平城宮跡を歩く
本日は「平城宮跡を歩く」です。
平城宮は平城京中央北部に位置し、政治の中枢であったところです。平成10年(1998)に朱雀門が、平成22年(2010)大極殿が復元され、いにしえの奈良の都の風情が高まってきています。
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近鉄大和西大寺(やまとさいだいじ)駅下車。北口から出て、正面の県道104号線を東へ。秋篠川を越え、
県道52号線との交差点を横切り、少し進むと平城宮跡の入り口です。
平城宮跡は奈良時代の政治の中枢であった場所です。約1キロ四方に、南北750m×東西250mの東の張り出し部分がついていました。天皇の日常のおすまいである内裏、重要な儀式や政務が行われた大極殿・朝堂院、多くの中央官庁などがありました。
平城宮跡資料館
まずは平城宮跡資料館に向かいましょう。
奈良文化財研究所(なぶんけん)による約60年にわたる発掘調査・研究の成果を展示してあります。2010年にリニューアルオープンしました。
平城宮内の役所や宮殿内部のジオラマ、土器や瓦といった出土品の展示。係の方の説明も親切です。平城宮跡を歩く前の下準備として、知識をふかめ、気分を高めていきましょう。
慶雲4年(707)文武天皇は藤原京からの遷都を役人たちに諮りました。その遺志をついだ元明天皇は和銅元年(708)、平城京遷都の詔を出します。2年後の和銅3年(710年)3月、遷都しました。
『続日本紀』にはごく簡単に「はじめて平城京(ならのみやこ)へ遷都」とだけ記されています。遷都の理由はよくわかっていません。
天平12年(740)九州で藤原広嗣の叛乱が起こっているさなか、聖武天皇は突如、平城京を離れます。この年の暮、山背国恭仁宮に遷都。
さらに天平16年(744)難波宮に遷都、翌天平17(745)正月、近江国紫香楽宮に遷都、しかし天平17年(755)5月、ふたたび平城宮に戻りました。聖武天皇が平城宮に戻った際、平城宮の大規模な改築が行われました。
その後、延暦3年(784)桓武天皇が長岡京に遷都するまで、平城宮はのべ約70年間、奈良の都の中枢として政治の中枢として栄えました。
大同5年(810)、平城上皇が都を平安京から平城京に戻そうと画策します。しかし弟である嵯峨天皇によって未然に食い止められました。この、平城太上天皇の変という事件の後、平城宮跡は田となり畑となり、忘れ去られていきました。
第一次大極殿
平城宮跡資料館から東へすすむと、復元された第一次大極殿がみえてきます。
大極殿とは古代の宮城の中心施設で、天皇の即位式や元旦の儀式、外国使節との面会など、重要な儀式が行われました。
平城宮には第一次・第二次のふたつの大極殿がみつかっています。
第一次大極殿は天平12年(740)聖武天皇が恭仁京に遷都するまでの大極殿。第二次大極殿は聖武天皇が天平17年(745)、ふたたび平城京にもどり、延暦3年(784)桓武天皇が長岡京に遷都するまでの大極殿と考えられています。
平成22年(2010)平城京遷都1300年記念の一貫として第一次大極殿が復元されました。
正面約44m、側面約20m、地面よりの高さ約27m、直径70cmの朱塗りの柱44本、屋根瓦9万7千枚が使われています。
内部も緻密な考証によって再現され、平城宮と大極殿に関する展示物が展示してあります。中央に高御座(たかみくら。天皇がおすわりになる玉座)の模型を配し、
縁側から大極殿院と朝堂院がのびのびとみわたせます。気分いいです。
第一次大極殿の北の道路をわたったところが、推定大膳職です。
大膳職…平城宮の食料を管理した役所がここにあったと考えられています。円柱形に刈りあげたツゲの木で、柱の位置を示しています。
第一次大極殿院
第一次大極殿院は第一次大極殿をふくむ、南北320m、東西180mのエリアです。
北側を一壇高くし、大極殿と、その北に後殿を配置。南側は儀式の際に役人たちが整列した広場です。周囲は築地の回廊で囲まれ、南面に南門が、その東西に楼閣がありました。
現在、南門の復元が進められています。
奈良時代前期(聖武天皇が恭仁京に遷都する以前)、役人が政務や式典などを行った場所です。復元整備が進められています。
朱雀門
近鉄奈良線の線路を南にわたります。
復元された朱雀門がそびえています。
朱雀門は平城宮の正門です。朱雀門の左右には高さ6mの築地塀がつづき、平城宮のまわりを取り巻いていました。
朱雀門の南には幅75mの朱雀大路がのびて、3.7キロ南で平城京の正門たる羅城門に突き当たりました。
朱雀門門前では新羅や唐の使節が迎えられ、歌垣といったイベントが行われ、元旦には天皇が内裏から朱雀門まで出向いて新年のお祝いをしたこともあります。
発掘調査の成果をふまえ、平成5年(1993)から復元工事を行い平成10年(1998)に竣工しました。
朱雀門全体は同時代の薬師寺東塔を参考に、鴟尾は唐招提寺のものなどを参考に、風鐸は四天王寺講堂の出土品を参考に復元されています。
緻密な考証にのっとり、奈良時代の朱雀門を正確に再現しようとしているのが、うれしくなります。
現在、朱雀門の南は…広場になっており、奈良時代の朱雀門門前のにぎわいがしのばれます。
すぐに国道にさえぎられますが、かつてははるか3.7キロ南の羅城門まで見渡せたと思うと、胸がアツくなります。
北を振り返ると…現在は工事中の南門で視界が遮られていますが、南門が完成すれば、朱雀門から南門を通してまっすぐ大極殿が見られることになります。それは荘厳な景色になるでしょう。
朱雀門から東に進みます。ここからは東区です。
奈良時代後半の、第二次大極殿をふくむエリアです。
繰り返しますが、平城宮には第一次・第二次のふたつの大極殿がみつかっています。
第一次大極殿は天平12年(740)聖武天皇が恭仁京に遷都するまで。第二次大極殿は聖武天皇が恭仁宮→難波宮→紫香楽宮を経て天平17年(745)、ふたたび平城京にもどってきてからのものと考えられています。ここからは東区。第二次大極殿をふくむエリアというわけです。
壬生門。奈良時代後半(第二次大極殿の時代)に平城宮の正門として使われた門です。
兵部省・式部省
壬生門跡の左右に兵部省跡と式部省跡。兵部省は軍事関係を担当した役所。
式部省は役人の管理をした役所です。建物の構造を部分的に復元しています。
近鉄奈良線の線路をふたたび北にわたると平城宮阯碑、平城宮阯保存記念碑がそびえます。
そのむこうの広い空間が、東区朝集院。その北が東区朝堂院です。
朝堂院は役人たちが儀式などを行う場所で、中央の「朝廷」を取り巻くように12の堂院がありました。堂院跡には盛り土があり石碑が立ててあります。
第二次大極殿
第二次大極殿まで来ました。
奈良時代後半の大極殿の跡です。基壇にのぼると、はるか奈良の山々が見渡せます。絶景です。
北を見ると、こんもりした茂みが見えます。
平城天皇陵とされる市庭古墳(いちにわこふん)です。ものすごい存在感です。なにしろ大極殿や内裏の真北にあるのです。ただごとじゃないです。
昭和37年から2年間の調査で、円墳ではなく前方後円墳の前方部分が平城宮の造営のため取り壊されたものとわかりました。つまり見た目は円墳に見えるが、もとは前方後円墳だったのです。
平城天皇の時代(平安時代初期 806-809)、前方後円墳は造られていません。よってこれを平城天皇陵とするのはムリが出てきました。
では誰の陵なのか?
もしかしたら平城京遷都以前にこの地に君臨していた大豪族がいるのかもしれません。今後の発掘調査に期待するところです。
内裏
第二次大極殿の真北が内裏です。
内裏は天皇の日常のおすまいです。平城宮の内裏は第一次大極殿の時も第二次大極殿の時も、同じ位置にありました。つまり第一次大極殿院の時は、大極殿からだいぶ東側に内裏があったことになります。なぜこういう配置なのかは不明です。
円柱形に刈りあげたツゲの木で、柱があった位置を示しています。また井戸が復元されています。
内裏の東隣に推定宮内庁。
天皇の身の回りの事務を行う宮内庁があったと思われます。築地塀や建物が復元されています。
遺構展示館
遺構展示館では発掘調査によって見つかった奈良時代の役所の建物跡の遺構を、発掘当時のままに保存・展示しています。
また井戸や木桶などの遺物、建物の復元模型なども展示してあります。
係の方が親切に解説してくれます。
遺構展示館の東隣の四阿のところに造酒司(ぞうしゅし)井戸が復元されています。
神事で使うお酒を作る特別な井戸だったと思われます。
東院庭園
最後に東院庭園まで歩きましょう。
平城宮には藤原宮や平安宮にはない特徴として、東の張り出し部分がありました。その張り出し部分の南半分は皇太子(東宮)の宮殿があり、「東院」とよばれていました。
神護景雲元年(767)称徳天皇がこの地に瑠璃色の瓦をもつ「東院玉殿」を建てました。その後、光仁天皇の建てた「楊梅宮」もこの地にあったと考えられています。
昭和42年(1967)の発掘調査で東院東南の隅に庭園の遺構がみつかり「東院庭園」と名づけられました。その後の発掘調査で「東院庭園」の姿があきらかになっていきました。
東西80m×南北100mの敷地中央に複雑な形をした池と州浜があったこと。そのまわりをいくつかの建物が取り巻いていたこと。天皇や貴族たちがここで宴会を行ったことなど。
現在、庭園や建物、曲水(曲がりくねった遣水)が復元整備されています。
本日は平城宮跡を歩きました。いにしえの奈良の都の風情にひたりながら、藤原不比等や、聖武天皇の昔に思いをはせながら、歩いてみるのはいかがでしょうか。
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