金戒光明寺を歩く(法然上人草庵跡・京都守護職屯所跡)
本日は京都市左京区の金戒光明寺を歩きます。
金戒光明寺は法然上人の草庵の跡に建立された浄土宗の寺院です。幕末に京都守護職・松平容保の屯所が置かれたことで有名です。
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法然や熊谷次郎直実の鎌倉時代初期、春日局やお江(お江与)の方の江戸時代初期、新選組・松平容保の幕末…大きく三つの時の流れがクロスする、歴史好きにはたまらない場所です。
また山の上にある寺ですので京都市内が見渡せて、とても景色がいいです。
高麗門~山門
バス停岡崎道から徒歩5分。門前町ののんびりした空気の中、歩いて行くと…
見えてきました。
金戒光明寺・高麗門です。階段を登り、山門に至ります。入母屋造り本瓦葺きの荘厳な構えです。
万延元年(1860)建立。扁額の文字「浄土真宗最初門」は15世紀の後小松天皇の宸筆です。ここでいう「浄土真宗」は親鸞の開いた「浄土真宗」ではなくて、「真の」浄土宗という意味でしょう。
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金戒光明寺。地元では「黒谷(くろだに)さん」の愛称で親しまれしています。岡崎神社の北にある丘の上にあり、もっとも高い位置からは京都市内が見渡せます。
承安5年(1175)43歳の法然上人は比叡山を下り、この地にはじめの草庵を結びました。
法然上人が修行していた比叡山の西塔(さいとう)黒谷別所(くろだにべっしょ)から、この土地も「黒谷」と呼ばれます。
また比叡山の西塔黒谷別所を「元黒谷(もとくろだに)」、この地を「新黒谷(しんくろだに)」ともいいます。
法然上人は後に東山吉水(現知恩院御影堂あたり)に移ってからもたびたびこの地を訪れ修行の場としました。
法然の没後、法然の草庵は弟子たちに引き継がれ、寺として整えられていきました。14世紀に後光厳天皇より「光戒」の二字を賜ってからは「金戒光明寺」となり、15世紀に後小松天皇より「浄土真宗最初門」の勅願を下されました。
勢至丸像
山門くぐり…石段の途中に勢至丸像。
勢至丸後の法然上人は、美作国(岡山県の一部)の押領使(警察署長)漆間時国(うるま ときくに)の長男として生まれますが、父漆間時国は荘園管理人・明石定明(あかし さだあきら)の襲撃を受け、死んでしまいます。
おのれ父のカタキ。復讐を思う勢至丸。ならぬ!父は言うのでした。敵を憎むな、復讐をするな。憎しみは憎しみを生むだけだ。それよりも仏門に入り、父の菩提を弔ってくれと。これにより勢至丸は仏門に入り、比叡山に上ることとなります。
石段登りきると、本堂たる御影堂(みえいどう)。
入母屋造り・本瓦葺き。正面には向拝が張り出しています。
昭和19年(1944)の火事で焼けた後、再建されたものです。
内陣には法然上人の75歳の時の御影が安置されています。本尊文殊菩薩像とその脇の四三像はもともと三重塔内部に安置されていたもので、運慶作と伝えられます。
鎧掛の松
御影堂右手に鎧掛の松。
建久4年(1193)、熊谷次郎直実が法然上人のもとで出家した時、方丈裏の池で鎧を洗い、この松に鎧を掛けたと伝えられます。現在の松は三代目です。
『平家物語』によると熊谷は寿永3年(1184)2月、一の谷の合戦で平家の若武者・平敦盛が沖に停泊している船に逃げていくところを、後ろから呼びかけました。
「あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後を見せさせ給ふものかな。返させたへ」
水際で扇を上げて招く場面は、『平家物語』屈指の名文です。ぜひ暗誦しておきたい部分です。招かれて、武士の意地と武者は引き返してくる。水際で取っ組み合いになって、兜を払い除けてみると、年の頃167の若者だった。
いろいろあって、熊谷は結局この若者・平敦盛を討ち取ってしまうわけですが…後にそれを後悔して法然上人のもとで出家したという話です。
しかし敦盛を討った寿永3年(1184)から出家する建久4年(1193)までは9年もへだてています。実際には敦盛のことではなくて、訴訟で負けたことに腹を立ててとか、出家の理由は別にあったようです。
御影堂のあるエリアから右手に入ってくと、蓮池と極楽橋があります。
蓮池は熊谷次郎直実がこの地に庵を結んでいた法然上人のもとで出家しようと決意した時、鎧を洗ったと伝えられます。
蓮池にかかる極楽橋は三代将軍家光の乳母・春日局が、二代秀忠正妻で三代家光母・お江(お江与)の墓を建立。そこ参詣するために木製の橋を造営させたのが始まりとされます。
寛永10年(1633)二代秀忠の元家臣伊丹重好がこの先の山の上に秀忠の菩提を弔うために三重塔を建立。参詣しやすくするために、橋を石橋に作り変えました。
春日局(お福)は三代家光を将軍として強烈に押しました。一方母お江与は家光を嫌い、家光の弟の国松のほうを次の将軍にと考えました。そのため、春日局とお江与の間でドロドロした女の争いが続いたようですが…
お江与の晩年・没後は春日局もお江与に同情する所が出てきたんでしょうか。こんなふうに墓を立てて弔ったという話が残っているのは、しみじみとあはれを誘います。
お江供養塔
極楽橋渡ってすぐの所にお江供養塔。
お江の方、お江与の方とも。浅井長政とお市の方との間に生まれた浅井三姉妹の三女。天正元年(1573)浅井長政が信長に討たれた後、お市は柴田勝家と再婚。その柴田勝家も天正11年(1583)北ノ庄城にて羽柴秀吉に滅ぼされ、お市は柴田勝家とともに自害します。
浅井三姉妹
三姉妹は救い出され、以後、秀吉のもとで養育されました。浅井三姉妹。茶々・初・江とおぼえてください。チャチャ・ハツ・Go! ご一緒に。チャチャ・ハツ・Go!
長女の茶々は秀吉に嫁いで淀殿となり、次女の初は近江の大名京極高次に嫁いで常高院となり、三女のお江(お江与)は二代将軍秀忠に嫁いで崇源院となります。
お江は三代将軍家光や、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、後水尾天皇に嫁いだ和子(まさこ)を産みました。
家光乳母の春日局は三代将軍として家光を推し、母お江与は家光の弟の国松を推していました。
お福(春日局)とお江与(養源院)
そのため、春日局とお江の間で長い間将軍跡取りをめぐって女の争いが続いたようです。しかしお江晩年・没後は春日局もお江に同情するところが出てきたんでしょうか。一番のライバルであった春日局がお江を弔ったという話は、しみじみと、あはれを誘うじゃないですか。
では三重塔までの石段を登っていきます。
左右は墓場です。なんかアフロ髪の仏さんがいますね。ものすごいインパクトを放っています。
西雲院・紫煙石
途中、道が左に分かれ会津墓地までつながっています。まずはこっちに折れてみましょう。
突き当りまで歩くと、塔頭の西雲院があります。
秀吉の朝鮮征伐で帰化した高麗人・宗厳が江戸時代初期に創建しました。山門くぐってすぐ右に紫雲石。
法然上人がこの石に腰掛けた時、紫雲がたなびき、金の光がさしたと伝えられる霊石です。
左手の観音像は百日咳に効能があるとされ信仰を集めていまます。
西雲院の離れには会津墓地があります。
文久2年(1182)から慶応3年(1187)までに命を落とした会津藩士237柱に加えて、鳥羽伏見の戦いの戦死者115柱が合祀されています。
幕末。
京都の治安は悪化していました。「天誅」と称して、幕府要人が斬られる事件が多発していました。
京都の治安維持には、西町奉行所・東町奉行所・伏見奉行所の三箇所で当たっていましたが、奉行所だけではとても対応しきれるものではありませんでした。
そこで文久2年(1862)、京都の治安維持のために新たな組織が作られます。京都守護職です。長官には会津松平家の松平容保(まつだいら かたもり)が任命され、金戒光明寺が屯所となりました。
文久3年(1863)壬生で新選組の前身たる浪士組が結成されると、京都守護職が彼ら浪士組を傘下におさめ、京都の治安維持にあたることとなります。
同年8月18日、過激派の公卿を御所から追放したことを始め、元治元年(1864)6月5日の池田屋事件、同年7月18日の禁門の変で、京都守護職が新選組を指揮して勝利をおさめたことはよく知られている通りです。
しかし慶応2年(1866)正月21日、薩長連合が成立すると、しだいに形勢は徳川方に悪くなっていきます。
慶応4年(1868)正月、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れると、会津は一転、朝敵の汚名を着せられることとなりました。松平容保は会津に帰国。奥羽越列藩連合の中心として新政府軍と戦いますが、それにも破れ、
松平容保は明治新政府によって蟄居を命じられました。明治もだいぶ後になってから許され、日光東照宮や上野東照宮の宮司となって明治26年(1893年)東京小石川の自宅で亡くなりました。最期まで、犠牲になった会津藩士の供養を忘れず、自分だけが贅沢するわけにいかないと質素な暮らしを貫いたといいます。
顕彰碑に松平容保公の御詠がありました。
松平 容保公 都の歌会にて御詠
"窓前竹"
さす月よ うつるのみかは 友ずりの
こゑさへ きよし 窓の呉竹
三重塔
階段を登りきると三重塔がそびえます。
寛永10年(1633)、二代将軍徳川秀忠の元家臣・伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うために建立したものです。
本尊として運慶作文殊菩薩像とその脇の四像が安置されていましたが、現在は御影堂内部に移されています。振り返ると、京都の町並みが見渡せます。気分いいです。
ここで帰る方がほとんどですが、三重塔の裏手の墓地まで入っていってください。清和天皇の火葬塚があります。
56代清和天皇。55代文德天皇の第四皇子。1歳で皇太子に立ち、9歳で父文徳天皇が亡くなったことにより即位しました。
本来、第一皇子の惟喬親王が即位すべきところでしたが、母方の藤原氏の強い後押しで清和天皇が即位しました。
史上初めての幼帝です。清和天皇の御世、藤原良房・藤原基経が大いに権力を伸ばしました。
清和天皇は義兄である惟喬親王を押しのけて即位したことを生涯気に病んでおられたようです。27歳で譲位してご出家されたのも、それが一因だったかもしれません。
崩御後はここ上粟田山で火葬され、遺言により洛西の水尾に埋葬されました。
圓光大師御廟
では石段を下っていきます。途中、法然上人の遺骨を収めた圓光大師御廟があります。
圓光大師法然上人は建暦2年(1212)正月25、東山大谷禅房にて入寂。大谷に葬られました。享年80。くしくも釈迦と同じです。
法然上人没後、それまで弟子の間だけで読まれていた上人の著書『選択本願念仏集』が一般に公開されました。その内容に、怒りをたぎらせる者もありました。
特に、天台宗門徒は激怒しました。
「法然は天台宗の教えをないがしろにしているのだ!」
「念仏さえ唱えらればいい?そんなはずがあるか!」
嘉禄3年(1227)6月、比叡山の荒法師たちは、法然上人の葬られた大谷の廟堂に押し寄せ、これを破壊します。すぐさま六波羅探題の武士がかけつけて止めましたが、いつまた攻撃があるかわかりませんでした。
そこで、二世信空上人らが、ひそかに法然上人のご遺体を運び出し、西山の粟生野(あお)で荼毘に付されました。この事件を「嘉禄の法難」といいます。
信空上人は生涯、法然上人のご遺骨を肌身離さず持っていましたが、信空上人の没後、この地に遷されました。
うーん…比叡山の荒法師、メチャクチャやってきたんだなァと実感できる場所です。
階段を下りきった左手に蓮池院があります。
別名熊谷堂。源氏の武将・熊谷次郎直実の住居跡と伝えられます。昭和10年(1935)再建。
熊谷次郎直実は寿永3年(1184)2月、一の谷の合戦で平家の若武者・平敦盛を討ち取りました。
『平家物語』によると、わが子小次郎とも重なる若者を図らずも討ってしまったことに深く心を痛めて、法然上人の弟子となったという話です。
しかし実際には熊谷が出家したのは一の谷の合戦の9年も後です。敦盛を討ったことに後悔して…というのはあくまでもお話上のことのようです。まあもしかしたら「あの時は俺酷いことをしたなァ」なんて考えたかもしれませんが…。
本日は京都左京区の金戒光明寺を歩きました。
法然や熊谷次郎直実の鎌倉時代初期、春日局やお江与の方の江戸時代初期、新選組・松平容保の幕末…大きく三つの時の流れがクロスする、歴史好きにはたまらない場所です。
山の上にある寺ですので京都市内が見渡せます。とても景色がいいです。京都にお寄りの際は、ぜひ金戒光明寺。金戒光明寺!金戒光明寺を!歩いてみてください。
次の旅「京都・奈良・滋賀の松尾芭蕉」