斑鳩を歩く(ニ)中宮寺・法輪寺・法起寺
本日は、「斑鳩を歩く(ニ)中宮寺・法輪寺・法起寺」です。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
https://roudokus.com/mp3/Ikaruga2.mp3
中宮寺
前回「斑鳩を歩く(一)法隆寺を歩く」からのつづきです。
法隆寺東院伽藍の東に、中宮寺があります。
中宮寺は大和三門跡寺院の一つに数えられる尼寺です。聖徳太子の母・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の発願による建立といわれます。
聖徳太子の斑鳩宮を中心として、西の法隆寺、東の中宮寺といった対照的な位置に建てられました。
もとは現在より東へ500メートルの位置にあり、土壇(どだん)が残っています。聖徳太子建立七ケ寺(しちかじ)の一つに数えられます。
平安時代には衰退しましたが、鎌倉時代、真如比丘尼が中興しました。しかしその後たびたび火災にあいます。
戦国時代の天文年間(1532-55)、後伏見天皇八世の皇孫・尊智女王(そんちじょおう)が住寺となり、以後、門跡寺院となり中宮寺御所、または斑鳩御所と呼ばれました。
宗派は鎌倉時代は法相宗、その後真言宗となり、昭和28年(1953)、法隆寺を総本山とする聖徳衆に合流しました。
本堂
本堂は高松宮妃殿下の発願により昭和43年(1968)5月の落慶です。
周囲を池が取り巻き、八重一重の山吹が咲き乱れています。陽の光が池の水面にゆらゆら揺れて、それが天井裏に反射して、えも言われぬ風情をなしています。
本尊菩薩半跏像
本尊の菩薩半跏像は飛鳥時代の傑作です。半跏…右足を左足の上に乗せた格好で、首を傾け、世の中の人をいかにして救おうか、考えて(思惟)しているお姿です。その微笑みは古典的微笑(アルカイック・スマイル)」の典型とされます。
肌は楠の木材がむき出しで黒光りですが、もとは色が塗ってあったと考えらています。エジプトのスフィンクス・レオナルドダヴィンチのモナリザとならび、「世界の三つの微笑像」と呼ばれています。
国宝 天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)
推古天皇30年(622)聖徳太子が御年48歳で亡くなります。妃の橘大郎女(たちばなの おおいらつめ)は大いに嘆き、采女たちに命じて太子が天寿国(理想郷)に往生されるさまを刺繍に縫わせました。
それが中宮寺に国宝として安置されている天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)、もしくは天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)。日本最古の刺繍です。ただし展示されているのは複製品です。
会津八一歌碑
みほとけの あごとひぢとに
あまでらの あさの
ひかりの ともしきろかも
史学者・書家・歌人の会津八一が、大正9年12月に中宮寺を訪れたときに残した歌です。御仏の顎とひぢとに尼寺の朝の光がぼんやりと射していた。
中宮寺を後に、法輪寺めざして北に歩いていきます。道すがら、築地塀が、いい感じです。
徒歩約15分。つきました。聖徳宗法輪寺。
地名から三井寺ともよばれます。推古天皇30年622年、聖徳太子が病気平癒を祈願して、その御子・山背大兄王(やましろのおおえのみこ)、孫の由義王に建立させたと伝えられます。
また別伝に670年、百済の開法師・円明法師・下氷新物(しもひのにいも)の三人合力して建立したとも伝えられます。
しだいに衰退し、江戸時代初頭には三重塔を残すのみとなっていましたが、享保年間(江戸時代中期)から再興がすすみました。三重塔が修理され、ついで講堂・金堂なども再建され、今に至ります。
三重塔
境内入ってすぐ左手に三重塔がそびえます。
桜の梢ごしにそびえる姿が映えます。法輪寺三重塔は、斑鳩三塔の一つとして親しまれてきましたが、昭和19年(1944)7月21の落雷で焼失しました。
その後、戦後の混乱期ということもあり、また国宝指定が解除されたこともあって再建は困難をきわめましたが、作家幸田文(こうだあや)らの尽力もあり、昭和50年(1975)往時の姿そのままに再建されました。
金堂
境内右手に金堂。宝暦11年(1761)の再建。
講堂
境内北に講堂。昭和35年(1960)の改築。木造十一面観音立像を中心に、木造虚空蔵菩薩立像・木造薬師如来坐像・木造吉祥天立像などを安置します。
斑鳩もこの界隈まで来る人は少ないので、ゆったり落ち着いた気持ちで仏さまを拝めます。
妙見堂
講堂右奥の妙見堂は、妙見菩薩像を安置します。
妙見とは北極星と北斗七星を神格化した中国の神ですが、そこに仏教思想がまじって「妙見菩薩」とよばれるようになりました。別名を北辰妙見菩薩・北辰尊星王(ほくしんそんしょうおう)ともいいます。
法輪寺では毎年、2月3日節分に北辰妙見菩薩を本尊として「星祭り」が行われています。
会津八一歌碑
境内に会津八一(秋艸道人(しゅうそうどうじん))の歌碑。
くわんのん の しろき ひたひ にやうらくの
かげ うごかして かぜ わたる みゆ
史学者・書家・歌人の会津八一が法輪寺に滞在した時、御本尊の十一面観音菩薩を詠んだ歌です。
観音の白き額に瓔珞(かざりもの)の影動かして風が吹き渡るのが見える。
山背大兄王墓
法輪寺を後に、法起寺めざして東へ歩いていきます。道すがら、田園風景のむこうにこんもりした丘が見えます。
山背大兄王の陵とされる富郷(とみさと)陵墓参考地です。ただし古墳の形式がずっと後年のもので、山背大兄王の墓とするのはムリがあると言われています。
山背大兄王(やまのろのおおえのみこ・やましろのおおえのおう)。聖徳太子の長子。母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女(とじこのいらつめ)。
『日本書紀』によると、
628年、推古天皇崩御後、田村皇子と、山背大兄王、どちらが皇位につくかでモメるも、田村皇子を支持する蘇我蝦夷が、山背大兄王を支持する境部摩理勢(さかいべのまりせ)を攻め滅ぼし、田村皇子が34代舒明天皇として即位。
643年(皇極天皇2年)11月1日夜、蘇我入鹿は巨勢徳太臣(こせのとこだのおみ)・土師娑婆連(はじのさばのむらじ)に100名の兵を率いさせて斑鳩宮を襲撃させました。
山背大兄王は山中に逃げるも、「東国で再起をはかるべき」との家臣の言葉を退け、「私一人のために民を大勢殺したくは無い」といって、自害しました。ここに聖徳太子の家系「上宮王家」は断絶しました。
法起寺につきました。
法起寺は推古天皇14年(606)聖徳太子が法華経の講義を行った岡本宮(おかもとのみや)を、太子の没後、遺言により、息子の山背大兄王が寺にあらためたと伝わります。地名から、岡本寺、岡本尼寺(にじ)、池尻寺、池尻尼寺ともよばれます。
法隆寺・四天王寺・中宮寺などとともに、聖徳太子建立七ケ寺の一つに数えられています。
その後、舒明天皇10年(638)に福亮僧都(ふくりょうそうず)が弥勒菩薩像一躯と金堂を造営し、天武天皇14年(685)恵施僧正(えせそうじょう)によって三重塔が建立され、慶雲3年(706)完成したと伝わります。
近年の発掘調査で、寺が建つ以前の建物の遺構が確認されました。それが岡本宮跡と見られています。つまり寺の下に、聖徳太子の宮殿である岡本宮があったらしいことが、明らかになりました。
伽藍配置は東に塔を、西に金堂(現存せず)を置く「法起寺式伽藍配置」です。法隆寺の東に金堂、西に塔を置く伽藍配置とは反対になっています。
三重塔は唯一の創建当時の建物です。
高さ24.27メートル。エンタシス列柱、雲斗・雲形肘木、大きく突き出した勾配のゆるやかな屋根などが、飛鳥時代の様式を示します。昭和47年(1972)に解体修理が始まり、昭和50年(1975)創建当時の姿に姿に復元されました。
現存するわが国最古の、そして最大の三重塔です。
本尊の木造十一面観音立像はもとは講堂にありましたが、現在は収蔵庫に移されています。杉の一木造(いちぼくづくり)で10世紀後半ごろの作といわれています。
そのほか、鐘楼跡や
南大門も味わい深いです。
ヒバリがチピチピ鳴き、のんびりした気分にひたれます。5年ほど前に来た時は、境内でテンとばったり鉢合わせました。
二回にわたって斑鳩を歩きました。日本に仏教をさかんにした聖徳太子の御志に思いをはせつつ、今なお美しい斑鳩の地を歩いてみるのはいかがでしょうか。
次の旅「飛鳥寺と夜の石舞台古墳を訪ねる」