銀閣寺を歩く(ニ)

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本日は「銀閣寺を歩く(ニ)」、足利義政の生涯を語りながら、銀閣寺の裏山を散策します。

前回「銀閣寺を歩く(一)」も、あわせてお聴きください。

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裏山へ

東求堂の右から錦鏡池にかかった橋(仙袖橋)を渡って、裏山に登っていきます。

大内石

橋の北側の池にぽつんと浮かぶのが大内石です。周防の大名・大内政弘が東山山荘(銀閣)造営に際し、足利義政に献上した石と言われます。

銀閣寺 大内石

大内政弘の祖父大内義弘は、義政の祖父・三代将軍義満が北山第金閣を造営するとき、協力をこばみました。その後足利義満と大内義弘の関係は悪化し、結局、大内義弘は謀反人として討伐されてしまいました(応永の乱)。

孫の大内政弘は祖父の反省もあって義政に協力したんでしょうか。

お茶の井

山の中腹に「お茶の井」があります。足利義政がお茶の水を汲んだとされ昭和6年(1931)発掘されました。今もこんこんと清水が湧き出しています。

銀閣寺 お茶の井

道すがら、青もみじと苔の共演が、見事です!

足利義政。室町幕府第八代将軍。父は六代将軍義教。母は日野重子。兄である7代将軍義勝が赤痢で10歳で死んだのを受けて8歳で将軍となります。はじめ管領の畠山氏が、ついで細川氏が権力をにぎりましたが、しだいに義政自身が政治を行うようになっていきます。

義政の時代、足利将軍家の権威はすっかり地に落ちていました。各地で徳政令を求める土一揆が起こり、守護大名や武士たちは、手をこまねくばかりでした。

そこに追い打ちをかけたのが、長禄3年(1459)から3年間にわたる飢饉です。巷には餓死者があふれます。都では毎日300人、多い日は700人が死にました。

すっかりイヤになった義政は、将軍をやめようと考えます。しかし妻富子との間に跡取りは無い。そこで弟の義視(よしみ)が出家していたのを還俗させ、将軍跡取りに指名しました。ところがその翌年、富子に子が生まれます。

義政はそれでも約束だから弟の義視に跡を継がようとしますが、富子は幕府一の実力者山名宗全(やまな そうぜん)と手を結び、息子義尚(よしひさ)を将軍に立てようとします。

一方、義視のほうは、私を将軍にするといったのに話が違いますと、管領細川勝元と手を組みます。こうして将軍後継者問題が、ややこしいことになっていきました。

応仁の乱の火種は、はじめは小さなものでした。

守護大名畠山氏の家督をめぐって、畠山政長(まさなが)・畠山義就(よしひろ)のいとこ同士が、対立していました。

これに幕府の二大実力者、細川勝元と山名宗全がそれぞれ味方したことによって事が大きくなり、さらに将軍家の後継者問題もからみ、全国の守護大名を巻き込んで、西軍・東軍に分かれての全国規模の戦いに発展していきました。

足利義政はなりゆき上、細川勝元の東軍に味方しましたが、東軍・西軍のどちらにも肩入れせず、戦に対しては徹底した無関心・無責任を貫きました。

応仁元年(1467)、合戦によって室町御所の隣の相国寺が炎上しました。日野富子以下、女たちはあたふたと大騒ぎしましたが、義政は一人ゆうぜんと酒を飲んでいたといいます。

6年目にして西軍大将山名宗全・東軍大将細川勝元が相次いで死んだため、講和が結ばれますが、地方ではなおもダラダラと戦が続き、完全に戦が終わるまでは11年かかりました。

すっかりイヤになった義政は、文明5年(1473)応仁の乱も一段落すると、息子の義尚に将軍職を譲り隠居します。しかし隠居後も、義政の気は晴れませんでした。

妻日野富子との関係は冷え切っていたし、息子義尚も放蕩三昧。そうかと思うと突然出家すると言い出したり、抜刀して人を追いかけ回したり、…父の手に負えませんでした。

義政は政治にも、戦争にも、家庭にも、疲れ果てていました。

失意の足利義政の心をとらえたのが、風流の世界でした。義政は応仁の乱のずっと前から水墨画や禅、連歌の世界に興味を持っていました。すでに応仁の乱以前に東山を視察し、「いつかはこの美しい景色の中に山荘を持ちたい」という計画を立てていました。

文明9年(1477)11年間にわたった応仁・文明の乱が終わります。双方に取って得るものの無い、不毛な戦でした。どちらが勝ったか、負けたかもわかりませんでした。京都の伝統ある神社仏閣も灰燼と帰しました。

五年後の文明14年(1482)、義政はかねてから計画していた東山山荘の造営に着手します。東山山麓の浄土寺が、応仁の乱で焼けたまま放置されていました。義政はその浄土寺跡地に山荘の建設をはじめました。

予算は日明貿易の利益から当てますが、足りないので、各地の守護大名に献金を持ち掛けました。しかしほとんど献金しないので、臨時課税を行いました。

それでも足りないので、今度は公家や大寺社にも課税しました。

翌文明15年(1483)義政の住まいとなる常御所(つねのごしょ)が完成。義政は早くも新居に移ってきました。

その後、10年近い歳月を費やして東山山荘には十以上の建物が造営されました。常御所を手始めに文明17年(1485)には西芳寺の西来堂を模した禅室「西指庵(さいしあん)」が。

翌文明18年(1486)持仏堂である東求堂(とうぐどう)が。長享元年(1487)年、泉殿が完成。そして長享3年(1489)より義政の美的こだわりの粋を集めた観音殿(かんのんでん)に着工しました。

義政はこれらの建物の造営について、一切の妥協を許さず、自らの思い描く理想の美を実現するために、心血を注ぎました。

最終的にすべて義政自身が判断し、ダメであれば修正させ、時にはすべて壊して一から作り直させました。予算が無いので妥協…などということは一切ありませんでした。

足利義政は政治においては優柔不断で、気の弱い人物でした。その優柔不断さが、応仁の乱を11年も長引かせた一因といえます。しかし美の追求においては義政は一切の妥協を許さない、徹底した完璧主義者でした。

義政の時代の建物は多くが応仁の乱と戦国時代の戦火で焼け、その痕跡も届めていません。しかし東山山荘・銀閣は何度も改修されたものの、今日までほぼ原形を留めて残り、義政の見出した美意識は今日まで日本人の根幹をなすものとして生き続けています。

東山山荘造営中の文明17年(1485)6月、義政は洛北嵯峨の臨川寺三会院(さんえいん)で出家し喜山道慶と号しました。

わが庵は月待山のふもとにて
かたむく月のかげをしぞ思ふ

義政の、その美的こだわりの粋を集めた東山山荘観音殿・銀閣が完成したのは、延徳2年(1490)義政が死んで後のことでした。

京都の町並みをのぞむ

裏山の高い位置から観音殿(銀閣)と、京都の町並みを見下ろせます。

こんもりとクジラの背中のように見えているのは、吉田山です。古来神のいます神聖な山とされました。吉田山には吉田神社、ふもとに京都大学があります。

銀閣寺から吉田山の北を通ってのびる今出川通りは、足利義政の時代には北小路と呼ばれていました。

北小路=今出川通は義政が歩んできた人生そのものです。祖父義満が造営し、義政も住んだ室町第(花の御所)。仮の御所である小川邸(現宝鏡寺境内)。

天皇がすまわれた内裏(現在の京都御所でなく、大宮通より西にあった)。祖父義満が建てた相国寺。そして応仁の乱の東西の大将、細川勝元・山名宗全の屋敷も通りから近いです。

応仁の乱ですっかり焼け野が原になった京都の町を、義政はこの場所から見下ろしたでしょう。その時、義政は何を思ったでしょうか。

銀閣寺(観音殿)

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