明治神宮を歩く
本日は「明治神宮を歩く」です。
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明治神宮は大正9年(1920)、明治天皇と昭憲皇太后を祭神として創建された神社で、東京で初詣といったら明治神宮。というくらい、毎年初詣にはにぎわいます。
JR原宿駅もしくは東京メトロ明治神宮前駅で降ります。
正面にある橋が、神宮橋です。大正9年、明治神宮が建てられた時に山手線をまたいで架けられました。昭和57年、元の姿を残す形で再建されたものが、現在の神宮橋です。
この日は天理教が演説してました。ここ神宮橋はしじゅう何かイベントやってて演説やってて落ち着かないです。さっさと通り過ぎます。
神宮橋をわたって一本道路を渡って正面右手に鳥居があります。皇室の菊の御紋が三つあしらってある、大きな木の鳥居です。明治神宮の入り口です。
明治神宮は大正9年(1920)、明治天皇と昭憲皇太后を祭神として創建されました。この場所は江戸時代には熊本藩加藤家の下屋敷、後に彦根藩井伊家の下屋敷となり、明治に入って皇室の御料地となりました。空襲でほとんどの建物が焼失しましたが、昭和33年(1958)に再建されました。
南参道
南参道です。シイ、カシ、クスなどの常緑広葉樹の並木道です。ざあーーっと風が吹いて木々の梢がゆれて、いい感じです。はるか向こうまで南参道は続いています。
玉砂利の上に落ちる木々の影も涼し気です。周りからは英語やスペイン語?よくわからない言語、関西弁も多く聞こえてきます。あちこちから人が来ているのが実感できます。
第122代明治天皇。嘉永5年(1852)生まれ。孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・慶子(よしこ)。安政3年(1856)5歳で宮中に上るまで中山忠能邸で養育されました。元治元年(1864)7月19日、長州藩が京都御所に砲撃をしかけました。禁門の変です。その歳、13歳の明治天皇は爆音に驚き、卒倒されたことが伝えられています。
慶応2年(1866)12月、父孝明天皇が崩御すると、翌慶応3年(1867)1月、践祚しました。この時、まだ元服前でしたので立太子を経ずに践祚しています。皇太子に立たずに天皇になったということです。
慶応3年(1867)10月14日、15代将軍徳川慶喜は大政を奉還。翌15日明治天皇はこの奏上を勅許し、ここに、江戸幕府から朝廷に、いちおう政権が返上される形となりました。
翌慶応4年(1868)3月、明治天皇は「五箇条の御誓文」を発布し、新政府の方針を示されました。そして元号を「明治」と改めます。以後、一代の天皇につき一つの元号を使う「一世一元(いっせいいちげん)」の制度が定められました。
しかし、政権は形式的に朝廷に戻っただけで実質はまだ江戸幕府が握っていました。討幕派は、これではいかんと、
慶応4年(1868)12月9日、「王政復古の大号令」を発布。
これに反発した旧幕府軍が、新政府軍と京都南方で戦ったのが、鳥羽伏見の戦いです。戦いのさ中、徳川慶喜は味方を捨てて逃げ出し、旧幕府軍は負けて、続く戊辰戦争でも負けて…明治の世となったことは周知の通りです。
明治元年(1868)10月、明治天皇は初めて江戸に行幸され、江戸を東京とあらため、いったん京都にお戻りになりますが、翌明治2年(1869)ふたたび東京に行幸し、以後、東京が都と定められました。これを東京奠都(てんと)といいます。以後、明治天皇は崩御まで東京に住まわれました。
神橋を渡り、さらに並木道を進んでいきます。所々まだ紅葉が残っていて目に楽しいです(この日2016/12/10)。
玉砂利を踏む音もいいですね。これです!これ!ジャッジャッジャッジャッ…
明治神宮御苑
しばらく行くと左手に明治神宮御苑の入り口が見えてきました。
案内板に明治天皇の御製が。
うつせみの代々木の里は静かにて
都のほかの心地こそすれ
「うつせみの」は代々木の「代」にかかる枕詞。代々木の里は静かであって、都の外にいるような気がするなあ、ということでしょう。この場にぴったりです。
維持協力金500円を払って入ります。冬枯れて寒々しているんですけども、所々紅葉が残っていまいた。葉っぱの一葉一葉にキョウレツに日光が反射して、目にまぶしいです。
地図を見ると、加藤清正ゆかりの清正井(きよまさのいど)がゴールになるようなので、案内板にそって歩いていきます。
藁ぶき屋根の四阿があって、なかなかいい感じです。座ってぼんやり鳥の声に耳を傾けるのもいいです。見えてきました。
南池(なんち)です。
この日は風が強く、しかも日差しの強い日だったので、さざなみがキラキラと輝いて見えました。
水の表面が木々の影で黒々としており、その黒い表面に細かい白波が発生して、それが風に吹かれてさあーーーっといっせいに移動していくさまが、見事でした。
御釣台です。明治天皇の思し召しによって作られ、昭憲皇太后が時々釣りを楽しまれたと案内板にあります。欄干からのぞき込むと、丸々と肥えた鯉がたくさん泳いでいました。
隔雲亭
南池を見下ろす丘の上にあるのが隔雲亭(かくうんてい)です。明治33年、明治天皇の思し召しにより昭憲皇太后の御休息所として作られた数寄屋造りの建物です。戦火により燃えてしまい、昭和33年、篤志家の寄付によって再建されました。
縁側からの眺めもよかったでしょうね。あそこに座ってサアーーッと、木々の梢を風が揺らす音を聞くというのは。風流なことです。
ハラハラと落ち葉舞い散る中を、左手に南池を見ながら、ざっざっざっと玉砂利を踏みながら歩いていきます。時々落ち葉をガサッ、ガサッと踏むのも足にいい心地です。
しばらく歩くと明治天皇の思し召しによる花菖蒲田があります。
この季節見る影も無いですが、6月頃には見事な菖蒲を花開かせているでしょう。お。八橋があります。渡っていきます。むこうにまた四阿が見えますね…
から衣きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬるたびをしぞ思ふ
在原業平の、かきつばたの歌をつぶやきつつ…四阿です。
明治神宮全域を巡ろうと思っていたけども、今日はもうこの、御苑だけでもいいかな。満足って感じがしてきました。ホームグラウンドで、近くを散策するのは、こういう所がいいですね。
旅先だとあたふたしてしまって、早く見て回らないとといけない。自然と速足になります。その点、住まいが近いと、ノンビリ見てまわれるのがいいですよ。ぜんぶ見れなくても、また今度続きを見ればいいやという余裕。
私は来年末に京都に引っ越す予定ですが、京都に住めば南禅寺も大原の寂光院もこんなふうにノンビリした気持ちで見て回れると思うと、今からワクワクします。
清正の井戸
階段下りた所が清正の井戸です。
江戸時代にここは加藤家の下屋敷の庭園であったことから、加藤清正の掘った井戸だと伝えられるものです。さきほどの南池の水源になっている、ということです。この御苑散策の一応のゴール地点のような扱いになってます。
以上、明治神宮御苑を一通り回ってきました。ああいっぱい酸素吸ったって感じ。体がすーと清められたみたいです。
ふたたび参道に戻り、歩いていきます。右手に奉納されたお酒の菰樽が積み重ねられています。対面には、奉納されたワインの樽が並んでいます。
明治天皇は日本酒を好まれましたが、晩年は糖尿病が悪化したため控えられていました。しかしワインは健康のためにお召しになっていた、ということです。
明治天皇の御製がここにも。
よきをとりあしきをすてて外國に
おとらぬ国となすよしもがな
大鳥居
木々の梢の切れ間に、いよいよ大鳥居が見えてきました。日本で最も大きい木造の明神鳥居です。存在感ありますね!さきへどの鳥居と同じく、皇室の菊の御紋が三つあしらわれています。やはり木製の鳥居ですが、さきほどの鳥居は柱に根巻(ねまき)をはいていたのに対し、こちらは裸足です。
鳥居をくぐり、参道を進んでいきます。今度はさっきの南参道よりやや紅葉が多くなってきた感じですね。
明治神宮は大学生の頃サークルの遠足?的なもので来た覚えがありますが、今回20年ぶりくらいでしょうか。
来年後半に東京を引き払うので、今のうちに東京のいい所をたくさん見ておきたいと思って、今回明治神宮、来てみました。
お、正面に明治天皇の御製(ぎょせい)と昭憲皇太后の御歌(みうた)が掲げてありますね。
まず明治天皇御製。
さまざまのうきふしをへて呉竹の
よにすぐれたる人とこそなれ
竹はたくさんの節があるからこそ風雪に耐えられる。そんなふうに、艱難辛苦があるからこそ、優れた人物になれるのだ。
うーん…質実剛健を旨とされた明治天皇らしい御製。胸に響きます。
昭憲皇太后御歌。
人はただすなほならなむ呉竹の
世にたちこえむふしはなくとも
人はひたすら素直でありたいものです。竹の節のように世に現れる目だった才能がたとえ無くても、地味でも、素直なのが一番です。
ということでしょうか。「呉竹」という言葉を軸に、明治天皇と昭憲皇太后のそれぞれの御人柄がしのばれます。これらの歌に出会えただけでも今日来てよかったと思います。
拝殿・本殿
さて右手に次の、やや小さい鳥居が見えてきました。鳥居くぐって左手の手水場にも昭憲皇太后の御歌が掲げられています。
あき人のにぎはいあへる聲すなり
ゆたかにくるる年の市路に
そうか、商人ですね。あき人は。商人たちがにぎわいあっている声がします。豊かに暮れる年の瀬の市場でございますよと。
うーん、商売が繁盛していることなんですよ!豊かに暮れて行く年の暮れに、ワイワイ市場で売り込みの声なんかが元気そうだと。温かい御志が感じられる歌じゃないですか。
正面に門があり、くぐります。
明治神宮は平成32年(2020)に鎮座100年を迎えるということで、現在、その記念事業として銅葺き屋根の葺き替えをやっています。鳥居から見て手前のほうから葺きかわってキラキラの銅になっています。古いものは緑にくすんでおり、そのギャップが面白いです。
鳥居から見て手前のほうから順次葺き替えを進めているということです。本殿の大屋根はだから一番最後になるんでしょうね。
新しく銅葺きされた所はものすごくきららかです。キンキラキンです。人の影が映り込んで、時々キラッ、キラッと流れる。ああ、銅葺き屋根って最初はこんなにキラキラしてんだ~って感じです。
神社の銅葺き屋根っていったら普通、緑に色がくすんでるじゃないですか。最初はこうまでキラキラと、おろしたての10円玉みたいに。すごいな。これが年を経て、ああいうふうにくすんでいくんだなと。改めて感心しました。
拝殿です。
大きな緑の銅葺きの屋根です。向こうにNTTドコモ代々木ビルが見えているのも、いい感じですね。芝増上寺の向こうに東京タワーが見えている、あの景色を思い出します。
どこ見ても皇室の菊の御紋があしらってあります。あれ、後鳥羽上皇が始めたっていう説がありますが、本当でしょうか。
奈良の橿原神宮に似てるけど、あそこまでダダっ広~い感じじゃなくて、もっと空間が詰まってる感じがします。拝殿を通して、向こうに見える本殿を拝みます。
教育勅語と五箇条の御誓文が冊子として置いてあるのが、すばらしいお心づかいですね!
本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。
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