が立っています。ここが将軍塚への登り口です。

将軍塚 登り口

とたんに獣道になります。

知恩院へ下る分岐点を通り過ぎると、道はどんどん険しくなってきます。

涼しいです。祇園祭の最中というのに、ひぐらしがうねるように大合唱し、涼しい風が吹き抜けていきます。

またこれだけ鬱蒼としているのにヤブ蚊がぜんぜんいません。

東山山頂公園

30分くらいで山頂につきました。

東山山頂公園があり、展望台があり、京都の町並みが見渡せます。

東山山頂公園

ぜえぜえ言いながらも登ってきてよかったと思える瞬間です。

東山山頂公園と反対側に青蓮院の飛び地境内があります。

青蓮院の飛び地境内

青蓮院の飛び地境内

青蓮院自体はこの山のふもとにありますが、ここはその飛び地なのです。

山門(福徳門)をくぐると大日堂というお堂があり、

大日堂

お堂の脇の道から将軍塚に出られます。

まず見えてくるのが青龍殿(せいりゅうでん)。

青龍殿

平成26年10月落慶。国宝の青不動明王ニ童子像を安置した建物です。

青龍殿

平安時代中期に描かれた不動明王の絵像であり、肌の色が青黒(しょうこく)なので青不動と呼ばれます。本物は奥殿に安置され、その手前に精巧な複製がお祀りしてあります。

将軍塚青龍殿 大舞台・西展望台

清涼殿に付属して、大舞台がしつらえてあります。

将軍塚青龍殿 大舞台

眼下に京都の町が一望できます。手前に平安神宮の大鳥居が目立ちます。京都御苑の緑もいいです。

賀茂川・高野川が合流して鴨川になる様子も、よく観察できます。

金戒光明寺の三重塔がよく見えます。金戒光明寺の山と、吉田山が二頭のクジラのように寄り添っているのが微笑ましいです。

説明書には「清水寺の舞台の4.6倍」とあり、デザインも清水の舞台に似ていて、あからさまに張り合ってる感じがありますね…。また、離れにある西展望台からは遠く大阪のビル群まで見渡せます。

青龍殿の斜向いに、平安京はじまりの場所ともいえる将軍塚があります。

将軍塚

桓武天皇が平安京遷都に際し、王城鎮護のために武将の像を作り、鎧を着せて弓をもたせて西に向けて埋めたという場所です。直径約20m、高さ約2mの円墳です。

将軍塚

延暦13年(794)桓武天皇は和気清麻呂を伴ってこの地に登り、平安京遷都を決めました。

この国山河襟帯(さんがきんたい)して、自然に城をなす。この形勝によりて新号を制すべし。よろしく山背国を改めて山城国となすべし。また子来(しらい)の民、謳歌の輩(はい)、異口同辞(いくどうじ)にして、号して平安京という。

『日本記略』延暦十三年十一月八日条

この国は山と河が襟と帯のようにぴったりして、自然の城をなしている。この素晴らしい景観によって新しい名称をつけようと思う。山背国を改めて山城国とせよ。また天皇を慕う民やその徳を称える人々は、異口同音に平安京といっている。

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