岩倉を歩く(実相院・岩倉具視幽棲旧宅ほか)
本日は洛北の岩倉を歩きます。
岩倉は平安京の北に位置し中世以降、貴族の隠棲地でした。
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現在も山里の風情が漂います。町を貫く岩倉川の流れも清らかに、はるかに望む比叡山の姿も雄大で、洛中とはまったく違う風情があります。
岩倉まで
岩倉に行く方は…ほとんどの場合、実相院が目当てだと思います。京都駅から実相院に直行するには地下鉄烏丸線に乗り、国際会館駅で下り、京都バス(24系統)に乗ってバス停岩倉実相院で下ります。
しかし、できれば国際会館駅から実相院まで歩くことをおすすめします。30分くらいです。
岩倉川沿いのすばらしい景色を堪能しながら、ぶらぶら歩いているうちに実相院が見えてくる…それが、いいんです!
もしくは京都駅から京都市営バス(4号)で出町柳駅へ、出町柳から叡山電鉄に乗り、岩倉駅で下車。実相院まで歩きというコースなら、歩くのは15分くらいです。こちらもじゅうぶんに景色が堪能できます。
地下鉄烏丸線・国際会館駅下車。通りに出ると、雄大な比叡山の姿が目に飛び込んできます。気分高まります!
岩倉川の流れに沿って歩いてきます。途中、いくつか比叡山を見渡せる絶景スポットがあり、足が止まります。川沿いの紅葉も見事です!
叡山電鉄の岩倉駅を通過して、
さらに岩倉川沿いに歩いていくと、しだいに山里の風情がましてきます。
やがて岩倉川のほとりに山住神社が見えてきます。
社殿はなく、背後の山を神奈備山(かんなびさん=神のいます山)とし、山の手前の巨石を神の降臨する御座…盤座(いわくら)とした、古代信仰の遺跡です。
かつてこの場所に鎮座していた石座(いわくら)神社は、天禄2年(971)これより北へ徒歩10分に大雲寺が創建されると、大雲寺の鎮守として遷されました。以後こちらの「旧」石座神社は「新」石座神社の御旅所となりました。「旧」石座神社は明治になって山住神社と改名されました。
10月23日の「石座神社の火祭り」では、早朝、「石座神社」から「御旅所=山住神社」への神輿の渡御があります。
実相院
ふたたび岩倉川沿いに歩いていきます。
10分ほどで実相院の山門です。
実相院はもと天台宗寺門派の門跡寺院。現在はどの宗派にも属さない単立寺院で不動明王を本尊とします。
寛喜元年(1229)関白近衛基通(このえ もとみち)の孫にあたる静基権僧正(じょうきごんのそうじょう)による創建。
江戸時代初期、室町幕府15代将軍足利義昭の孫にあたる義尊が入って以降、皇族や貴族がしばしば住寺をつとめる門跡寺院となりました。
はじめ紫野(京都市北区)にありましたが、五辻通小川(京都御所より北西)に移転の後、応仁の乱の戦火を避けてここ岩倉に移ってきました。
四脚門・御車寄・本殿(客殿)は、享保5年(1720)東山天皇中宮・承秋門院(しょうしゅうもんいん)の大宮御所を移築したものです。
玄関衝立の狩野探幽作と伝わる唐獅子図はじめ、狩野派の絵師による襖絵も見どころです。
客殿の「滝の間」に紅葉が映り込むさまは床(とこ)みどり・床(とこ)もみじと呼ばれ、息を飲む美しさです。
紅葉の見事な池泉回遊式庭園と、
比叡山を借景とした枯山水庭園があります。まったく方向性の違う二つの景色を楽しめます。
実相院の脇には石座(いわくら)神社。
天禄2年(971)大雲寺が建立され、最初に見た山住(やまずみ)神社=元の石座神社が勧請された(=移された)ものです。
「元の」石座神社は石座神社の御旅所となり、明治になって山住神社と改名されました。
10月23日の「石座神社の火祭り」では、早朝、「石座神社」から「御旅所=山住神社」への神輿の渡御があります。
大雲寺
大雲寺は…うーんこれは、単なる「家」ですね。
天禄2年(971)、円融天皇の勅願寺として創建。もと園城寺(三井寺)の別院です。行基菩薩作十一面観音像を本尊とし、かつては七堂伽藍をほこった大寺院でした。しかし戦国時代の戦火で焼け、江戸時代に一部再建されるも、昭和60年(1985)、現在の場所に移されました。
近くに冷泉天皇皇后昌子内親王陵、石座神社があります。
岩倉具視幽棲旧宅は実相院のすぐそばです。
万延元年(1860)岩倉具視は公武合体策として孝明天皇妹君・和宮(かずのみや)の14代将軍徳川家茂(いえもち)への降嫁を画策。そのため急進派に命を狙われ、洛中から追放されます。文久2年(1862)、岩倉具視はここ、洛北の岩倉村に移り住みました。
はじめ藤屋藤五郎の廃屋に、元治元年(1864)から大工藤吉の家を購入し、住まいました。後に主屋を増築したのが、この家です。
敷地内には茅葺の主屋(鄰雲軒(りんうんけん))、瓦葺の附属屋(ふぞくや)、岩倉村瘞髪碑(いわくらむらえいはつひ。遺髪碑。瘞は埋めるの意)、岩倉具視手植えの松、岩倉具視の遺品を展示した対岳文庫などがあります。
岩倉具視とは
岩倉具視は幕末~明治前期の政治家。下級貴族の堀河家に生まれ、14歳で岩倉具慶(いわくら ともやす)の養子となります。
30歳で孝明天皇の侍従、33歳で近習となり、日米修好通商条約に反対し孝明天皇に意見書を提出しました(神州万歳堅策)。
その後、公武合体のため孝明天皇御妹・和宮を14代将軍徳川家茂に降嫁させることを画策。そこを討幕急進派ににらまれ朝廷から退けられると、文久2年(1862)洛北岩倉村に隠棲。
隠棲中、大久保利通や木戸孝允、西郷隆盛、坂本龍馬、中岡慎太郎らが訪れ、王政復古について密儀が行われました。その後、洛中に戻ることを許され、慶応3年(1867)王政復古の大号令を実現しました。
明治維新後は東京に移り、西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允らと共に新政府の中心人物として活躍。
明治4年(1871)-明治6年(1873)特命全権大使として欧米各国を視察したこと。帰国後、西郷隆盛の征韓論を退けたことは殊に有名です。
明治16年(1883)東京で亡くなりました。享年59。
鄰雲軒
主屋の鄰雲軒(りんうんけん)です。
手作りの大正ガラスは所々気泡があったり波打って味わいがあります。
部屋の角に、蓑をひっかける金具が出ているのにも注目です。
縁側からは岩倉具視手植えの松と、遺髪碑のある庭園が見渡せます。風情があります。
岩倉村瘞髪碑(えいはつひ)
岩倉具視の遺髪を埋めた塚と碑です。
碑文には、命を狙われて岩倉村に来たが、志を捨てず、王政復古にこぎつけた。
維新後は東京に移り住んだが、かつて助けてくれた岩倉村の人たちのことを忘れず、京都に戻った時は必ず岩倉村に寄って宴会を開いた。
岩倉は後々まで岩倉村を創業の地と考えて、助けてくれた人々の恩を忘れなかった。
長男具綱(ともつな)と岩倉村の計画で遺髪を埋め、後々まで岩倉の威徳が偲ばれるよう碑を立てた」といった内容が書かれています。
対岳文庫
岩倉具視の遺品を展示した建物です。昭和3年(1928)建設。
「対岳」は岩倉具視の使った号で、「岳」は比叡山。比叡山に向かい合って住んでいる、の意味があります。風流な方だったんですね。
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