深川を歩く(二)
本日は、深川を歩く(二)です。
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小名木川
前回「深川を歩く(一)」からの続きです。清州通りを北へ直進します。見えてきました。小名木川にかかる高橋(たかばし)が。
天正18年(1590)徳川家康は江戸に入府します。
「さてこれから江戸の町をどんどん大きくしていくのだ」
当時もっとも大事な調味料は塩でした。人が増えるとなると、大量の塩を確保しなくてはなりません。そこで家康は、下総国(千葉県)行徳の塩田に目をつけます。行徳で生成した塩を江戸に運んでくれば、多くの人をまかなえる!
しかし、そこには問題がありました。
当時、江戸湾は深川近くまで入り込んでいましたが、浅瀬が多く舟が座礁しました。そのため行徳と江戸を行き来するにも大きく沖合いを迂回する必要があり、たいへんな手間でした。
そこで徳川家康が小名木四郎兵衛(おなぎしろべえ)に開削を命じて水路を整えさせたのが、この、小名木川です。
貞享4年(1687年)松尾芭蕉は門人の曾良・宗派と三人で、ここ小名木川から船に乗り込み、鹿島に旅立ちました。鹿島の名月にさそわれて、また、深川でお世話になった仏頂和尚を訪ねての旅でした。
らくの貞室、須磨のうらの月見にゆきて「松陰や月は三五や中納言」といひけむ、狂夫のむかしもなつかしきまゝに、このあきかしまの山の月見んとおもひたつ事あり。
さて小名木川を渡り、すぐに左に折れ、小名木川と並行して隅田川の方向に歩いていきます。
すぐに小名木川が隅田川に流れ込む合流点に出ます。
川の合流点って、なんかワクワクしませんか?私は奈良で、竜田川が大和川に流れ込んでいる合流点を見た時、妙な高揚感がありました。地図で見ればわかるんですよ。合流してるなってのは。しかし、実際に目で合流点を訪ねると、ああ確かに地図通り、合流してるなあと、嬉しくなるじゃないですか。
隅田川と小名木川合流点の脇の、ちょっと高台にあるのが芭蕉史跡展望庭園。芭蕉記念館の分館です。
芭蕉関係のレリーフと芭蕉像がある小さな公園です。
南に清洲橋。北に新大橋。東に万年橋。隅田川を行きかう船。いい気分です。
この芭蕉像は17時になると方向が変わるということですが、公園が16時30分に閉まるので、その瞬間を見ることはでません。
芭蕉稲荷神社
万年橋北詰にあるのが、芭蕉稲荷神社です。
延宝八年(1680年)。松尾芭蕉は日本橋から深川に移り、門人の杉山杉風の提供してくれた庵を住居と定めました。門人の李下が庵の前に芭蕉を植えたことから、芭蕉庵と名付けられ、本人もその頃から松尾芭蕉を号しました。
天和二年(1682年)八百屋お七の火事により芭蕉庵が焼失すると、芭蕉は一時甲斐の知人を頼って避難しましたが、翌天和三年(1683)友人・門人らのカンパで芭蕉庵は再建されます。
元禄二年(1689年)『おくのほそ道』の旅に出るにあたり、芭蕉は芭蕉庵を人に譲りました。元禄四年(1691年)暮、3年の長旅を終えて深川に戻ってきた芭蕉が住む所がありませんでした。そこで門人たちが再度、芭蕉庵を新築しました。
つまり芭蕉庵は三回新築されているのですが、芭蕉没後は武家屋敷となり、はっきりした位置もわからなくなっていました。
ところが、大正六年。深川を津波が襲った後に、石造りの蛙が見つかりました。
「これは芭蕉翁の愛好した蛙の置き物だ」
「ああ、芭蕉翁はこれをなでていたんだなあ」
こうして、この地に芭蕉稲荷として祀ったということです。
境内には「芭蕉庵跡」の碑があり、芭蕉の句が多く掲げられています。いたる所にカエルの置物があるのも愛嬌ですね。
芭蕉稲荷から北へ徒歩三分。見えてきました。江東区芭蕉記念館です。
芭蕉研究家真鍋儀十のコレクションを中心に、芭蕉自筆の短冊などの展示物があります。学芸員さんはとても親切で、芭蕉関係のことを聞くと、なんでもスラスラと答えてくださいます。私も『おくのほそ道』の商品を作る際、何度も助けていただきました。ありがとうごさいます!
芭蕉関係で疑問点があればぜひ、深川芭蕉記念館の学芸員さんに聞いてみてください。その博識と、親切なことに感動するはずです!
表に庭園があり、築山があり、芭蕉像を収めた茅葺のお堂がいい雰囲気です。
草の戸も住替わる代ぞ雛の家
ふる池や蛙飛こむ水の音
川上とこの川しもや月の友
以上、三基の句碑が立っています。
深川神明宮
芭蕉記念館すこし東には、深川神明宮があります。
今から400年ほど昔、深川の地は葦の茂る三角州で、住む人もいませんでした。
そこへ摂津国から深川八郎衛門ほか六名が移住し、この地に新田を開拓。すみやすくしました。さてこの深川八郎衛門。たいへん信仰深い男で、伊勢神宮を勧請し、この地に神社を築きました。それがここ深川神明宮です。
その後、徳川家康公が江戸に入府。当地を巡察した時、家康公は深川八郎衛門を召してお訪ねになります。
「この地は何というのか」
「はっ。住む者も少なく、これといった地名はございません」
「では八郎衛門、そのほうの性深川を地名とせよ」
こうして深川の地名ができたということです。
深川の地名のゆらいとなった深川八郎衛門は深川七福神のひとつ、寿老神となって本殿右手に祀られています。
次の旅「小名木川~塩の道を歩く」