金沢北条氏・兼好法師ゆかりの神奈川県・金沢文庫を歩く

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本日は金沢北条氏や兼好法師ゆかりの金沢文庫(かなざわぶんこ)を歩きます。

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金沢北条氏は鎌倉幕府2代執権・北条義時の孫・実時に始まる鎌倉北条氏の一族です。三代にわたって鎌倉の東・六浦の地で栄えました。初代実時以下、学問に熱心な家系でした。集めた蔵書をおさめるため六浦の地に「金沢文庫(かねさわぶんこ)」という書庫を築きました。


京急本線金沢文庫駅下車。


徒歩12分。見えてきました。


神奈川県立金沢(かなざわ)文庫です。

金沢北条氏 系図

※歴史的読みとしては「かねさわぶんこ」ですが、現在一般に「かなざわぶんこ」と言われます。駅名も「かなざわぶんこ」です。この記事では金沢北条氏の歴史的建物としては「かねさわぶんこ」と読み、「現在の」駅名や地名としては「かなざわぶんこ」と読むことにします。

金沢北条氏(かねさわほうじょうし)とは?

金沢北条氏(かねさわほうじょうし)とは、鎌倉幕府二代執権・北条義時の五男・実泰を祖とする鎌倉北条氏の一族です。

金沢北条氏 系図

ただし初代の実泰は若くして出家したので、実泰の息子・実時をふつうは初代と数えます。金沢流北条氏は実時・顕時・貞顕の三代にわたって幕府の要職をつとめ、繁栄しました。特に三代目の金沢貞顕は鎌倉時代最末期に六波羅探題として京都に赴任し、15代目の執権にもなっています。

また金沢北条氏は代々学問に熱心な家系でした。初代実時は鎌倉の東・六浦(むつら)の別業(別荘)を開き、集めた蔵書をおさめるため金沢文庫(かねさわぶんこ)という書庫を築きました。

金沢文庫は金沢北条氏の発展につれて整えられ、大きくなっていきました。しかし、元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡すると、金沢文庫の管理は金沢北条氏の築いた称名寺に委ねられるも、次第に衰退していきました。現在、神奈川県立金沢(かなざわ)文庫として、歴史博物館となっています。

神奈川県立金沢文庫では定期的に金沢北条氏や鎌倉についての企画展示が行われています。


兼好法師と金沢文庫

また神奈川県立金沢文庫には『徒然草』の作者・兼好法師についての資料が多く所蔵されており、特別展として時々公開されています。

なぜ兼好法師?

そうなんです。

兼好法師は、若い頃金沢文庫の近くに住んいでたようなんですね。

教科書でおなじみの狩野探幽作・兼好の絵像も、ここ神奈川県立金沢文庫に収蔵されています。普段は非公開ですが、特別展で時々公開されます。ぜひ見ておきたいものです。

ところで兼好法師はかつて「吉田兼好」の名でおなじみでした。京都の吉田神社の神官を務める卜部氏の家系とされていたため「吉田兼好」だと。しかし近年、兼好の出自についての研究がすすみました。卜部氏の家系というのは卜部氏がハクをつけるために捏造したことで、事実に反するという説が出てきています。

詳しくはこちらをお読みください。

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書)

では実際の「兼好法師」の出自はどうだったのか?…金沢北条氏三代・金沢貞顕に仕えたという説もありますが、詳しいことはまだわからないようです。今後の研究に期待したいところです。

金沢文庫の脇のトンネルを通り抜けると、


ぱっと空間が開けます。称名寺の庭園です。


北側の高台に、北条顕時・金沢貞顕の墓があります。


金沢北条氏ニ代・北条顕時。


金沢北条氏の基礎を築いた初代実時の子です。引付衆・評定衆といった鎌倉幕府の重職をつとめました。当時権力を握っていた安達泰盛の娘聟であったため、安達泰盛時代は権勢さかんでした。しかし安達泰盛派は弘安8年(1285年)の霜月騒動で平頼綱により殺されます。それにしたがって北条顕時も出家・隠遁。禅宗に深く帰依しました。

金沢北条氏 系図

そのままいけば、北条顕時は隠居生活のうちに一生を終えるところでしたが、もう一度、番狂わせが来ました

永仁元年(1293年)、9代執権北条貞時が平頼綱を討伐(平禅門の乱)すると、安達一族が政界に復帰。それに伴い、北条顕時も政界に復帰しました。

そして顕時の息子が

金沢北条氏三代・金沢貞顕です。


金沢北条氏 系図

鎌倉時代最末期に連署(執権補佐役)として北条高時政権を支えました。また六波羅探題として京都に赴任し、高時の次の15代執権にもなっています。その傍ら、貞顕は書物の収集につとめ、金沢文庫を充実させました。

元弘三年(1333)新田義貞が鎌倉を攻めると、北条高時以下、北条一門は菩提寺である東勝寺にこもり自害しました。金沢貞顕もその時に自害しました。

称名寺

では称名寺に向かいましょう。


大きな庭園と池の中をそり橋と平橋が貫き、池の水ぎわにはショウブが咲き乱れ、いい雰囲気です。何か絵画サークルでしょうか。絵を描いている人々。遠足の幼稚園生たち。


池には亀がのんびり泳いでいました。



称名寺は金沢北条氏の菩提寺である律宗の寺院です。初代金沢実時が別邸内にきずいた阿弥陀堂がその前身といわれます。


はじめ浄土宗でしたが、後に律宗の寺となります。



実時・顕時・貞顕三代にわたり金沢北条氏の菩提寺として栄え、拡張・整備されていきましたが、元弘3年(1333)鎌倉幕府の滅亡後は衰退しました。




江戸時代に入って復興し、現在ある伽藍が整えられました。




称名寺の東側には広大な原っぱが広がり、その中の道をどんどん進んでいくと山道になり、やがて、




金沢北条氏初代・北条実時の墓に行き着きます。



北条実時。鎌倉幕府二代執権・北条義時の孫で、北条得宗家の庇護の下、引付衆・評定衆といった鎌倉幕府の要職を勤めました。


金沢北条氏 系図

叔父にあたる北条政村の娘を妻として迎え、北条一族の間の結びつきを強めました。

政治家としてすぐれた一方、学問にも熱心で、武蔵国六浦(むつら)の地の別業内に、金沢文庫を築きました。

八角堂からの眺め

実時の墓からさらに山道を進むと八角堂があります。


ここから、景色がよく見渡せます。

金沢の海と八景島がよく見渡せます。気分いいです。



本日は、金沢北条氏ゆかりの金沢文庫に、金沢文庫と称名寺を訪ねました。兼好法師と金沢文庫のつながりも興味をそそられることです。称名寺は緑が多く四季折々の自然が豊かです。単純に景色を楽しむだけでも、すばらしいと思います。

次の旅「興福寺を歩く

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