彦根城を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は、彦根城を歩きます。

彦根城は琵琶湖を見下ろす彦根山に立つ山城です。江戸時代のはじめに二代彦根藩主・井伊直継によって造営されました。天守が現存する全国12の城のうちの一つです。

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彦根藩主の庭園である玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)、大老井伊直弼が青年時代をすごした「埋木舎(うもれぎのや)」も見どころです。

彦根駅・井伊直政像

JR東海道本線彦根駅下車。駅前に井伊直政の像があります。

彦根駅・井伊直政像
彦根駅・井伊直政像

彦根駅・井伊直政像
彦根駅・井伊直政像

井伊直政(1561-1602)。遠江国井伊谷(いいのや)(静岡県浜松市)の生まれ。15歳で徳川家康に仕え、「徳川四天王」の一人に数えられる。「井伊の赤鬼」としてその武勇を讃えられます。

滅亡した武田家臣団を預かり、「武田の赤備え」あらため「井伊の赤備え」という、甲冑・旗・馬印などすべて赤で統一したスタイルはよく知られていますね。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦では東軍方として西軍の薩摩の島津氏を追撃するなど、功績を立てました。合戦だけでないです。井伊直政の交渉によって西軍から東軍に寝返った者が多くありました。

戦後、これらの恩賞として石田三成の所領地であった佐和山を与えられ、上野国高崎(群馬県高崎市)から移封して佐和山藩18万石の大名となりました。

しかし関ヶ原の二年後の慶長7年(1602)直政は病に倒れます。直政の死後、佐和山藩あらため彦根藩となり、直政の跡を継いだ直継によって彦根城が築かれました。

いろは松

彦根駅から徒歩20分。見えてきました。彦根城の玄関口です。

彦根城 玄関口
彦根城 玄関口

外堀(旧中堀)に沿って植えられた松は47本あり、「いろは松」と呼ばれます。

彦根城 いろは松
彦根城 いろは松

藩主の出発や帰着の際には、ここで藩士が御目見得しました。

では、外堀(旧中堀)にかかった橋を渡り、進んでいきます。


彦根城の歴史

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦で井伊直政は徳川家康の下、戦功を立てました。戦後、その恩賞として上野国高崎(群馬県高崎市)から石田三成の城であった佐和山城へ移封となり、近江18万石の大名となります。

そして直政の死後、二代直継が佐和山城の西方・彦根山に築城したのが彦根城です。彦根城は西国大名への抑えとしての重要拠点でした。そのため徳川家康の支援のもと、築城は猛スピードで進められました。

大阪の陣による中断をはさんで、20年かけて3代井伊直孝の時、城は完成しました。そして一度も戦火にあわないまま明治維新を迎えます。

明治の廃城令によって一時取り壊されそうになりましたが、地元の強い要望によって解体中止となりました。天守・西の丸三重櫓・太鼓門櫓・天秤櫓などが取り壊しを逃れそのままの姿を留めています。

彦根城は天守が現存する全国12の城のうちの一つです。藩主の庭園である玄宮楽々園(げんきゅうらくらくえん)は国の名勝に指定されています。

佐和口多聞櫓

いろは松から中堀を越えると、枡形の二の丸の入り口があります。佐和口多聞櫓です。

彦根城 佐和口多聞櫓
彦根城 佐和口多聞櫓

彦根城 佐和口多聞櫓
彦根城 佐和口多聞櫓

左右に二つの櫓があったそうですが、左の櫓は礎石を残すのみ。右の櫓は復元です。

くぐるとそこが二の丸です。

彦根城 二の丸
彦根城 二の丸

彦根城 二の丸
彦根城 二の丸

馬屋

佐和口多聞櫓を過ぎて道なりに進んでいくと、左に馬屋が見えます。

彦根城 馬屋
彦根城 馬屋

彦根城 馬屋
彦根城 馬屋

藩主の馬を飼っていた建物です。昭和43年に解体修理が行われましたが、復元ではなくオリジナルです。

彦根城 馬屋
彦根城 馬屋

全国の城で藩主の馬屋がそのまま残っているのは彦根城だけということで、重要文化財に指定されています。

表門橋・登リ石垣

表門橋に来ました。

彦根城 表門橋
彦根城 表門橋

屋形船が堀に浮かんでます。風情あります。



橋を渡るといよいよ城内です。ここから表門参道を上っていきます。

彦根城 表門参道 
彦根城 表門参道 

彦根城 表門参道 
彦根城 表門参道 

鐘の丸~天秤櫓

表門参道を上り切ると、左右に狭く石垣が迫る大堀切に至ります。

彦根城 大堀切
彦根城 大堀切

彦根城 天秤櫓・廊下橋
彦根城 天秤櫓・廊下橋

右上には天秤櫓がそびえ、鐘の丸と天秤櫓をつなぐ廊下橋が頭上を横切っています。

なんかこういう立体構造は忍者屋敷ぽくて、秘密基地っぽくて、ワクワクします。もう私の頭の中では「立体忍者活劇 天誅」のBGMが流れています!

ぐるっと道は回り込み、


鐘の丸に登って、廊下橋を渡るとそこが、天秤櫓です。

彦根城 天秤櫓
彦根城 天秤櫓

長浜城大手門を移築したもので羽柴秀吉の考案と言われます。門を真ん中に、左右対称になっているので、天秤櫓というわけです。

彦根城 天秤櫓
彦根城 天秤櫓

左右の石垣の積み方が違うことに注目です。

東半分(右)は牛蒡(ごぼう)積み、西半分(左)は江戸時代後期に再建されたもので落し積みという積み方です。

■牛蒡(ごぼう)積み 胴長な石を内側で重心が下向きになるように差し込む。外側は隙間が空くので間を小石で埋める。見ばえは良くないが丈夫。■落し積み 長方形の石を隣の石と寄り添うように斜めに積み上げる積み方。

鐘の丸が攻め落とされた時は廊下橋を落として、ここ天秤櫓から敵に矢を射掛け、本丸への侵攻を防ぐという仕組みです。

太鼓門櫓および続櫓

さらに石段を登っていきます。


石段の踏み幅も高さも一段一段変えており、なかなか登るのに骨が折れます。敵の襲撃にそなえた、実戦的な城だということがわかります。


来ました。本丸の入り口・太鼓門櫓および続櫓です。

彦根城 太鼓門櫓および続櫓
彦根城 太鼓門櫓および続櫓

彦根城 太鼓門櫓および続櫓
彦根城 太鼓門櫓および続櫓

本丸の表口を固める櫓です。太鼓門櫓手前には鐘楼があり、現在も時を告げています。

彦根城 太鼓門櫓前 鐘楼
彦根城 太鼓門櫓前 鐘楼

本丸

太鼓門櫓をくぐるとそこが本丸です。北西の隅に三層の天守がそびえます。

彦根城 本丸
彦根城 本丸

彦根城 天守
彦根城 天守

慶長8年(1603)着工・慶長11年(1606)完成といいますから…関ヶ原と大阪の陣の間。豊臣から徳川の世に移っていく時期にこの天守は建てられたんですね。徳川家康の命で大津の京極高次の城の天守を移築したと伝えられます。

彦根城 天守
彦根城 天守

小さいです。

まだ18万石の頃に築城されたので、その後加増されて30万石となった彦根藩の天守としては小さい印象を受けるんですね。

正面右側の入り口より中に入り、最上層まで登ることができます。

北東に息吹山、東南に鈴鹿山脈、西北に琵琶湖、南西に近江平野が広がり、絶景です。気分いいです。



西の丸三重櫓及び続櫓

本丸の西にある西の丸の西の隅には、西の丸三重櫓があります。



彦根城 西の丸三重櫓及び続櫓
彦根城 西の丸三重櫓及び続櫓

北と東にそれぞれ多聞櫓を接続し、くの字型につなげてあります。

装飾性の無い質素な作りです。私が行った時は「全国のお城模型展」という展示を中でやってました。


窓の外に琵琶湖がさわやかに青々と見渡せました。

西の丸大堀切と出曲輪

西の丸三重櫓を後に、周遊道を紅葉に見とれながら歩いていきます。


深い堀切があります。西の丸裏手から攻めてくる敵を防ぐための堀切です。堀切の上に渡した橋のむこうに、出曲輪。

彦根城 西の丸大堀切・出曲輪
彦根城 西の丸大堀切・出曲輪

彦根城 西の丸大堀切・出曲輪
彦根城 西の丸大堀切・出曲輪

琵琶湖の眺めが素晴らしいです。


けっこう風の強い日で、琵琶湖の波も白く見えて、波の音もかすかに響いていました。琵琶湖に浮かぶ多景島(たけしま)もクッキリ見えました。

西の丸~黒御門跡

西の丸から石段を下っていきます。石垣の苔むした感じが、見事です。



石段を下りきったら、内堀にかかる黒門橋(くろもんばし)を渡ります。紅葉が、水面に映り込んで、見事でした。


槻御殿

内堀に沿って歩いていくと、左に槻御殿(けやきごてん)が見えてきます。


槻御殿(楽々園)
槻御殿(楽々園)

槻御殿(楽々園)
槻御殿(楽々園)

槻御殿(楽々園)
槻御殿(楽々園)

槻御殿は旧彦根藩主の下屋敷です。延宝5年(1577)四代藩主井伊直興の造営。書院造りの屋敷に枯山水の庭があります。

槻御殿(楽々園)
槻御殿(楽々園)

槻御殿(楽々園)
槻御殿(楽々園)

かつては広大な敷地だったということですが、現在は10分の1に縮小されています。


明治になって廃藩後は「楽々園」と呼んでいます。楽々園の名は「民が楽しむのを楽しむ」という彦根藩主の思いから。井伊直弼もここ槻御殿で生まれました。

玄宮園

楽々園の隣には、玄宮園があります。

玄宮園
玄宮園

延宝8年(1680)四代藩主井伊直興によって槻御殿の庭園として作られました。

玄宮園
玄宮園

中国湖南省の「瀟湘八景(しょうしょう はっけい)」を模して作られたと伝えられます。池を中心に季節の花々が咲き、風情あふれる庭園です。

玄宮園
玄宮園

ちょうど紅葉の季節で、絵画のような美しさでした。

玄宮園
玄宮園

玄宮園
玄宮園

井伊直弼銅像

玄宮園の東隣りに、井伊直弼像。小太りな感じです。

井伊直弼銅像
井伊直弼銅像

井伊直弼(1815-60)彦根藩第14代藩主・井伊直中(なおなか)の14男として彦根城槻御殿に生まれる。17歳で300俵の捨扶持を藩から与えられ、彦根城内堀沿いの小さな屋敷「埋木舎(うもれぎのや)」に入り、学問と風流に没頭。

しかし。13人もいた兄たちは早世したり養子に出たりして減っていきます。気づいたら跡取り候補は直弼一人。

こうして嘉永3年(1850)彦根藩主井伊直亮(なおあき)が死ぬと、直弼が38歳で彦根藩主に就任。

井伊家は酒井・本多・榊原とならぶ徳川四天王。その藩主となるということは、そのまま幕政に参加することを意味していました。

嘉永6年(1853)ペリーの艦隊が来航し開国を迫ります。そこで井伊直弼が主張して言うことに、

「今の日本に欧米と戦う力は無い。まずは開国して、欧米から技術を学ぶのだ。日本が生き延びるには、それ以外に道は無い」

これに対し、水戸藩主徳川斉昭は

「なにを言うか!外国など追い払え!神国日本に入れるな!」

すなわち攘夷を唱えました。攘夷といっても具体的な計画は何もなく、ただ外国人を襲撃するとか、辻切りとか、たわいもない話でした。

「話にならん」

井伊直弼は開国を決意。しかしそのためには攘夷を声高に叫ぶ水戸徳川家の斉昭一派が邪魔です。

さて、13代将軍徳川家定は病弱で、いつ命が尽きるとも知れませんでした。家定の後継者候補として、水戸斉昭の息子で一橋家に養子に入っていた慶喜の名が上がっていました。。

もし慶喜が次期将軍となれば、幕府は攘夷一色に染まってしまう。それは何としても避けねばならぬ!

そう考えた井伊直弼はもう一人の将軍候補・紀伊徳川家の徳川慶福(よしとみ)を推して、一橋派と対立します。

安政5年(1858)井伊直弼は非常時のみ置かれる大老に就任。孝明天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約に調印。ついで将軍後継者として徳川慶福(家茂)を立てます。

ついで一橋派をはじめとする攘夷論者を次々と逮捕。処刑しました。

安政6年(1859年)安政の大獄です。

御三家の一人である水戸斉昭まで謹慎処分とされ、吉田松陰や橋本佐内、頼山陽の息子・頼三樹三郎らが若い命を散らせたのは、周知の通りです。

安政の大獄は反対派の怒りを掻き立てるにじゅうぶんでした。

安政7年(1860)3月、江戸城桜田門外にて、井伊直弼は水戸・薩摩の浪士に襲撃され殺害されました。享年46。

埋木舎

最後に、井伊直弼が青年時代を過ごした「埋木舎(うもれぎのや)」を訪れます。外堀(旧中堀)に面した位置です。

埋木舎
埋木舎

このあたりには彦根藩の上級藩士たちの家が立ち並んでいました。

埋木舎
埋木舎

井伊直弼は井伊家の14男ですから、跡取りになれる見込みもありませんでした。直弼は300俵の捨扶持を与えられ、ここ「埋木舎」に17歳から32歳まで15年間を過ごしました。

埋木舎
埋木舎

「寝るのは一日四時間でよい」といって、和歌や茶道、能、居合などの稽古に励みました。

埋木舎
埋木舎

井伊直弼。ここ埋木舎で一生朽ち果てることを覚悟しながら、その一方で、いやいやいつかは…という思いもあったでしょう。その頃直弼の歌です。

世の中をよそに見つつも埋れ木の
埋もれてをらむ心なき身は

世の中をよそ目に見ながら埋れ木のように埋もれたまま、一生を終えるのだろうか。私のような心無い者は。

埋木舎
埋木舎

「らむ」は推量の助動詞ですので、「埋もれておらむ」は「埋もれているのだろうか」といった意味で、これを「埋もれてはいないぞ」とまで訳すのは、訳しすぎだと思います。

しかし「埋もれているのだろうか…」という抑えた言い方の中に、「けしていつまでも埋もれてはいないぞ」という思いを読み取ることは、できると思います。

埋木舎
埋木舎

本日は彦根城を歩きました。四季折々の自然も美しく、初代井伊直政から幕末の大老井伊直弼に至る彦根藩の歴史も興味が尽きません。じっくり時間をかけて歩きたいところです。


次の旅「長浜を歩く

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