平城京~藤原氏の都

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奈良 三条通り

JR奈良駅を降りて、すぐに見えるのが奈良の目抜き通り、
三条通りです。本日はあなたとご一緒に、
この三条通をご一緒に歩いていきましょう。

左右にはみやげ物やさんなどが並び、
楽しい雰囲気です。

時折は、お寺があったり、天皇陵があったりと、
奈良っぽい雰囲気が、そこかしこに、満ちています。

三条通りをぶらぶら1キロ弱進むと
ぱっと開けた場所に出て、広い池がそこにあります。

さあ~っと風が吹いて池のほとりの柳が風にゆれて、
いい雰囲気です。さあこの池は何でしょうか?

猿沢の池。

猿沢の池です。

御覧ください。

あの、石の上で甲羅ぼししている生き物を。
ノンビリとくつろいでいるじゃないですか。

亀です!

猿沢の池のほとりでベンチに腰掛けて、
亀をながめていると、頭がボーーッとしてきて、
こくっ、こくっと眠りに落ちるも風流なことですが、

池の水面に映りこむ五重の塔。奈良の風物詩ですね。
あれこそが、興福寺です。

宝物館の阿修羅像は有名ですよね。

凛とした阿修羅像の前で、しばしたたずみ、
天平の昔に思いをはせる方も多いのです。

興福寺は藤原氏の氏寺です。
藤原不比等が、父鎌足の菩提を弔うために築いた、
興福寺は藤原氏の氏寺です。

一方、猿沢の池の南に目を転じると…
あまり観光スポットとしては有名ではないですが、
歴史的にはとても重要な寺院がそこにあります。

元興寺。

元興寺です。元興寺はもと飛鳥寺のことです。

飛鳥寺というと、アーモンド型の飛鳥大仏で有名な、
あの飛鳥の飛鳥寺です。

蘇我馬子が建立した、
日本最古の仏教寺院・飛鳥寺。

もとは飛鳥にあった飛鳥寺こと元興寺が、
平城京に都が遷った時、うつされてきたものです。

飛鳥寺といえば、中大兄皇子と中臣鎌足が
蹴鞠の席で運命的な出会いをしたとされる場所です。

いくぞ。ポーーーンと蹴り上げた勢いのままに、
木靴が脱げてしまい、

コローン、コロン、コロン、コロンと転がった、
その時物陰からあらわれた中臣鎌足がスッと拾い上げて、
皇子さまどうぞ。

おうすまんすまん、えっとその方は…
中臣鎌足と申します。皇子さまと同じく、
この国の将来を憂いている者です。

これが中大兄皇子と
中臣鎌足の運命的な出会いであったという、
あの飛鳥の飛鳥寺こと元興寺が、
平城京に移されて、猿沢の池の南側にあるわけです。

飛鳥寺はもともと、蘇我馬子が建立した寺です。
そして周知の通り、蘇我氏は乙巳の変で中大兄皇子と
中臣鎌足によって滅ぼされました。

中臣鎌足が藤原氏の祖ですから、
いわば、蘇我氏は藤原氏によって滅ぼされた
というわけです。ここで、興福寺と、元興寺の配置を見てください。

興福寺はズザァーーと切り立った崖の上にありますね。
そうとうな高台です。長い石段を登っていかないといけません。
一方の元興寺は、平地にあります。

まるで、藤原氏の氏寺たる興福寺が、
蘇我氏の寺である元興寺を見下ろしているようにも
見えます。

外京~平城京だけの特徴

そして、

三条通りをさらに東に向かっていくと、長い、長い
参道の左右にずらーーーっと、どこまでも灯篭が並び、
そこかしこで鹿がのんびり歩いてます。

この神社こそが、そうです。

春日大社です。

春日大社です。

春日大社も藤原氏の創設による寺です。

「外京」という張り出し部分を都の東に持っているのが、
平城京の特徴です。藤原京にも、平安京にも無い、
平城京だけの特徴です。

そして今、あなたと共に歩いてまいりました道のり。

JR奈良駅から三条通りを通って、興福寺、元興寺、
猿沢の池。

まさに、今ご一緒に、歩いてまいりました、今の、道のりが、
平城京の「外京」にあたる部分です。

そして「外京」のさらに外側にあるのが、
藤原氏の神社たる、春日大社です。

このように、

平城京の東の張り出し部分、「外京」には興福寺、
元興寺、外京のさらに外側には春日大社と、
藤原氏と強く関係する寺院が固まっています。

これは偶然でしょうか?

いいえ。

偶然では、ありえません。

平城京遷都は元明天皇のもと、
藤原不比等が主体として行った事業であり、
不比等は平城京を藤原氏の都と強く意識して、
都づくりを行いました。

そんなことに思いを馳せながら、
今度は近鉄奈良駅からバスに乗って、
平城宮跡(へいじょうきゅうせき)に行ってみましょう。

近鉄奈良駅の入り口では行基上人像が迎えてくれます。
バスにゆられること約20分。

平城宮跡は、かつて平城京の中心部分があり、
天皇のおまし所などがあったところです。

現在は朱雀門と大極殿が復元されています。
特に大極殿は2010年に平城京遷都1300年記念事業とし
て復元されたものです。

さて、この平城京の中心部分。平城宮とよばれるエリアにも、
東に張り出し部分があったことが発掘調査でわかってきました。

あたかも、平城京全体の、相似形になるような感じで、です。

そして平城宮の張り出し部分に隣接して、
広大な館がありました。

現在、この位置は法華寺というお寺になっていますが、
かつては、ある人物の広大な屋敷でした。

おわかりでしょうか?誰あろう、
その人物こそが、そうです。

藤原不比等です。

不比等の館は、聖武天皇やお后の光明子が起居する
平城宮の東の張り出し部分に隣接し、不比等の館の西門を通ってすぐに、
内裏の東門がありました。

不比等は内裏まで直接、門を通って、
ひんぱんに出入りしていたものと思われます。

平城京の地図を見ると、いかにも、
藤原氏と天皇家の関係をそのままあらわしているようです。

天皇家という大樹にからまって、
養分をすいとっていく藤原氏。

まさに、その名の通り、藤のように、
天皇家にからまって成長していく、
藤原氏のありようを、平城京という都は象徴しているようです。

しかも、です。

興福寺から見て、西の方角に内裏があるのですが、
興福寺は内裏よりずっと高台にあります。
内裏を見下ろす位置に、藤原氏の氏寺たる興福寺があるのです。

いわば、不敬です。普通なら、許されないことです。
しかし、そこまでの行いを許されるほど、
藤原氏が、天皇家が信頼を得ていたのかもしれません。

まるで、

かつて、蘇我氏が飛鳥の甘樫丘に館を構えていたように。

甘樫丘は当時の皇居・飛鳥板葺宮を見下ろす小高い丘です。
そんな位置に館を構えることを許されるほど、
蘇我氏は天皇家から信頼されていたということなんでしょう。

蘇我氏滅亡から65年を経て、平城京に都が遷り、
今度は藤原氏が、天皇家という大樹にからまる藤のように、
勢いをのばしていく

…奈良を歩いていると、
そんなことをあれこれ、あれこれ、考えさせられ、
興味が尽きません。

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