東大寺を歩く

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本日は奈良の東大寺を歩きます。

荘厳な東大寺南大門、「奈良の大仏」で知られる毘盧遮那仏。境内を行き交う鹿。そして奈良を代表する仏教行事「お水取り」こと「修二会」で知られる二月堂…東大寺は見どころだらけです。

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前回「興福寺を歩く」の続きです。

春日大社参道~

興福寺・猿沢池を後に、三条通りを東へ歩いていきます。やがて春日大社一の鳥居が見えてきます。

春日大社 一の鳥居
春日大社 一の鳥居

参道を直進。

春日大社 参道
春日大社 参道

そこかしこに鹿がいます。よく慣れてます。愛想がいいです。




やがて春日大社の参道が東大寺の参道と交差するので、左折します。

東大寺門前です。

東大寺門前
東大寺門前

東大寺門前
東大寺門前

お土産やさんがならび、楽しげな雰囲気が出ています。ここにも鹿がたくさんいますが、売り物はけして荒らさないそうです。誰かが躾けてるんでしょうか。




東大寺南大門

見えてきました。東大寺南大門です。

東大寺南大門
東大寺南大門

東大寺南大門
東大寺南大門

入母屋造り・本瓦葺、高さ26メートル。治承4年(1180)平重衡による焼き討ちの後、正治元年(1199)俊乗房重源によって再建されたものです。両脇には木像金剛力士立像が雄々しくそびえます。

東大寺南大門
東大寺南大門

木像金剛力士像

木像金剛力士立像は建仁3年(1203)運慶・快慶が指揮する仏師集団に製作ざせたものです。69日間で完成したと伝えられます。


鏡池~中門

南大門をくぐり参道を進みます。



かつては南大門から中門までの参道の左右に、一対の七重塔が立っていました。今は塔の跡(東塔跡・西塔跡)のみが残ります。

参道右の鏡池。そのほとりの草むらも、鹿たちの憩いの場となっています。

東大寺 鏡池
東大寺 鏡池


東大寺について

東大寺は華厳宗総本山。南都七大寺の一つ。神亀5年(728)聖武天皇が早世した皇太子・基皇子(もといのみこ)の菩提を弔うために建立した金鐘山寺(こんしょうさんじ)を前身とします。

天平13年(741)、聖武天皇は当時都を置いていた恭仁京から、全国に国分寺・国分尼寺を設置する勅を出します。そこで金鐘山寺は大和国国分寺とされ金光明寺(こんこうみょうじ)と称されました。

天平15年(743)、聖武天皇は近江の紫香楽宮(しがらきのみや)にて盧舎那仏造営の詔を発します。これに先駆ける天平12年(740)聖武天皇は河内国智識寺(ちしきじ)で本尊の盧遮那仏を見て、ひどく感銘を受けたのです。そして思いました。「朕もこのような大仏が作りたい」それで、大仏建立の勅となったのでした。

「国中の銅を尽くして尊像を造り、大きな山の木をみな切って仏殿を構えるのだ。一枝の草、一にぎりの土ほどのわずかな物でも、造営のために寄進したいという者があれば、無条件でそれを許せ。また、役人たちはこの事業のために、人民を徴発したり、増税したりしてはならぬ」

当時、疫病や飢饉が流行し、九州では藤原広嗣の乱が起こるなど、社会不安がましていました。そこで聖武天皇は仏教の力で国を護る=鎮護国家という考えで、大仏造営の勅を発したのでした。

大仏の造営は聖武天皇が離宮を置いていた紫香楽宮で始まりました。しかし災害が相次いだため中止となり、平城京の金鐘寺で造営されることとなりました。平城京の東にあることか東大寺と寺の名もあらたます。


大仏造営は747年に始まり749年まで足掛け3年に渡りました。民衆の間で支持を得ていた僧・行基も、大仏造営の勧進に加わりました。

さらに大仏殿の完成までには3年かかりました。

天平勝宝4年(752)4月9日、大仏・大仏殿ともに完成し、開眼供養会が行われました。

天平勝宝8年(756)聖武上皇が崩御すると、光明皇太后によってその遺品が東大寺に収められました。遺品の一部は今も東大寺北方の正倉院に安置されています。

その後も東大寺の伽藍はじょじょに整えられ、学問研究はいよいよ盛んになります。東大寺は華厳宗をはじめとする奈良の仏教教学…「南都六衆」の研究所として栄えました。平安時代に入ると、天台宗・真言宗も取り込んで、八宗兼学の学問寺となりました。

治承4年(1180)12月、平重衡の南都焼き討ちによって大仏殿はじめ伽藍のほとんどが焼失します。しかし翌年には俊乗房重源による再建活動が始まります。後白河法皇や源頼朝も大仏再建のために援助し、文治元年(1185)大仏開眼供養が、建久6年(1195)大仏殿落慶供養が行われました。

戦国時代には永禄10年(1567)松永久秀と三好三人衆との戦いの際に大仏殿はじめ多くの伽藍が焼失しました。その後、大仏殿は長く再建されず大仏は吹きさらしになっていましたが、宝永6年(1709)徳川綱吉とその母桂昌院の援助のもと、大仏・大仏殿が復興し、現在に至ります。

中門~大仏殿(金堂)

南大門から北へ直進すると中門があり、中門を中心に左右にのびた回廊が大仏殿を取り囲んでいます。

東大寺 中門
東大寺 中門

中門南西の受付から中に入ると、


大仏殿の威容が目に飛び込みます。

東大寺 大仏殿
東大寺 大仏殿

東西57m。南北50m。高さ47m。世界最大の木像建造物です。現在の大仏殿は江戸時代(元禄時代)に公慶上人によって再建されたもので、その時経済的な理由から東西の幅が30メートル削られました。

東大寺 大仏殿
東大寺 大仏殿

だから現在の大仏殿は再建前よりもずっと小さいですが、それでも木像建造物としては世界最大です。

八角燈籠

大仏殿前の八角燈籠は東大寺創建当時…天平時代のものです。

東大寺 大仏殿前 八角燈籠
東大寺 大仏殿前 八角燈籠

治承4年(1180)平重衡の焼き討ちも、永禄10年(1567)三好・松永の兵火も生き延びました。表面に彫刻された音声(おんじょう)菩薩像が天平文化の息吹を今に伝えます。

毘盧遮那仏像

奈良の大仏。正式には毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)。

東大寺 毘盧遮那仏
東大寺 毘盧遮那仏

智慧と慈愛の光で全世界をあまねく照らし、衆生を導く仏、という意味です。宗派によって解釈は違いますが、華厳宗では釈迦と同一とみなします。

平安時代に地震で頭部が崩れ、平安末期の平重衡の焼き討ち、戦国時代の三好・松永の合戦でも倒壊しましたが、そのたびに再建し、今に至ります。天平時代の創建当時の部分も、下半身や蓮弁の一部に残っています。

俊乗堂・鐘楼

大仏殿を後に、東大寺東側の斜面に登っていきます。



踊り場状の空間に出ました。


鐘楼を中心に、俊乗房重源の像を祭った俊乗堂、

東大寺 俊乗堂
東大寺 俊乗堂

行基上人を祀った行基堂、

東大寺 行基堂
東大寺 行基堂

地蔵菩薩像を安置した地蔵堂、

東大寺 地蔵堂
東大寺 地蔵堂

喫茶店や売店もあるので、ここで腹ごしらえして行くのもいいですね。

開山堂

開山堂。東大寺初代別当・良弁僧正(ろうべんそうじょう)を祀ります。良弁僧正は僧行基らとともに東大寺創建に大いに働きがありました。内陣中央の八角形の厨子に、良弁僧正像が安置されています。だいぶ位置が高くなってきました。さらに階段を登っていきます。

二月堂

二月堂。

東大寺 二月堂
東大寺 二月堂

東大寺東側の斜面に立つ舞台造の建物です。旧暦の二月に修二会(しゅにえ)という法会を行うため、二月堂といいます。

東大寺 二月堂
東大寺 二月堂

寛文7年(1667)の修二会の時、火事で焼けて、現在の二月堂はその二年後に再建されたものです。

東大寺 二月堂
東大寺 二月堂

修二会(しゅにえ)は奈良を代表する仏教行事です。東大寺初代別当・良弁僧正の高弟・実忠(じっちゅう)が天平勝宝4年(752)始めとされます。「お水取り」の名でも親しまれています。二月堂御本尊の十一面観音に自分の罪を懺悔して、天下泰平・五穀豊穣・人々の幸せなどを祈ります。

もともとは旧暦の2月1日から行われていましたが、現在は新暦の3月1日から14まで行われます。「練行衆(れんぎょうしゅう)」と呼ばれる11人の僧が修二会を取り仕切ります。

3月12日夜、練行衆が二月堂に上がる道筋を照らす松明の火は、修二会のシンボルとしてよく知られています。そして12日深夜、二月堂下にある閼伽井屋の水が汲み上げられて、ご本尊の十一面観音にお供えされます。水を汲み上げるから「お水取り」です。

なぜ水を汲むのか?そこには言い伝えがあります。

修二会をはじめた実忠が、全国の神様を二月堂に招いた。全国の神々は招きに応じて集まったが、その中に若狭の遠敷(おにゅう)明神だけは釣に夢中に成っていて、遅刻してしまった。

遠敷(おにゅう)明神は、これはしまった。悪いことをした。お詫びに、閼伽水(仏にお供えする水)を献上しようと言うと、岩盤が割れて水が湧き出した、という言い伝えに基づき、お水取の儀式をやるわけです。

東大寺 二月堂
東大寺 二月堂

水とりや 氷の僧の 沓(くつ)の音

松尾芭蕉が二月堂で詠んだ句です。

旧暦の二月。東大寺二月堂では修二会が行われる。寒い。そして厳かな空気である。僧侶たちが二月堂に駆け上る木沓の音が響く。その音が氷のように凍てついて、緊張感を伴って感じられるという句です。

舞台からは、巨大な良弁杉と二月堂参籠宿所の甍を前景として、向うに奈良の町並みが、はるかに信貴山が、生駒山が見渡せます。



東大寺 二月堂
東大寺 二月堂

法華堂(三月堂)

二月堂南隣に法華堂。旧暦の三月に法華会が行われたので三月堂とも。

東大寺 三月堂
東大寺 三月堂

御本尊全長362センチの不空羂索観音立像(かんしつ・ふくうけんさく・かんのん・りゅうぞう)をはじめ、脇侍(わきじ)の梵天・帝釈天立像、金剛力士立像、四天王立像など、天平時代の仏像が安置されています。

手向山八幡宮

法華堂南に手向山八幡宮。

東大寺 手向山八幡宮
東大寺 手向山八幡宮

東大寺の大仏を作る時、八幡神の助けがあったことを感謝して、九州の宇佐八幡宮を勧請したものです。その後、東大寺の鎮守の社となりましたが、明治の神仏分離令によって東大寺から分けられ、現在に至ります。

本日は、東大寺を歩きました。

荘厳な東大寺南大門、「奈良の大仏」で知られる毘盧遮那仏。境内を行き交う鹿。そして奈良を代表する仏教行事「お水取り」こと「修二会」で知られる二月堂…東大寺は見どころだらけです。

次回は持統天皇が遷都した都「藤原京」…その中心地「藤原宮跡」を歩きます。お楽しみに。

次の旅「春日大社を歩く

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