東本願寺と西本願寺を歩く(一)

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こんにちは。左大臣光永です。

今日明日の2回で、東本願寺と西本願寺を歩きます。

「本願寺はなぜ西と東に分かれたのか?」という歴史的背景もあわせて語っていきます。

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東本願寺

京都駅烏丸口に出て京都タワーをのぞみながら烏丸通を徒歩で5-6分。東本願寺の築地塀と大屋根が見えてきます。

与謝野晶子がしるしています。

「東本願寺の御堂の大きい屋根を見て、これは煙つた雨の中で見るべきものだなどと思つた」

そうなんです!

雨の日の東本願寺の大屋根、風情があるんですよね…

東本願寺は真宗大谷派の本山で、正式名称を「真宗本廟」といいます。

慶長7年(1602)本願寺の東西分派によって創立されました。

烏丸通に面して阿弥陀堂、御影堂など巨大な伽藍が並び、寺域は約9万3000平方mもあります。

阿弥陀堂門(あみだどうもん)

築地塀と濠にそって歩いていきます。濠にはときどきアオサギがいて、マイペースな愛嬌をふりまいています。

まず見えてくるのが阿弥陀堂門です。

切妻造、唐破風付きの四脚門で御影堂門、菊の門とあわせて三大門と称される門の1つです。

現在の阿弥陀堂門は御影堂門とおなじく明治44年(1911)の落成。

御影堂門(ごえいどうもん)

大門と通称され、御影堂の正面に位置します。

重層、入母屋造、本瓦葺、正面21m、側面13m、高さ28m。明治44年(1911)落成。

木造建築の楼門としては世界最大級で京都三大門のひとつに数えられます。

楼上には東本願寺の正式名称である「真宗本廟」の扁額が掲げられ、釈迦如来、阿弥陀如来、阿難尊者の三尊像が安置されています。

御影堂(ごえいどう)

親鸞聖人の御信影(ごしんねい)(木像)を安置する、伽藍の中心となる建物です。

屋根は本瓦葺きの重層入母屋造。正面76m、側面58m、高さ38mの世界最大級の木造建造物です。

現在の建物は隣の阿弥陀堂とならび明治13年(1800)10月から明治28年(1895)まで15年の歳月をかけて再建されたものです。

内部は927畳敷の大広間で、正面に親鸞聖人の御信影、左右に蓮如上人や歴代の門主の絵像、そして十字名号、九字名号が安置されています。

十字名号…帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)
九字名号…南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)

親鸞聖人の御信影は親鸞聖人門人の成然(常然)(じょうねん)を開基とする群馬県妙安寺(みょうあんじ)に伝わっていたもので、

慶応7年(1602)本願寺が東西に分かれて東本願寺が創建された時、徳川家康が寄進したものです。

阿弥陀堂(あみだどう)

御影堂の南に建つ本堂です。

単層、入母屋造、本瓦葺。御影堂とは廊下で結ばれています。御影堂とあわせて両堂(りょうどう)と称します。

正面中央に阿弥陀如来立像、左右に親鸞聖人の師、法然上人の絵像、浄土教を伝えたインド、中国、日本の僧の絵像、聖徳太子の絵像などを安置します。

両堂再建(りょうどうさいこん)

御影堂と阿弥陀堂(両堂)は慶長9年(1604)に完成して以来、4度の火事に見舞われました。

天明8年(1788)「天明の大火」、

文政6年(1823)の失火、

安政5年(1858)「安政の大火」、

そして4度目は元治元年(1864)7月19日の「禁門の変(蛤御門の変)」による火事で類焼しました。

はじめの3つは火事のあとすぐに再建されましたが、4度目の蛤御門の変のときは幕末の動乱期であり、再建がおくれました。

明治政府がなり、西南戦争が終わり、ようやく世の中が安定してきた、

明治13年(1800)10月から明治28年(1895)まで15年の歳月をかけて再建されました。

もちろん、どの再建の時も全国の門徒による物心両面の尊い協力があったことは言うまでもありません。

4度目の再建に当たり、全国各地から材木が集められ、約30万枚におよぶ屋根瓦は三河国から寄進されました。

木材の搬出・運搬に引き綱が切れるなどの事故が相次いだため、より強力な綱が必要とされました。

そこで女性の髪の毛と麻を撚り合わせた、毛綱が用いられました。

御影堂と阿弥陀堂をむすぶ廊下に、新潟の門徒から寄進された毛綱が展示されています。真宗門徒の方々の、強い思いが伝わってきます。

鐘楼

境内南の鐘楼は明治27年(1894)竣工。総欅造。

梁がX字型にクロスしたところに梵鐘を掛けるようになっています。江戸時代にはなかった工法で、棟梁の伊藤平左衛門による独創です。

梵鐘には慶長9年(1604)の銘があり、東本願寺を襲った4度の火災を生き延びたものです(ただし現在の梵鐘は平成22年(2010)の新調)。

御影堂門から烏丸通をはさんだ正面には数珠屋、仏具屋が軒をつらねる中珠数屋町通が東にのびており、突き当りには東本願寺の飛地境内である渉成園(しょうせいえん)(枳殻邸)があります。

四季折々の自然が楽しめる、池泉廻遊式庭園で、石川丈山による作庭と伝わります。

渉成園の「渉成」は、陶淵明の詩『帰去来辞』の「園日渉以成趣(えんはひにわたり、もっておもむきをなす)(田園の風景は日に日に趣をましてくる)」によります。

河原左大臣源融が風流の限りをつくした「六条河原院」の跡地であるという伝説があります(真偽のほどはあやしい)。

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