太宰府を歩く
福岡県・大宰府を歩きます。
大宰府は飛鳥時代から約500年間にわたって、九州の行政・軍事・政治の中心地でした。また日本の外交・国防の要でした。
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太宰府天満宮、大宰府政庁跡、観世音寺など、現在も国庁次第の名残が各地に残っています。
4月のはじめ。九州では数日雨が続いた中の、たまの晴れ間でした。気分よかったです。
JR鹿児島本線二日市駅下車。
「奉納 合格祈願」の文字が目立ち、太宰府に来たな~という実感を強めてくれます。
「万葉と出湯の里 ちくしの」のモニュメントが迎えてくれます。
観世音寺
二日市駅前でタクシーに乗って、移動すること約10分。まずは観世音寺を訪れます。
観世音寺は天智天皇が亡き母・斉明天皇の供養のために築いた寺院です。太宰府政庁の東に位置し、「府(太宰府)の大寺」と言われ、九州第一の寺院として栄えました。
斉明天皇は661年、同盟国百済の救出のため船団を率いて九州に向かいます。しかし、遠征の途上、九州の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)で病にかかり亡くなりました。
息子の中大兄皇子が母斉明天皇をしのんで、この地に建立したのが観世音寺です。670年頃造営が始まりましたが、完成を見たのは80年後の天平18年(746)です。
また観世音寺には僧に正式な戒を授ける戒壇が設けられました。この戒壇は、奈良の東大寺、下野の薬師寺と並び、日本三大戒壇の一つに数えられています。
ずああーーっと、一番奥の講堂まで一直線に道が続いています。
南大門跡
まず見えてくるのが南大門の跡です。かつてここに南大門がありました。現在は、苔むした礎石が名残をとどめるのみです。
講堂
講堂に参ります。屋根が素晴らしいですね。甍の色が青々として、目にやさしいです。しっかり手をあわせていきます。
裏手に回ると屋根の上に草が伸びており、年期が入った感じです。
金堂
金堂。こちらも甍が見事です。パッチワークのようにさまざまな色合いが出来ていて、味わい深いです。
梵鐘
講堂左手前にある梵鐘は、日本最古のもので、京都妙心寺の鐘と兄弟と言われます。『大鏡』に出てくる菅原道真の詩に詠まれています。
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘聲都府楼は纔かに瓦の色を看(み)、
観音寺は只だ鐘の聲(こえ)を聴く
石垣の苔むした感じも、味わい深いです。
五重塔礎石跡
梵鐘の脇には五重塔礎石跡があります。かつてここに五重塔がそびえていたと…頭の中でイメージをふくらませ、思い描きます。
宝蔵
梵鐘のさらに奥には宝蔵(ほうぞう)があります。
観世音寺で一番の見どころです。二階が展示室です。観世音寺の出土品や仏像が並んでいます。高い天井をぶち破る勢いの馬頭観世音菩薩立像。
馬の頭と書くんですね。馬がばくばくばくっと草をはむように、衆生の苦しみを食い尽くしてしまう。
その左右に、十一面観音立像。不空羂索(ふくうけんさく)観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)立像(りゅうぞう)。
四天王像に囲まれた阿弥陀如来坐像、聖観音坐像など
天井の高い室内にゆったりとナレーションが流れ、いい雰囲気です。
僧正玄昉の墓
観世音寺裏手には僧正玄昉の墓があります。
遣唐使として、中国に派遣された僧です。のどかな田園風景の中にブロック塀の囲いがあって、ひっそりと玄昉の墓は立っています。
げっげっげっげっげっ、
蛙の声ものどかです。
玄昉は養老元年(717年)吉備真備・阿倍仲麻呂らとともに遣唐使として中国に渡りました。玄宗皇帝より三品(さんぽん)の位に叙せられ、18年後に帰国します。
帰国後は奈良の朝廷で吉備真備とともに橘諸兄政権下で重く用いられました。しかし九州に左遷された藤原広嗣に恨まれます。
広嗣は「吉備真備と玄昉の左遷」を求めて天平12年(740年)、九州で兵を挙げました。
藤原広嗣の乱です。
すぐに反乱は鎮圧され、その後も玄昉は橘諸兄政権を支え続けましたが、橘諸兄が失脚し藤原仲麻呂が政権を握ると、玄昉は疎まれ、
天平17年(745)大宰府観世音寺別当に左遷されます。そして赴任の翌年、観世音寺造立供養の日に死にました。
『平家物語』などによると、藤原広嗣の霊によってずばーーと首を空中に引っこ抜かれて、殺されたということです。
戒壇院
観世音寺を後に、国道76号線を太宰府政庁跡めざして歩いていきます。少し進むと右手に戒壇院があります。
しじゅうハラハラと枯葉が舞い散って、どの甍も枯葉が散り敷いていて、いい雰囲気でした。
奈良時代、観世音寺に戒壇が置かれました。
戒壇とは、仏教に僧侶に正式な僧としての資格を授けるための場所です。この壇の上で儀式を受けてはじめて、正式な僧侶と認めたわけです。
中国から渡ってきた鑑真和上によって天平勝宝6年(754)、東大寺に伝えられたのが始まりです。その後、下野薬師寺と観世音寺に戒壇が作られ、天平宝字6年(761)日本三大戒壇と定められました。
枯葉が舞い散る中に礎石が12個並びます。なるほど、ここに壇があったんですね。
ウンカが、口空けたら飛び込むくらい、ものすごく群がってました。
さらに国道76号線をしばらく進むと、学校院の跡です。
学校院は、府学校があった所です。府学校は大宰府政庁や九州各地の役所で働く役人を養成するための機関です。
学生たちは教官から政治・技術・算術・文章など、役人として必要なことを学びました。
だだっ拾い野原でその面影はありませんが、道路脇の溝の所に、二基の石碑が立っています。
このような役人養成機関としては中央では「大学(だいがく)」、地方では「国学(こくがく)」がありましたが、大宰府では特に「府学校」と呼ばれ、九州各地から役人を目指す者200人が学んでいました。
大宰府政庁跡
大宰府政庁跡が近付いてきました。子供たちの元気な声が響いてきます。
大宰府政庁跡は、九州全体を治める役所「大宰府」があった場所です。
平城京などと同じく、朝堂院を中心とした、長方形の広いエリアに役所の建物がありました。
まず7段石段を上った所が、南大門跡です。南大門は、大宰府政庁の南の端に位置する正門でした。
ここから役人たちは門くぐって入ったんですね。私も大宰府に勤める役人の気分で、入ることにします。
景色が素晴らしいです。
四王寺山(しおうじやま)を背後に、広々した公園として整備されています。
桜が満開です。
走り回ってる子供がいます。
弁当食べてる家族。ボール遊びしてる家族。…テント張ってるのもいますね。
のどかな春の一日です。
手前から
南大門跡、
中門跡、
正殿跡、
と並びます。正殿跡は大宰府の長官「帥」が政務や儀式を行った場所です。かつてはここに荘厳な建物がそびえていたんですね。この位置立って、政庁全体を見渡してみます。
朱雀大路まで一直線に見渡され、目が良くなりそうです。
大宰府政庁の大きさをしのばせる礎石が残り、周辺には回廊や門の跡が復元されています。
飛鳥時代、斉明天皇の663年、白村江の戦いに日本が負けたことにより、唐や新羅の侵略を受ける危険が高まりました。そこで、壱岐・対馬・筑紫に「防人」という兵士を置き、筑紫平野の南端に「水城」「大野城」「基肄(きい)城」そして「大宰府」を設置しました。
「水城」は大宰府の北方をふせぐ人口の堤と堀です。約1.2キロにわたって設置されました。
「大野城」「基肄城」は万一「水城」が突破された時はここにこもって戦うための山城です。朝鮮式山城という形式で、百済からの亡命貴族の指導のもと、作られました。
これら「水城」「大野城」「基肄城」が守っていたのが「大宰府」という役所だと考えられています。しかし「大宰府」がいつごろ成立したのかは不明です。
次の旅「太宰府を歩く(二)」