城南宮・鳥羽離宮跡を歩く

■【古典・歴史】メールマガジン

本日は、京都市伏見区の城南宮、そして鳥羽離宮跡を歩きます。

↓↓↓音声が再生されます↓↓

https://roudokus.com/mp3/Jyounangu.mp3

城南宮は平安京遷都の時、平安京の南の守りとして建てられた神社です。承久3年(1221)承久の乱の発端となった場所であり、幕末には近くで鳥羽・伏見の戦いが起こりました。

また城南宮周辺は、平安時代後期、白河上皇によって荘厳な鳥羽離宮(とばりきゅう)が築かれた鳥羽の地です。わずかな面影の中に、往時の鳥羽離宮の姿をさぐるのも楽しいことです。

城南宮

近鉄京都線竹田駅下車。城南宮まで徒歩18分。

途中、油小路沿いに白河天皇陵がありますが、この近くには鳥羽天皇陵・近衛天皇陵もあるので後でまとめて語りましょう。

とりあえず城南宮に向います。

徒歩18分。

見えてきました。

城南宮
城南宮

城南宮の入り口です。

城南宮
城南宮

城南宮
城南宮

城南宮は延暦13年(794)平安京遷都に際して、都の南の守りとして創建された神社です。国常立神(クニノトコタチノカミ)・八千矛神(やちほこのかみ=大国主神)・息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)を祀ります。

城南宮 舞殿
城南宮 舞殿

ここ城南宮を中心とした鳥羽の地に平安時代後期、白河法皇によって荘厳な鳥羽離宮が築かれ、つづく鳥羽法皇の代まで造営は続きました。城南宮は鳥羽離宮の鎮守として、その中心地として大いに栄えました。

城南宮 拝殿
城南宮 拝殿

また城南宮は工事や引っ越し、旅行などの方位に関係した災難を除く「方除(ほうよけ)」のご利益で知られます。

そのため平安京の貴族たちが方違えのために一時滞在したり、熊野詣に出発する前の精進所ともなりました。

時は降って鎌倉時代の承久三年(1221)5月、後鳥羽上皇はここ城南宮に「流鏑馬をする」といって西国の武士を集め、「執権北条義時を討て」と命令を下しました。こうして始まったのが承久の乱です。


結果は上皇方の惨敗。後鳥羽上皇は隠岐島に、後鳥羽の子順徳上皇は佐渡ヶ島へ流され、鎌倉が京都を監視する出先機関「六波羅探題」が設置されるきっかけとなりました。

幕末には城南宮近くの小枝橋(こえだばし)で鳥羽・伏見の戦いの戦端が切って落とされました。

神苑楽水苑

境内の神苑楽水苑は昭和期に作られた庭園です。

神苑楽水苑 春の山
神苑楽水苑 春の山

鳥羽離宮時代の築山の跡と伝えられる「春の山」から始まり、

神苑楽水苑 春の山
神苑楽水苑 春の山

「平安の庭」「室町の庭」「桃山の庭」「城南離宮の庭」と各時代の作庭方法を取り入れた庭園が続きます。





またこの神苑楽水苑には『源氏物語』に登場する100種類あまりの花が植えられており「源氏物語花の庭」として有名です。

私が行った時は、シダレ梅が見事でした。

「曲水の宴」に使われる遣水が流れています。城南宮の「曲水の宴」は毎年4月29日と11月3日に行われています。白拍子の舞など、平安の雅をつくした宴です。





城南宮を後に、鳥羽離宮南殿跡に向います。まず見えてくるのが鳥羽離宮跡公園。

鳥羽離宮跡公園
鳥羽離宮跡公園

ここは鳥羽離宮南殿の庭園の跡です。公園の一角にある「秋の山」は、鳥羽離宮の築山の跡と伝えられます。

鳥羽離宮跡公園 秋の山
鳥羽離宮跡公園 秋の山

鳥羽離宮は、11世紀の末、白河上皇が京都の南・鳥羽の地に造営した広大な離宮です。白河・鳥羽・後白河、三代にわたって院政の拠点として栄えました。

淀川に続く池沼の岸辺に位置し、東西1.5Km。南北1K。平安京の朱雀大路から「鳥羽の作道」とよばれるまっすぐな道が伸びて、鳥羽離宮とつながっていました。

応徳3年(1086)造営が開始され、南殿・北殿・泉殿・馬場殿といった御所が建てられていきました。またそれぞれの御所には一つずつ、御堂が建てられました。

南殿には証金剛院、北殿には勝光明院、東殿には安楽寿院という具合に。

地図をごらんください。

鳥羽離宮概略図
鳥羽離宮概略図

現在、鴨川はこのエリアの北側を流れていますが、かつては南側を流れていました。

白河上皇に続く鳥羽上皇の時代にも鳥羽離宮の造営は続き、東殿・田中殿が建てられました。鳥羽離宮は上皇が院政を行う拠点として、さながら第二の平安京のように華やかな賑わいを見せていました。

承久3年(1221)後鳥羽上皇が承久の乱で鎌倉幕府に破れた後は、鳥羽離宮は幕府よりの西園寺家の管理とされますが、それ以後、しだいに廃れていきました。

公園の南は、鳥羽離宮南殿の建物の跡地です。

鳥羽離宮南殿跡
鳥羽離宮南殿跡

つまり北に庭園、南に建物があったわけですね。

『平家物語』「城南離宮」

鳥羽離宮のことは、『平家物語』「城南離宮(せいなんのりきゅう)」に描かれています。治承3(1179)平清盛のクーデターによって後白河法皇は御身を拘束され、鳥羽離宮に押し込められます。その冬、後白河法皇は鳥羽離宮にて都の消息をききつつ、わびしく過ごされるという内容です。

法皇は城南(せいなん)の離宮にして、冬もなかばすごさせ給へば、野山(やさん)の嵐の音のみはげしくて、寒庭の月のひかりぞさやけき。庭には雪のみ降りつもりけれども、跡ふみつくる人もなく、池はつららとぢかさねて、むれゐし鳥もみえざりけり。おほ寺の鐘の声、遺愛寺の聞(きき)を驚かし、西山の雪の色、香炉峰の望(のぞみ)をもよほす。よる霜に寒けき砧のひびき、かすかに御枕につたひ、暁、氷をきしる車の跡、遥かに門前によこたはれり。巷を過ぐる行人征馬(こうじんせいば)のいそがはしげなる気色(けしき)、浮世を渡る有様も、おぼしめし知られて哀れなり。

『平家物語』「城南離宮」

■おほ寺 勝光明院。 ■城南離宮 鳥羽殿のこと。 ■遺愛寺 中国廬山香炉峰の北にある寺。「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて見る」(白楽天「和漢朗詠集」下・山家)。

なかなかの名文です。

現在、鳥羽離宮の名残を示すものはここ南殿跡と、東殿跡の安楽寿院など、けして多いとは言えません。しかし。そのわずかな名残の中に、かつての荘厳な鳥羽離宮の姿を思い描きながら歩くのは、楽しいものです。

またこのあたりは鳥羽・伏見の戦いが始まった場所でもあります。


慶応3年(1867)12月9日、新政府軍が「王政復古の大号令」を出したことで徳川幕府は終わりとなりました。12月12日、前将軍徳川慶喜は二条城を出て大阪城に遷ります。

当初、江戸幕府が廃止といっても将軍家や家臣の領土は残されると考えました。しかし、新政府軍は徳川の領土はすべて没収といってきます。

「これでは徳川の臣は露頭に迷う!」
「我らに餓死しろと言うのか!」

怒りをたぎらせた旧幕臣および会津・桑名の藩兵は、翌慶応4年(1868)正月2日、大阪を出て京都を目指しました。

これに対し新政府軍は薩摩・長州・土佐などの藩兵を鳥羽・伏見に繰り出し、旧幕府軍を迎え撃たんとします。

翌正月3日。入京を目指す旧幕府軍はここ城南宮南東500メートルの小枝橋で新政府軍と向かい合います。

「将軍さまが勅命により上洛されるのだ通せ」
「そげな話きいとらんばい。通すこたあできん」
「ぐぬぬ。ならば力づくで」
「何ばすっか。撃て!」

ドガーーーン

ついに薩摩藩のアームストロング砲が火を吹きました。鳥羽の戦いは、始まったのです。ついで伏見でも戦端が開かれました。

翌4日、5日と戦いは続きましたが、仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を掲げて出陣すると新政府軍は官軍となり大いに士気上がります。旧幕府軍はやむなく八幡方面に撤退していきました。

こうして鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の勝利に終わり、その後の明治維新を方向づけたのでした。

白河天皇陵

では、鳥羽離宮南殿跡から東殿跡へ向います。

東殿は史跡が多く楽しいエリアです。

油小路沿いに白河天皇陵。

白河天皇陵
白河天皇陵

白河天皇陵
白河天皇陵

小さいです。かの白河法皇のお墓としては、あまりに小さく質素なことに驚きます。

白河天皇(1053-1129)。後三条天皇の第一皇子。延久4年(1072)即位。応徳3年(1086年)在位14年目にして息子の堀河天皇に譲位。以後、大治4年(1129)亡くなるまで、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって「治天の君」として君臨しました。

退位した天皇が上皇として天皇以上の権力をふるう、「院政」というシステムを確立したのが白河天皇(上皇・法皇)です。

また白河上皇は京都白河の地に法勝寺はじめ六つの寺「六勝寺(ろくしょうじ・りくしょうじ)」を建て、上皇の権威を世に示しました。

一方で信仰心が篤く熊野詣を生涯9回も行ったことはよく知られています。

白河天皇陵から油小路通りを渡って東側に鳥羽天皇陵があります。

鳥羽天皇陵
鳥羽天皇陵

鳥羽天皇(1103-1156)。白河天皇の孫。堀河天皇の子。永久5年(1117)祖父白河に養育されていた藤原璋子が鳥羽のもとに入内。元永2年(1119)、長男顕仁親王…後の崇徳天皇が生まれます。

しかし、鳥羽は崇徳のことを祖父白河の子と疑っており、生涯にわたってその疑いを晴らすことはなく、崇徳を嫌い続けました。

鳥羽・崇徳の確執"
鳥羽・崇徳の確執

一方、鳥羽の祖父白河は曾孫の崇徳を溺愛し、そのことで白河と鳥羽との対立が深まっていきました。保安4年(1123)鳥羽は白河の意向で21歳の若さで譲位させられ、わずか5歳の顕仁が崇徳天皇として即位します。

「くっ…なんでも祖父のいいなりか」

屈辱をかみしめる鳥羽!しかし、大治4年(1129)白河が亡くなると、鳥羽の復讐が始まります。

永治元年(1142)崇徳に譲位させ、もう一人の妻得子との間に生まれた躰仁(なりひと)親王を近衛天皇として即位させます。しかし近衛天皇は久寿元年(1155)近衛天皇が17歳で早世。

ふつうならここで、崇徳の息子あたりを次の天皇にするところですが、鳥羽は崇徳を嫌っており、何が何でも崇徳の血統に位を譲るつもりはありませんでした。

そこで鳥羽は崇徳の実弟の雅仁(まさひと)親王を後白河天皇として即位させます。

「父上…そこまで私をお嫌いですか」

ガックシと肩を落とす崇徳上皇。

翌保元元年(1156)7月、鳥羽が亡くなると、後白河と崇徳の対立が深まります。双方が源平の武士を招集して武力衝突に到ったのが、保元の乱です。

白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地

道すがら、白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地の碑が立っています。

白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地の碑
白河法皇・鳥羽法皇 院政跡地の碑

このあたりが鳥羽離宮東殿の中心地です。離宮の主たる法皇(上皇)が、政治を執り行っていたのでしょう。

安楽寿院の入り口です。

安楽寿院
安楽寿院

安楽寿院は鳥羽上皇創建による真言宗智山派の寺院です。最盛期には全国に所領地を持ち大いに栄えましたが、南北朝の戦乱で衰退。

安楽寿院
安楽寿院

豊臣秀吉・秀頼により再興されました。幕末には鳥羽・伏見の戦いの時、官軍(新政府軍)の本営となりました。

近衛天皇陵

そして安楽寿院の南に近衛天皇陵。

近衛天皇陵
近衛天皇陵

近衛天皇(1139-1155)。

鳥羽天皇の皇子。母は藤原得子(美福門院)。永治元年(1142)兄崇徳の譲位を受けて4歳で即位。崇徳を嫌う鳥羽としては近衛に希望を託していたことですが、久寿元年(1155)17歳で跡取りの無いまま亡くなりました。

もともとは鳥羽天皇皇后・美福門院の墓として造営されました。それが近衛天皇の早世により予定を変えて近衛天皇の墓となったのです。一方美福門院の墓は高野山に建てられました。

多宝塔は豊臣秀頼が片桐且元に命じて再建させたものです。

本日は城南宮と鳥羽離宮跡を歩きました。現在、鳥羽離宮の名残をしめすものはわずかです。しかしそのわずかな名残の中に、白河法皇の築いた荘厳な鳥羽離宮の姿を思い描きながら歩くのは、楽しい散策になるはずです。

今日、東寺の南大門の前を通ったら、アオサギとハトがいたんですが、その立ち位置が実によかったです。


「真言宗総本山 東寺」と書かれた大人の背丈より一回り大きいくらいの石碑の上にハトがとまって、石碑の脇にアオサギがたたずんでいる。その様子がいかにも東寺の守り神っぽくて、キョロキョロして敵の襲撃にそなえているようでもあり、頼もしかったです。

■【古典・歴史】メールマガジン