東本願寺と西本願寺を歩く(ニ)西本願寺

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こんにちは。左大臣光永です。

先日と2回にわたって、東本願寺と西本願寺を歩いています。

本日は2回目、「本願寺はなぜ東西に分かれたのか?」という話と、西本願寺を歩く記事です。

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前回「東本願寺・西本願寺を歩く(一)からのつづきです。
https://sirdaizine.com/travel/Honganji1.html

本願寺はなぜ東西に分かれたのか?

これは非常にややこしい話で、本気で語るとメルマガ5-6本になるでしょう。

今日はざっくりしたところだけお話します。

第一幕 石山合戦後のゴタゴタ

戦国時代、本願寺は大坂の石山にありました。今の大阪城のあたりです。


大阪城内 石山本願寺推定地の碑

当時の石山本願寺は大坂湾に面して要塞化され、4万人の兵力をかかえ、名だたる戦国武将にも劣らぬ大勢力でした。

その石山本願寺の宗主(リーダー)をつとめていたのが顕如(けんにょ)という方です。

やがて天下布武をめざす織田信長と対立します。

信長は石山本願寺を無傷で手に入れて、中国地方、四国、九州を攻めるための拠点にしようと考えました。

そこで石山本願寺に立ち退けと、言ってくる。

しかし顕如はじめ石山本願寺は立ち退かぬというので、

信長はならば討伐するまでと、

以後11年間にわたり、織田信長と石山本願寺の戦争になりました。石山合戦です。

しかし11年も戦っていると、さすがの石山本願寺も疲弊してきます。

もうアカン。どうにもならん。

信長の要求をのんで、降伏しようと、

顕如以下、石山本願寺から立ち退くことになりました。

しかし長男は反発しました。

いや何言ってんですか父上、

徹底して信長と戦うんですよ。籠城戦やればいいじゃないですか。

お前こそ何言ってんだ。これ以上戦ったら本願寺はもう本気でアカンぞ!

いーや納得できません!

父子の間でもめにもめて、

ついに顕如はこの長男(教如)を勘当しました。

これが話がこじれた最初のポイントです。

第二幕 顕如の遺言状をめぐるゴタゴタ

天正10年(1582)本能寺の変で信長が討たれた後、顕如も長男をゆるして勘当をときました。

信長亡き後、権力をにぎったのが羽柴秀吉です。

本願寺は、信長時代に石山合戦で痛い目を見た反省からか、秀吉には徹底してこびへつらい、逆らいませんでした。

秀吉の命ずるままに、

和歌山の鷺森から、大坂の貝塚、天満を経て、最終的に京都の堀川六条に土地を与えられました。これが現在の「西本願寺」です。

その後、顕如が死んで、長男が跡をつぎます。石山合戦のとき、「いやいや徹底して信長と戦うんです」といって父に逆らった、あの長男です。しかし長男がついだ翌年、

長男の実の母親が騒ぎ出します。

「長男ではなく、三男に継がせるべきだと先代は遺言していたのでございます」と、

先代の遺言状を持ち出してきて、秀吉に見せました。

そこで秀吉は大坂城に長男はじめ関係者を呼びつけて、

「とにかくこういう話だから、お前、10年間だけ本願寺の宗主をつとめろ。あとは三男に譲って隠居しなさい」

そう言われて、長男はハハッとかしこまったけれども、側近たちが黙っていない。

「なんですかその遺言状は、どうせニセものでしょう」

そんなふうに秀吉に文句をつけましたので、

「ああもうええわ!もうそんなんゆうんやったらな、10年ということいわん。今すぐやめてまえ!」

といって、長男を隠居させ、三男を本願寺の宗主に立てました。

これが二度目に事がこじれたポイントです。

第三幕 東西分派

慶長3年(1598)秀吉が死に、徳川家康が勢いをのばすと、隠居していた長男は家康に接近します。

具体的にどう頼んだのかわかりませんが、あなたが天下をにぎった暁には私を取り立ててくださいくらいのことを頼んだでしょうか。

慶長5年(1600)年、家康は関ヶ原の合戦に勝利して天下をにぎりました。

2年後の慶長7年、家康は隠居していた長男に、京都烏丸六条に土地を与え、長男はここにもう1つ別の本願寺を立てました。

これが東本願寺です。ここに本願寺は東西ふたつに分かれました。

本願寺の一方をつぶすのではなく2つの本願寺を並び立てたのは、全国の門徒を分断して本願寺の勢いをそごうという本多正信の徳川家康への入れ知恵だったという説もありますが、

真相は闇の中です。

三代徳川家光の時代に東本願寺はさらに土地を加増され、西本願寺とほぼ同じ広さとなりました。

こうして東西分裂したまま、現在に至ります。

「なんたるグダグダ…」

「アホちゃうか」

と思いましたか。なにしろ織田信長の時代からの!わだかまりを、

現在まで引きずって、いまだに東西統一がなされいないわけですからね。

しかし。

親鸞聖人は言いました。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

善人すら救われるのだ。まして悪人が救われないことがあろうか。

この善人・悪人ゆうんは、道徳的な善悪のこっちゃないですよ。

善人とは、自分の力で、がんばって、修行して、勉強して、あるいは善行をつんで、救いに至ろうとする人。

だから自分の力に慢心が出やすい。

一方、悪人とは、もう私、あかんです。

アホやし、嘘つくし、甲斐性はないし、女子高生みたらすぐエロいこと考えるし、

もうこんな人間はどうにもならん!

自分ではなんもようできませんから、すべて阿弥陀さまの御手にゆだねますと、ガバーーッと身を投げ出す。

こういう人こそ、救われると、

他力本願。これが他力本願の教えです。

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

であれば、

浄土真宗教団のトップたる東西本願寺が、織田信長の時代からつづく不毛な争いを今だ解決できないで、今だに東西統一できないというのは、

逆説的に、世の中に対するよいお手本になってると思います。

どうだ!人というものは、こんなにもロクでもないんだぞと。

なにしろ天下の本願寺にして、こんな体たらくや。

あんたら、

本願寺にすがったって救われませんよ。

本願寺に祈ったって救われませんよ。

本願寺は、ロクでもない。なんも救わん。

本願寺ではなくて、阿弥陀さまのみが救ってくださるんやで、

本願寺ではなくて、阿弥陀さまのみが救ってくださるんやでと、

東西本願寺のそびえ立つ伽藍は、無言のうちにそう語っているようにさえ思えます。

だから私は、本願寺はこのまま東西統一せずに、

分かれたままの姿をさらし続けることが、世の中に対する一番の示しになると思ってます。

西本願寺

西本願寺は浄土真宗本願寺派本山。東本願寺と区別するため「西本願寺」と呼ばれるが、本派本願寺とも。京都では「お西さん」の愛称で親しまれてます。

堀川通に面して築地塀をめぐらし、門前を流れる堀川を掘割に見立て、城郭のような構えです。名だたる戦国武将たちと並び立った、石山本願寺時代を思わせます。

御影堂、阿弥陀堂を中心とした伽藍がたちならびます。寺の東側には寺内町が広がり、仏具屋や数珠、お香をあつかう店が多いです。

御影堂門(ごえいどうもん)・阿弥陀堂門(あみだどうもん)

堀川通に面した御影堂門と隣の阿弥陀堂門がいわば西本願寺の「顔」です。

振り向くと、堀川通をはさんで寺内町の入り口が見えています。独特の風情があります。

本願寺のイチョウ

御影堂前のイチョウは樹齢400年と推定され、その形状から「逆さ銀杏」と呼ばれます。

天明8年(1788)の「天明の大火」や、元治元年(1864)「禁門の変」に伴う京都大火で火の粉を浴びながら生き抜いてきた木です。

御影堂(ごえいどう)

別名大師堂とも。西本願寺の中心となる建物。

寛永13年(1636)再建。単層、入母屋造、本瓦葺。734畳敷。正面中央に親鸞聖人の御真影(木像)、左右に歴代門主の絵像、九字名号(くじみょうごう)、十字名号(じゅうじみょうごう)を安置します。

九字名号…南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)
十字名号…帰命尽十方無碍光如来(きみょうむりょうじゅにょらい)

阿弥陀堂(あみだどう)

御影堂の北にある本堂。

宝暦10年(1760)再建。単層、入母屋造、本瓦葺。正面中央に阿弥陀如来立像、左右にインド、中国、日本の念仏の祖師7人の絵像と聖徳太子像を安置します。

飛雲閣(ひうんかく)

境内東南隅の飛雲閣は2020(令和2)年4月まで修復工事をしていました。

安土桃山文化を代表する三層の楼閣楼閣で、豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝えられ、金閣・銀閣とともに洛陽三閣のひとつに数えられます。

通常非公開で、不定期に特別拝観が催されています。

西本願寺は飛雲閣のほか、

書院
大書院庭園(おおしょいんていえん)
浴室(黄鶴台)
北能舞台
南能舞台
龍虎殿
虎の間
白書院
黒書院

なども通常非公開で、不定期に特別拝観が催されています。

太鼓楼

慶応元年(1865)3月日、新選組は壬生の屯所を引き払い、西本願寺の北集会所(きたしゅうえじょ)を新しい屯所と定めました。

入り口には「新選組本陣」の看板をかかげました。

前年6月の「池田屋事件」以来、新選組人数が増えきてて壬生の屯所では手狭になっていました。

新選組副長・土方歳三は西本願寺に目をつけました。

かねてから西本願寺は長州と気脈を通じており、前年7月の禁門の変の時、長州人を軒下にかくまったのです。

「あの時、西本願寺はつぶされて当然であった。それを見逃したのだ。ならば屯所として使わせるくらい易いことだ」

そう言っておどしをかけて、

新選組は西本願寺北集会所に入ってきました。

めいわくな話が多く伝わっています。

境内で大砲の調練を行ったり、猪鍋を煮たりして、大騒ぎしたそうです。

慶応3年(1867)6月に不動堂村屯所(現リーガルロイヤルホテル京都あたり)に移るまで、新選組は西本願寺に約2年間いすわりました。

隊士たちの多くは幕末の動乱の中命を落としましたが、

新選組結成時からの隊士、島田魁(しまだ かい)は維新後も生き延び、本願寺の守衛となり、終生念仏を唱えながら太鼓番をしたという話が伝わっています。

現在、西本願寺に北集会所の建物は残ってませんが、北集会所の東に位置していた太鼓楼が残り、往時をしのばせます。

唐門(日暮らし門)

境内南側、北小路通りに面して唐門が立ちます。入母屋造、檜皮葺ね前後に雄大な唐破風をつけた四脚門で伏見城の遺構と伝えます。

大徳寺、豊國神社の唐門と並び桃山建築の代表です。

極彩色の装飾が施され、時を忘れて見入ってしまうことから別名日暮らし門といいます。

四面の袖壁には中国の故事にまつわる彫刻が施されています。堯帝が許由に天下を譲ろうというと、耳が汚れたといって水で耳を洗った話など。

唐門は2021年4月現在、工事中です。