太宰府を歩く
本日は昨日に続き、福岡県太宰府を歩きます。
大宰府は飛鳥時代から約500年間にわたって、九州の行政・軍事・政治を統括する役所であり、また日本の外交・国防の要でした。5000人もの役人が働き、たいへんな賑わいを見せていました。
「人物殷繁にして天下の一都会なり」「遠(とお)の朝廷(みかど)」と言われました。
しかし。
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前回「大宰府を歩く(一)」
https://sirdaizine.com/travel/Dazaifu1.html
平安時代に入り律令制が崩れるとしだいに大宰府も廃れていきました。しかし、鎌倉時代の「鎮西探題」、南北朝時代の征西府、室町時代の「九州探題」が置かれたのも大宰府の地です。戦国時代あたりまで記録に登場します。
正確にいつ、大宰府がなくなったのかは、わかっていません。
やすみししわご大君の食国(おすくに)は
倭(やまと)も此処(ここ)も同じとそ思ふ巻6 956 大伴旅人
わが大君が治められる国は、大和もここ大宰府も同じく素晴らしい。
大宰府展示館
大宰府政庁の南端には大宰府展示館があります。大宰府に関する展示物・資料を展示してあり大宰府について学ぶことができます。
梅花の園
大伴旅人の「梅花の園」の再現模型がひときわ目をひきます。
720何年頃、万葉歌人としても軍人としても知られる大伴旅人が大宰帥(大宰府の長官)として大宰府に赴任しました。
旅人に少し先だち『貧窮問答歌』などで知られる山上憶良も大宰府の次官として赴任していました。
旅人と山上憶良はすぐに打ち解け、歌による交流が始まります。上司と部下という関係を超えて、魂の交流とでも言うんですかね。
やがて二人の周りには歌好きの連中が集まってきます。小野老(おののおゆ)、観世音寺の別当・沙弥万誓(しゃみまんぜい)、額田王以来最大の女流歌人といわれる大伴坂上郎女(おおともの さかのうえの いらつめ)など…。
彼らは「筑紫歌壇」と呼ばれる文芸サロンを形成し、中央の平城京とはまた違う、独自のにぎわいをなしていきました。
「梅花の園」は『万葉集』巻5にあります。
730年正月13日、大宰帥・大友旅人邸に役人たちが招かれ、梅の花を見て歌を作りました。お酒を飲みながら、ワイワイと談笑しながら、風流な宴だっでしょうね。
主賓・大伴旅人、観世音寺別当・沙弥万誓以下、左右に人々が座り、酒を飲み、歌を詠んで、ワイワイいってる感じです。
太宰府天満宮
大宰府政庁跡を後に、太宰府天満宮に向かいます。バスで100円で行けます。
西鉄太宰府駅前でバスを降りると、もう太宰府天満宮の門前町です。
左右にお土産もの屋さん、食事処が並び、賑わってます。
太宰府名物梅ヶ枝餅の店が多いです。
石造りの一の鳥居。
すぐその先に二の鳥居。
三の鳥居。
ほぼ一定間隔で並んでます。
昼は古民家を改造した「縁結び食堂 蕎麦 なみ満」に入り、えび天そばを食べました。えび天の横に梅干しの天ぷらがついてきました。太宰府といえば、梅。太宰府といえば、梅です。
太宰府天満宮は菅原道真公を祀る神社です。菅原道真は901年、太宰府に左遷され、2年後にこの地で亡くなりました。道真公の墓の上には神社が建てられ、天神さまとして信仰されるようになっていきました。
菅原道真は学問の家に生まれ、11歳で詩を作るなど、その学識豊かなことは幼いころから兆しが見えていました。
宇多天皇・醍醐天皇に重く用いら右大臣にまで出世しますが、901年、左大臣藤原時平の讒言により無実の罪を受けて太宰権帥として大宰府に左遷されます。
三の鳥居からすぐ左に折れて四の鳥居。
心字池にわたした平橋を渡り、右手に池の中に張り出した厳島神社を見ながら太鼓橋を渡り…
渡るとまた鳥居があって。
正面には鳥居くぐった先に、楼門。茅葺入母屋造りで雰囲気あります。
楼門くぐると、広い境内の奥に、茅葺の御本殿。これは戦国時代、小早川隆景が寄進したものです。
道真がいよいよ京都の屋敷を出発という時、ふと庭のほうを見ると、子供の頃から親しんできた梅の木がたたずんでいる。
(もうこの梅の花が咲くのを見ることはできないのか…。 冬が終わって東風が吹いたら、この梅の花を匂い立たせてくれ。主人の私がいなくなっても、春の訪れを忘れたりしないでおくれ…)
東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
主なしとて春な忘れそ
歌の心が通じたのか、梅の花は主人を慕って遠く大宰府まで飛び、その地に降り立ったと言います。
拝殿右手にある飛梅が、その時の梅だと言われています。
都から遠く離れた大宰府、浄妙院(榎寺)に謹慎すること二年。延喜3年(903年)2月25日菅原道真は失意のうちに没しました。
太宰府天満宮の三の鳥居右手から脇道を歩いていくと光明禅寺です。白壁の外側からすでに見える甍が、いい感じです。
光明禅寺は鎌倉時代、菅原氏出身の鉄牛円心により創設された臨済宗の寺院です。「苔寺」の名で親しまれ、春はシャクナゲ、秋は紅葉が目を楽しませてくれます。
光明禅寺は「渡宋天神」の由緒によって創建されました。鎌倉時代の禅僧・円爾が中国から戻ってきて、太宰府の崇福寺(すうふくじ)に住んでいた時、夢に天神様(菅原道真)があらわれました。
「はっ、あなた様は…菅原道真公!」
「いかにも私は菅原道真。なんだね最近は禅という
ありがたい教えが流行ってるようだね」
「それはもう、よいものです」
「私もそれ、勉強してみたいなあ」
「それはよい志です。よかったら私の師・仏鑑禅師(ぶっかんぜんじ)を紹介しましょうか」
「え、頼めるかね。それはありがたい」
こういうやり取りがあって、円爾は夢から覚めました。
後日また夢の中に、天神さま菅原道真があらわれます。天神さまは袋を背負って、手に梅の枝を持っていました。
「中国にわたって、仏鑑禅師から教えを受けてきたよ。
その証拠に、禅師の衣をいただいてきた」
こうして天神さま菅原道真は中国にわたって禅の教えを受けたのだという、「渡宋天神」の伝説です。
天神信仰と禅がまじりあっていったことをあらわすものと思われます。
枯山水の中庭。
鳴きしきる山鳥。
俗世間を離れて脳内を浄化される感じがあります。
梅ヶ枝餅
最後に、太宰府名物梅ヶ枝餅を食べていきます。
菅原道真公が太宰府の榎社で不遇の生活をしていた時に、安楽寺の老婆が門前で餅を作っていました。あまりに道真公があわれだということで、老婆はたびたび菅原道真公に餅の差し入れをしていました。
そして道真公が亡くなった時に餅に梅の枝を添えて送ったことから、梅ヶ枝餅が太宰府の名物となりました。
以上、観世音寺、太宰府政庁跡、太宰府天満宮、光明禅寺と太宰府の有名なスポットを回りました。
水城跡、大野城跡、筑前国分寺跡も次回はゆっくり回ってみようと思います。
取材日 2017年4月9日
次の旅「加藤清正を祀る本妙寺と加藤神社」