興福寺を歩く
本日は奈良の興福寺を歩きます。
猿沢池(さるさわのいけ)に映り込む五重塔。荘厳な中金堂・東金堂。阿修羅像はじめ国宝をおさめた国宝館…心躍ります。
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近鉄奈良駅~興福寺
近鉄奈良駅東改札口から地上に出ると、まず行基上人像と噴水のある広場があります。
近鉄奈良駅東改札口
近鉄奈良駅東改札口 行基上人像
近鉄奈良駅東改札口 行基上人像
ここから東向き商店街をつっきって…
奈良 東向き商店街
三条通りを左に折れて、少し歩くと、
奈良 三条通
見えてきました。右に猿沢池。
猿沢池
左に興福寺に続く石段が。
興福寺 石段
猿沢池はもと興福寺の放生池(ほうじょうち)です。
猿沢池
放生池とは、魚をわざと放して功徳を積む儀式をするための池です。そのせいか現在でも亀や鯉が多いです。猿沢池に興福寺の五重塔が映り込む景色は、興福寺のみならず奈良全体のシンボルとして親しまれています。
采女(うねめ)神社
猿沢池のほとりは采女(うねめ)神社があります。
采女神社
天皇の寵愛が失われたことを嘆いた采女が、身を投げた。その霊を供養するために建てたれたと伝えられます。自分が入水した猿沢池を見るのは辛いということで、祠は一晩で背を向けてしまったということです。現在も猿沢池に背を向けて祠が立っています。毎年秋の中秋の名月の晩には、采女祭りが行われます。
南円堂(なんえんどう)
では興福寺の石段を登りましょう。
まず見える建物は、南円堂(なんえんどう)。
興福寺 南円堂
弘仁4年(813)藤原冬嗣による造営。西国三十三所観音霊場の第9番札所。本瓦葺の八角円堂で、円堂の規模としては日本最大です。江戸時代の再建。南円堂前の藤棚は奈良八景の一つに数えられます。
興福寺について
興福寺は和銅3年(710)平城京遷都直後、藤原氏の氏寺として建立されました。法相宗(ほっそうしゅう)の総本山であり南都七大寺(なんとしちだいじ)の一つに数えられます。
興福寺の歴史は中臣鎌足にさかのぼります。中大兄皇子とともに蘇我入鹿を倒した中臣鎌足は、決起の成功を感謝して釈迦三尊像と四天王像を造立しました。
天智天皇6年(667)、都が飛鳥から大津に遷り、翌668年中大兄皇子が天智天皇として即位しました。翌669年、鎌足は病の床につきます。そこで、鎌足の妻・鏡女王(かがみのおおきみ)は、病気平癒を願って山階の地に鎌足造立の釈迦三尊像を安置して寺を開きました。これが興福寺の前身たる山階寺(やましなでら)です。
壬申の乱(672)を経て、都が大津から飛鳥に遷ると山階寺も飛鳥に移り、厩坂寺(うまやさかでら)と称されます(奈良県橿原市久米あたり)。
その後、鎌足の跡を継いだ次男の不比等は大宝律令、養老律令といった法典を制定し、日本を律令国家へとおしすすめていきました。
和銅3年(710)平城京遷都に伴い、不比等は厩坂寺を奈良に遷し、場所を春日山のふもとに定め、興福寺と称しました。
はじめ中金堂が立てられ、伽藍がじょじょに充実していきます。
養老5年(721)元明上皇が藤原不比等の病平癒のため北円堂を建立。神亀3年(726)聖武天皇が元正上皇の病平癒のため東金堂を建立。天平2年(730)光明皇后の発願で五重塔を建立。
天平6年(734)光明皇后が母橘三千代の菩提を弔うため西金堂(さいこんどう)を建立。弘仁4年(813)藤原冬嗣の発願で南円堂が建立されました。
延暦13年(794)平安京遷都の後も、興福寺は藤原氏の氏寺として大いに栄えました。何度も火災にあうも、堂宇はそのたびに再建されました。また平安時代の神仏習合思想により、春日大社と一体化し「春日社興福寺」と称しました。
各地に荘園を持ち、多数の僧兵をかかえ、何かというと春日社の御神木をかついで都に乱入し、強引に要求を押し通す「強訴」で恐れられました。比叡山延暦寺とならび「南都・北嶺」と称されました。
治承4年(1180)平重衡の焼き討ちによりすべての伽藍が焼失しましたが、その後少しずつ再建されました。鎌倉時代には興福寺は勢いを取り戻します。鎌倉幕府は各国に守護を置きましたが、大和国には守護が置かれず、興福寺が大和国守護を務めました。
続く室町時代にも興福寺は大和国守護を務めました。しかし戦国時代には戦国大名・筒井氏によって大和国の実権を奪われていきました。
法相宗とは
興福寺は法相宗の大本山です。法相宗とは南都六宗の一つで唯識思想を学ぶ学派です。唯識…つまり、世界のあらゆることは心で認識することによって存在する、つまり心次第であるという考え方です。
手を打てば 鯉は餌と聞き 鳥は逃げ
女中は茶と聞く 猿沢の池
「手を打つ」という一つの行為も、それを受け止める側によって、鯉はあっ餌だと、鳥はやばい逃げろと、女中はそろそろお茶の時間かしらと、いろいろに受け止めることだよと。だから心の持ちよう次第だよという話です。
南大門跡
南円堂の前を通って、開けた空間に出ました。
右に南大門跡。三条通りと向かい合ってます。
興福寺 南大門跡
毎年五月に、ここ南大門跡で薪御能(たきぎおのう)が奉納されます。
興福寺 南大門跡
中金堂(ちゅうこんどう)
南大門正面に見えるのは、中金堂。2018年4月現在、工事中です。→2018年10月よりリニューアルオープンしました。
興福寺 中金堂
興福寺 中金堂
和銅3年(710)平城京遷都直後に、藤原不比等によって造営された、興福寺でもっとも古い建物です。しかし度重なる火災にあい、創建当時の様子はわかりません。現在、創建時の姿を復元する工事が進んでいます。平成30年(2018)落慶予定です。→平成30年(2018)10月、リニューアルオープンしました。
五重塔
南大門左に五重塔がそびえます。
興福寺 五重塔
これぞ!興福寺って感じですね。猿沢池に映り込む興福寺五重塔は、興福寺のみならず奈良全体のシンボルといっていいでしょう。
天平2年(730)光明皇后による創建。現在の塔は応永33年(1426)再建されたものです。高さ50.8m。京都・東寺(教王護国寺)の五重塔につぐ高さです。
創建当時は回廊によってすぐ北の東金堂とつながっていました。東金堂は聖武天皇が元正上皇の病気平癒のために建立した建物。それと光明皇后建立の五重塔がつながっていたのは、聖武=光明夫婦の結束をあらわしています。
東金堂(とうこんどう)
中金堂の東にある東金堂。
興福寺 東金堂
神亀3年(726)聖武天皇が先代の天皇であり叔母にあたる元正上皇の病気平癒のために建立した建物です。
元明・元正・聖武
現在の中金堂は応永22年(1415)の再建。五重塔と東金堂が重なって見える様子も、カッコいいです。
興福寺 東金堂・五重塔
堂の内には御本尊の薬師三尊像はじめ文殊菩薩坐像、維摩居士坐像、十二神将像、四天王像が安置されています。
国宝館
東金堂の北に国宝館。
興福寺 国宝館
ある意味、興福寺で一番の目玉といえるでしょう。有名な阿修羅像をはじめとした八部衆像、高さ5メートル以上もある木像千手観音立像。十代弟子像、鎌倉時代の木像金剛力士像、木像法相六祖(ろくそ)坐像…時の経つのを忘れます。じっくり時間をかけて見たいところです。
鹿
このあたり、鹿が多いです。人懐こく、可愛いです。
三重塔
その他にも境内にはいくつかの伽藍があります。
南円堂の後ろの低い丘の影に三重塔。
興福寺 三重塔
鎌倉時代の建立。わかりにくい位置なので見逃さないように注意が必要です。
西金堂跡(さいこんどうあと)
南円堂から北円堂に向かう途中に、西金堂跡があります。西金堂は、聖武天皇皇后・光明子が、亡き母・県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)の一周忌供養のため建立した建物です。天平5年(733)正月より造営が始まり、翌天平6年正月に完成しました。
興福寺 西金堂跡
西金堂は現在、土壇が残るのみです。享保2年(1717)の火事で焼けてしまいました。有名な阿修羅像以下の八部衆や十大弟子などの像は取り出され、現在、国宝館に安置されています。
すぐ北にある北円堂は不比等の菩提を弔うために養老5年(721)の建立。その南に三千代の菩提を弔う西金堂を建てたのです。北円堂、西金堂は、光明子の父と母を記憶したもので、光明子の「藤原氏の娘」としての面が強く出ています。
北円堂(ほくえんどう)
そしてふだんは非公開ですが、境内西北のはずれに北円堂。
興福寺 北円堂
養老5年(721)元明上皇とその娘・元正天皇が藤原不比等の菩提を弔うため、長屋王に命じて建てた八角円堂です。現在の建物は鎌倉時代の再建です。春と秋のみ公開されています。
元明・元正・聖武
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