斑鳩を歩く(一)法隆寺
本日は、「斑鳩を歩く(一)法隆寺」です。
バス停法隆寺門前下車。参道の松並木を北へ徒歩3分。見えてきました。
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南大門
法隆寺南大門。法隆寺の正門です。室町時代の永享11年(1439)建立。修学旅行の学生さんたちがガイドさんの説明に耳をかたむけていました。
法隆寺について
法隆寺は聖徳太子建立の寺院。聖徳宗総本山。松の梢美しき矢田丘陵を北西に負い、美しい大和盆地を南に見晴らす斑鳩の地にあります。国宝・重要文化財に指定されている仏像や寺宝は約200件を数えます。
境内は五重塔・金堂を中心とする西院伽藍(さいいんがらん)と、夢殿を中心とする「東院伽藍(とういんがらん)」、それらを取り巻く数多くの子院があり、それらを築地塀が囲みます。
推古天皇9年(601)聖徳太子はここ斑鳩の地に斑鳩宮を造営。ほどなく太子は亡き父用明天皇の菩提を弔うため、寺院の建立を発願。推古天皇15年(607)ころ薬師如来像を造り、寺を建立したのが法隆寺の始まりとされます(法隆寺薬師如来像光背銘文)。
推古天皇30年(622)聖徳太子が没すると、その子山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が跡を継ぎますが、皇極天皇2年(643)蘇我入鹿の襲撃を受け太子の一族は全滅。
その後、法隆寺は聖徳太子を慕う人々により護持されましたが、天智天皇9年(670)、火事により灰燼と化しました。しかし奈良時代初め頃までには再建され、以前にもまして立派な伽藍が整えられました。これが現在の西院伽藍です。
一方、斑鳩宮跡は太子の没後、荒廃する一方でしたが、天平11年(739)僧行信が太子の菩提を弔うため、斑鳩宮跡に夢殿を建立。夢殿を中心としたエリアは平安時代に法隆寺の管理となり東院伽藍と呼ばれるようになりました。
西院伽藍
南大門をくぐると白砂をしきつめた広い道です。わくわくします。
ここからは西院伽藍。法隆寺の中心をなすエリアです。回廊に囲まれた五重塔・金堂・大講堂、回廊西側の三経院(さんぎょういん)・西室(にしむろ)・西円堂(さいえんどう)、回廊東側に聖霊院(しょうりょういん)・東室(ひがしむろ)。さらに東に妻室(つまむろ)・鋼封蔵(こうふうぞう)・細殿(ほそどの)・食堂(じきどう)、食堂北に百済観音を安置した大宝蔵院(だいほうぞういん)が建ちます。
中門・回廊
正面に見えるのが中門(ちゅうもん)です。
四間三面の楼門で、法隆寺伽藍の入り口となります。ふつう門の入り口は一間か三間の奇数で、門が二間なのは法隆寺の他に例がありません。
左右に回廊がのびて、五重塔と金堂を取り囲んでいます。
左右の塑像金剛力士立像(仁王像)は和銅4年(711)年の造営。日本でもっとも古い仁王像です。
和銅4年といえば平城京遷都の翌年。そんな昔からこの場所に立ち続けている!感動をおぼえます。
三経堂・西室
中門から西に進むと、三経堂(さんぎょうどう)、その奥に西室(にしむろ)が建ちます。
三経堂は勝鬘経(しょうまんきょう)・維摩経(ゆいまきょう)・法華経(ほけきょう)の3つを講義する建物。西室は西の僧坊です。
西円堂(さいえんどう)
法隆寺は一つ一つの伽藍も見事ですが、なにげない通路の築地塀の感じが、いちいち絵になります。
西院伽藍西北の小高い丘の上に西円堂があります。
薬師如来像を安置する八角円堂です。天平時代の創建。鎌倉時代の再建といわれます。
本尊の高さ2.44mの乾漆薬師如来座像は天平末期のものです。国宝に指定され「峰の薬師」として親しまれています。
丘の上からの眺めがすばらしいです。
2月1日から3日まで修二会が行われ、最終日3日には鬼追いの行事が行われます。
西円堂そばの鐘楼は、正岡子規の句に歌われたものです。
柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺
五重塔
では元の道を引き返し、回廊西側から回廊内部に入ります。
まず目に飛び込んでくるのが、五重塔。法隆寺五重塔はわが国最古の五重塔です。
高さ約31メートル、となりに建つ金堂と同じく二重基壇の上に立ちます。軒が長く張り出して、軒下を優美な雲肘木(くもひじき)と雲斗(くもと)がささえることで、造形にリズムが生まれています。
※肘木(ひじき)・斗(と)は木造建築で軒桁などを支えるための木材です。法隆寺など飛鳥時代建築では雲形のデザインを加えたものが多く見られ、これらを雲肘木(くもひじき)・雲斗(くもと)といいます。
初層内部には中央の心柱(しんばしら)の四方に、お釈迦さまに関する四つの説話が彫刻されています。
東は維摩居士と文殊居士が問答している場面。西は舎利(仏さまの骨)を弟子たちが分ける場面。南は弥勒菩薩が説法している場面。北は釈迦の入滅(涅槃)の場面。それぞれ須弥山を背景として描いてあります。中門と同じく和銅4年(711)の制作です。
金堂
五重塔の東が金堂。現存する世界最古の木造建築です。
五間四面の重層入母屋造で、初層部分に裳階(もこし)という張り出し部分があります。二重基壇の上に立つこと。エンタシス…柱の中央のふっくらした膨らみに、飛鳥時代の建築の特徴をみることができます。
金堂内部は薄暗く厳粛な空気が感じられます。中央の須弥壇に銅造の釈迦三尊像、左に金銅の阿弥陀如来像、右に銅造の薬師如来像。それぞれの上に木造の天蓋が吊るされています。これらを取り巻いて、木彫の四天王像が立ちます。
釈迦三尊像の光背裏側の銘文には、推古天皇30(622)年、亡くなった聖徳太子のため、止利仏師(鞍作止利)に命じて太子の等身の像を造らせたとあります。つまりこの像は釈迦の像でありながら同時に聖徳太子の像であるわけです。
大講堂
五重塔と金堂の北側には大講堂が建ちます。
法隆寺の僧が学問・修行した道場です。単層入母屋造・間口九間。
もとは回廊の北側に独立して建っていましたが、延長3年(925)火事により焼失。正暦元年(990)今の位置に再建されました。そのため、他の建造物と明らかに違う、平安時代の様式となっています。
内部には中央に薬師如来像、その左右に日光菩薩像、月光菩薩像、四隅に四天王像が安置されています。
経蔵・鐘楼
大講堂の左右に経蔵と、
鐘楼があります。
経蔵は奈良時代後期。鐘楼は平安時代前期の建物。こまかい様式に違いが見られます。
回廊
五重塔・金堂・大講堂・経蔵・鐘楼を回廊が取り巻いています。
しかしもとの回廊は経蔵・鐘楼の手前で閉じていました。大講堂・経蔵・鐘楼は独立して回廊の外にあったわけです。
延長3年(925)火事により焼失し正暦元年(990)再建した時に今の位置に拡張されました。そのため、回廊の南側の柱は創建当時のエンタシス列柱ですが、北側の柱は新しく造られた円柱になっています。
聖霊院(しょうりょういん)
回廊の外に出ました。
南が鏡池。
北が聖霊院。
聖霊院は僧が起居する東室(ひがしむろ)を鎌倉時代の保安二年(1121)に再建した時、東室南端をお堂に改築したものです。内陣奥の唐破風をつけた厨子には、聖徳太子摂政像を中心に、聖徳太子の御子たち、太子の師である渡来僧・恵慈(えじ)の像を安置します。
三経院とともに平安・鎌倉時代にさかんになった聖徳太子信仰のあらわれです。毎年3月22日は聖徳太子の命日ということで、「お会式(おえしき)」とよばれる法要が営まれます。
東室・妻室
聖霊院奥の東室(ひがしむろ)、聖霊院東の妻室(つまむろ)は、どちらも僧坊の遺構です。
ここに寺の坊主さんたちが詰めていたということです。
大宝蔵院
大宝蔵院(だいほうぞういん)に向かいます。
大宝蔵院は平成10年に落慶した百済観音堂を中心とした建物です。内部は展示室になっており、法隆寺の貴重な仏像や厨子・寺宝が展示されています。
中にも百済観音像は体長209.4センチのすらりとした長身に柔和な笑みをたたえ、なんともいえない穏やかな気持ちになります。
悪い夢を良い夢に変えてくれるという夢違観音(ゆめたがいかんのん)像、教科書でおなじみの玉虫厨子(たまむしのずし)や聖徳太子像も、ここで実物を見ることができます。
飛鳥時代の仏像や厨子が、こんな完全な姿で残っていることが驚きです。飛鳥時代といえば遠いおとぎ話めいた世界にも思いますが、こういう品々を見ると、たしかに飛鳥時代は、あったんだな。生きた人間が、いたんだなと実感します。
通路を東へ。
東大門(とうだいもん)まで来ました。
くぐると東院伽藍です。
東院伽藍は聖徳太子の斑鳩宮跡です。太子は推古天皇9年(601)この地に宮を造営し、飛鳥から移ってきました。
推古天皇30年(622)聖徳太子が没すると、その子山背大兄王(やましろのおおえのみこ)が斑鳩宮を継ぎますが、皇極天皇2年(643)蘇我入鹿の襲撃を受け太子の一族は全滅。
その後、斑鳩宮跡は荒廃する一方でしたが、天平11年(739)僧行信が太子の菩提を弔うため、斑鳩宮跡に夢殿を建立。夢殿を中心としたエリアは平安時代に法隆寺の管理となり東院伽藍と呼ばれるようになりました。
夢殿
夢殿は斑鳩宮の荒廃を嘆いた行信僧都が天平11年(749)に斑鳩宮跡に建立。
二重基壇の上に建つ壮麗な八角円堂です。屋根の頂にさんぜんとそびえる宝珠にも注目です。
夢殿内陣には救世観音像、行信僧都像、道詮律師像が安置されています。
救世観音像は聖徳太子の等身像と伝える像です。毎年、春と秋に特別公開されています。私が行った時は、春の特別公開中でした。
楠の一本造(いちぼくづくり)で漆箔(うるしはく)がほどこされていますが、長い間秘仏として扱われてきたため、特に御顔が、金銅像のように金色に輝いています。その様子がいかにも神々しいです。
ちなみに東京北の丸公園の日本武道館は夢殿を模して造られました。
礼堂
夢殿南側に礼堂。
絵殿・舎利殿
夢殿北側に聖徳太子の一代記『聖徳太子絵伝』をかざった絵殿、聖徳太子の舎利(遺骨)をおさめた舎利殿のふたつがつながって建っています。
法隆寺はそれぞれの建物が見事なのは言うまでもないのですが、建物と建物をむすぶ通路や築地塀に雰囲気があり、どこを切り取っても絵になります。歩いていると、ウキウキしてきます!
次の旅「斑鳩を歩く(ニ)中宮寺・法輪寺・法起寺」