北鎌倉に北条氏ゆかりの寺々を訪ねる(三)圓應寺・建長寺

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亀ヶ谷坂

明月院を後に鎌倉街道に立ち戻り、鎌倉方面に歩いていきます。右手に坂道が見えてきました。


鎌倉七口の一つ・亀ヶ谷坂(かめがやつざか)と呼ばれる切通です。扇ヶ谷(おおぎがやつ)と山ノ内(やまのうち)を結びます。


なかなか風情ある坂道です。坂の左手のアジサイが見事に咲いていました。

ほととぎすが、そこかしこで鳴きしきり、目にも、耳にも癒される道行きです。

アジサイのある所を通り過ぎると、うっそうとした寂しい感じになってきました。


夜ここ歩いたら怖いだうと思います。風もヒンヤリしてます。


このまま行くと横須賀線の線路まで出てしまいますので、適当な所で坂を鎌倉街道まで引き返します。

亀ヶ谷坂を後に、巨福呂坂(こふくろざか)を上っていくと、

左手に大きな門が見えてきます。建長寺の入り口です。


建長寺は鎌倉時代の建長五年(1253年)五代執権北条時頼が、中国南宋の大覚禅師(だいがくぜんじ)(蘭渓道隆。らんけいどうりゅう)を開山として招き、建立した臨済宗の寺院です。鎌倉五山の第一位に数えられています。

中国の禅宗寺院の様式に習って、

総門


三門


仏殿


法堂(はっとう)


方丈


を縦一列に並べた伽藍配置に特徴があります。

裏山にある鎮守のお社「半僧坊(はんそうぼう)」からは鎌倉の街並みと海が一望できます。



さらに半僧坊から登っていくと「勝上嶽展望台」があり、


その先は鎌倉アルプスとよばれる尾根をめぐる「天園ハイキングコース」が続きます。

圓應寺(えんのうじ)

建長寺からふたたび鎌倉街道に立ち返り、鎌倉方面に歩いていくと、右手に圓應寺の階段があります。



赤地に白く「南無地蔵菩薩」ののぼりがずらっと並んでます。

圓應寺は閻魔王(=地蔵菩薩)を本尊に、智覚禅師により建長2年(1250)創建されたお寺です。もとは滑川(なめりがわ)が海にそそぐ河口近くにありましたが、元禄16年(1703)の地震で、この地に移ってきました。

「閻魔堂」とも「十王堂」ともよばれ、死者が冥界において出会う閻魔王を中心とした「十王」の像を祀ります。

閻魔王は地獄の裁判長。「十王」は裁判官です。鎌倉時代に流行した「十王思想」によると、人が死んでから三年の間、閻魔王を中心とした十人の裁判官「十王」によって取り調べを受けるといいます。

初七日には秦江(しんこう)王
二七日(ふたなのか)には初江(しょこう)王
三七日(みなのか)には宋帝王
四七日(よなのか)には五官王
五七日(いつなのか)には閻魔王
六七日(むなのか)には変成(へんじょう)王
七七日(なななのか)(四十九日)には太山(たいさん)王
百ヶ日(ひゃっかにち)には平等(びょうどう)王
一周忌には都市(とし)王
三回忌には五道転輪(ごどうてんりん)王

が、それぞれ死者の善悪を裁くということです。

初七日から七七日(四十九日)までを「中有(ちゅうう)」または「中陰(ちゅういん)」といいます。
この間、死者はこの世からあの世への旅を続けることとなります。

お堂の中に入ります。


ご本尊の閻魔大王坐像は、運慶作と伝えられ「笑い閻魔」の愛称で親しまれています。

笑い閻魔。なぜエンマさまが笑うのか?

仏師として名声をほしいままにした運慶が、晩年、瀕死の病気にかかりました。

もうだめだ。遠のく意識。

その時、運慶は冥界で閻魔大王と出会います。

「お前の生前の罪は重い。本来ならば地獄行きである。

だがもしワシの姿を像に作って
人々を正しく導くならば、生き返らせてやろう」

そう言われて、ハッと目が覚めました。

「やった!生きかえった!アハハハハ」

運慶は大喜びで、笑いながら閻魔像を掘ったので、この閻魔像は恐ろしい中にも笑いをたたえた表情になったと伝えられます。

そもそも閻魔王の本地は地蔵菩薩。

恐ろしいだけでなく、ほんとうは人を救いたい慈悲の心を持っておられるんですよ。

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