源頼朝 惨敗す。「石橋山の合戦」の古戦場を歩く
源頼朝最大の負け戦として知られる「石橋山の合戦」の
「石橋山古戦場」を歩きます。
↓↓↓音声が再生されます↓↓
https://roudokus.com/mp3/Ishibashiyama2.mp3
治承4年(1180)8月。
伊豆で旗揚げした源頼朝は、相模・伊豆の豪族300騎を率いて鎌倉を目指しますが、途中、平家方の大庭景親3000騎、伊藤佑親300騎に北と南からはさみ討ちにされ、相模湾を見下ろす石橋山で合戦となります。
数を10倍する敵の前に頼朝方は惨敗。頼朝はわずかな家来とともに箱根山中に逃れ、その後真鶴から海を渡り、安房(千葉県南部)にわたりました。
1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦
早川駅~石橋
JR東海道線早川駅で下ります。ここから国道135号線を真鶴方面に歩いていきます。
本日、曇天。
駅下りていきなりミカンの直売所がったので、一袋買って、食べながら歩きます。
国道左手がすぐ海です。潮の香がぷうんと漂って、いい感じです。
「どちらに行かれるんですか」
地元の農家とおぼしき主婦の方が話しかけてきました。
「石橋山古戦場は…」
「あ~石橋山古戦場はですね、まーっすぐ行って、こうこうこう…私も方向同じだから、案内します」
道すがら、話しながら歩きました。いいですね。旅先でこういう人の情に触れると、ほがらかな気分になります。
国道135号線がやがて二手に分かれます。このあたりで主婦の方と別れ、山に向かうほうの道を登っていきます。
治承4年(1180)8月17日、源頼朝は打倒平家を呼びかける以仁王の令旨にこたえて、伊豆で挙兵。
平家の代官・山木兼隆を討ち取りました。
相模・伊豆の豪族たち300騎あまりを味方につけた頼朝は、
さらに三浦一族との合流をはかって、小田原方面を目指しますが。
しかし。
北からは大庭景親3000騎、南からは伊藤佑親入道300騎が迫り、
8月23日。相模湾を見下ろす石橋山で合戦となります。
1180年(治承4年)8月23日 石橋山の合戦
頼みの三浦一族は雨で酒匂川が増水し、足止めを食らって合流できない。頼朝軍は、あそこ、ここに打ち破られ、頼朝はわずかな供回りとともに、箱根山中に逃れ、さらに真鶴から船に乗って、安房(千葉県南部)に落ち延びました。
治承四年(1180)8月23日、石橋山の合戦。その舞台に、いよいよ近づいてきました。
石橋山古戦場碑
JR東海道線の脇の、古びた道を登っていきます。
左手にはJR東海道線の線路、右手には満々たる相模湾。ミカン畑。
そして、そこかしこに早咲きのオカメザクラが咲いていました。のどかです。
お~あったあった。石橋山古戦場碑。堂々とした文字です。
あらためてこの場所に立ってみると、実感します。
とても高い位置なんですね。海を見下ろせて、いい気分です。
さらにミカン畑の中の山道を登っていくと…
見えてきました。佐奈田霊社です。
石橋山の合戦で討ち死にした頼朝方の若武者・佐奈田与一義忠をまつる神社です。
数に十倍の敵を前に、「もはやこれまでか…」
死を覚悟する頼朝。
嵐の中、迫りくる、大庭景親軍3000騎。
その時!
「御曹司殿!ここはそれがしに、お任せくだされ」
バカカ、バカカ、バカカ
佐奈田与一義忠は嵐の中、わずか15騎で、平家軍の中を
むちゃくちゃに駆け抜け、あそこに一騎、こちらに一人、
切り伏せ、蹴飛ばし…
そして平家方の俣野五郎景久(またののごろう かげひさ)と組合になります。
上になり、下になり、ついに俣野五郎景久を組み伏せた佐奈田与一。そこで刃を抜こうとするも。「ぐぬっ、くはっ」血のりがこびりついて刃が抜けない。
その時、
「でりゃあ」
ずばっ
敵・長尾新六によって斬られ、与一は命を落としました。享年25。
「ああっ!お屋形さま…お屋形さま!!」
佐奈田与一の郎党・文三家康(ぶんぞういえやす)は、
「おのれ、よくもお屋形さまを!」
ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、ばかかっ、
敵中に駈け入って、八人を斬り伏せ、壮絶な討ち死にを遂げました。
……
境内には佐奈田義忠手附け石。
そして与一を祀る与一塚。
また、与一が敵将・俣野五郎と組み合っている時に、味方が声をかけた。しかし与一は「たん」がからんで、うまく返事ができなかった、という伝承に基づき、佐奈田霊社は痰・咳・声に霊験があると言われています。
神木がズドンと立ち、時の流れを見守っているかのようです。
佐奈田与一義忠 討ち死にの地(ねじり畑)
佐奈田与一が俣野景久をねじり伏せた場所は、「ねじり畑(ばた)」として、佐奈田霊社裏手に、残っています。
先駆けをした佐奈田与一義忠は、敵将・俣野五郎景久をねじ伏せるも、刀が抜けず焦っている所を、敵方・長尾新六に討ち取られたと伝えられます。
敵をねじり伏せたので、ねじり畑。
ねじりと言うだけあって、この畑の作物はみなねじれてしまうと伝えられています。
ねじり畑の近くには、文三堂があります。佐奈田与一の郎党・文三家康(ぶんぞう いえやす)を祀ったお堂です。
主君・佐奈田与一が討たれた後、文三家康は、おのれ主君のカタキと敵陣の中に駈け入り、敵八人を斬り伏せ、壮絶な討ち死にを遂げたと伝えられます。
ミカン畑の中の小高い丘の上に、ぽつねんと立っています。
源頼朝は元久元年(1190)、伊豆山権現参詣の帰りに石橋山を訪れ、佐奈田与一・文三家康の墓の前で涙を落としたと伝えられます(『吾妻鏡』)。
どこからともなく微かなラジオの音が響いていました。ミカン畑の農家の人が聴きながら作業していたんでしょう。地味に、風情ありました。