三井寺を歩く

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本日は滋賀県大津市の三井寺を歩きます。

三井寺は大友皇子の息子・大友与多王(おおともの よたのおおきみ)の創建と伝えられる天台寺門宗の総本山。

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延暦寺・興福寺・東大寺とともに日本四箇大寺(しかたいじ)の一つに数えられます。

境内に天智・天武・持統三帝の産湯につかったという霊水があることから、御井寺、転じて三井寺となりました。

琵琶湖疏水

京阪(けいはん)三井寺(みいでら)駅下車。すぐ目の前に琵琶湖疏水が流れています。

琵琶湖疏水は琵琶湖の水を京都に引くために明治時代に開削された人口の水路です。

大津市三保ケ崎の取入口から約500メートルを流れた後、長等山(ながらやま)を貫く2436メートルの長等山トンネルに入ります。

これは当時(明治初期)のトンネルとしては最長でした。

中院

大門(仁王門)

やがて三井寺の仁王門に至ります。

三間一戸・入母屋造・檜皮葺の楼門です。宝徳4年(1452)近江国甲賀郡常楽寺に創建され、伏見城に移され、慶長6年(1601)徳川家康の寄進により当地に移されました。どっしりと歴史を感じさせるたたずまいです。

三井寺 縁起

三井寺は正式には長等山園城寺(ながらさん おんじょうじ)。天台寺門宗の総本山。琵琶湖を見下ろす長等山の中腹に位置します。延暦寺・興福寺・東大寺とともに日本四箇大寺(しかたいじ)の一つに数えられます。

三十五万坪を越える広大な寺域に、観音堂を中心とする南院、金堂や唐院を中心とする中院、新羅善神堂を中心とする北院の三つのエリアが広がります。

創建は天武天皇15年(686)、天智天皇・弘文天皇(大友皇子)・天武天皇の勅願寺として、大友皇子の息子・大友与多王(おおともの よたのおおきみ)の創建と伝えられます。創建時には大友氏の氏寺であったわけです。

大友与多王が自ら「田園城邑(でんえんじょうゆう)」を寄進したので、天武天皇より「園城」の勅額を賜ったことが「園城寺」のはじまりと伝えられます。

境内に天智・天武・持統三帝の産湯につかったという霊水があるため「御井の寺」と呼ばれました。平安時代に智証大師円珍が密教の三部灌頂にその水を用いたことから「三井の寺」とよばれるようになりました。

一時、衰退しましたが、平安時代初期に円珍によって中興されました。

円珍は山王明神のお告げにしたがって唐にわたり多くの経典を持ち帰り、貞観元年(859)園城寺初代長吏に就任しました。長吏とは園城寺をたばねる長官のことで、今日まで163代を数えます。

また円珍は新羅明神のお告げにより園城寺境内に「唐院」をもうけ、唐から持ち帰った経典をおさめました。

円珍の死後、比叡山延暦寺では円珍派と円仁派の対立が深まります。ついに正暦4年(993)円珍派はいっせいに比叡山を下り、園城寺に入りました。以後、山門派(比叡山延暦寺)と寺門派(長等山園城寺)の対立が続きました。これを「山門・寺門の争い」といいます。

山門(比叡山延暦寺)の僧兵はしばしば比叡山を下り、園城寺を焼き討ちにしました。かの武蔵坊弁慶も延暦寺から園城寺焼き討ちにおもむいた一人だったと伝えられます。

源頼義が前九年の役に出陣するにあたり戦勝祈願をして以来、三井寺は源氏の氏寺として保護されました。源氏三代の政権が滅びた後も、北条氏から、ついで足利氏から保護を受け、大寺として発展していきました。

文禄4年(1595)豊臣秀吉は突如、園城寺に闕所(廃絶)令を出します。理由は不明です。これにより三井寺は全山取り壊しとなりました。金堂は比叡山に移され、延暦寺西塔・釈迦堂として現存しています。

しかし次の徳川時代になると園城寺は順次、再興されていきました。

釈迦堂

大門を入ってすぐ右手に釈迦堂があります。

桁行七間、梁間四間、入母屋造・檜皮葺。御所の旧清涼殿を下賜されたと伝えられます。御本尊の釈迦如来像を安置します。

金堂

階段をのぼっていくと、

ぱあっと開けたエリアに出ました。

威風堂々とそびえるのが、金堂(本堂)です。七間四方・入母屋造・檜皮葺。

用明天皇の時代に百済より渡来し、天智天皇の御念持仏であったという弥勒菩薩像を本尊とします。三井寺創建の時、天武天皇が本尊として安置したといわれます。

もとの金堂は文禄4年(1595)豊臣秀吉の闕所令(廃絶令)により、比叡山延暦寺西塔のに移されました(現在の釈迦堂)。その後、秀吉の正妻・北政所により慶長4年(1599)に再建されたのが現在の三井寺金堂です。

三井の晩鐘

金堂前の鐘楼にかかる梵鐘は、近江八景の一つ「三井の晩鐘」として親しまれています。

特に音がよいとされ、平等院(姿の平等院)、高雄の神護寺(銘の神護寺)とならび、「音の三井寺」として有名です。

慶長7年(1602)、「弁慶の引き摺り鐘」に代わって鋳造されました。鐘の上部には百八の煩悩にちなんで百八の「乳」とよばれる突起があります。

鐘楼の中に入って、実際に突くことができます。長等山の中腹から大津の町に三井の晩鐘を鳴り響かせる…いい気分です。

閼伽井屋

金堂の西側に閼伽井屋があります。

天智・天武・持統三帝の産湯を汲んだことから御井寺=三井寺となったという、その霊水が今も湧き出ています。

覆屋の正面上部の蟇股に、左甚五郎作と伝わる龍の彫刻があります。

夜な夜な抜け出して琵琶湖で暴れまくるので、左甚五郎が目に五寸釘を打ち込んだところ、悪さをしなくなったと伝えられ、今も目のところに釘穴が残ります。

弁慶の引摺り鐘

弁慶の引摺り鐘。

昔、俵藤太秀郷が三上山の大ムカデ退治をした後、琵琶湖の龍神からお礼として賜ったものを三井寺に寄進したと伝えられます。

その後、比叡山延暦寺と三井寺が争った時、比叡山の悪僧・武蔵坊弁慶は、鐘を奪って延暦寺まで引き摺っていきました。すると「イノー、イノー」(家に帰りたい)といって鐘が鳴く。

弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいか」と、谷底に投げ捨てたと伝えられます。その時の引き摺り跡と思われる傷が残っています。

一切経蔵

高麗から渡来した一切経をおさめるために建てられた蔵です。

中には巨大な八角形の「輪蔵」があります。

細かく仕切られた一つ一つのボックスに、一巻ずつお経をおさめるのです。

宝形造・檜皮葺。一層の建物ですが、裳階(もこし)が張り出してるため、二層に見えます。慶長7年(1602)山口市の国清寺(現洞春寺)の一切経蔵を毛利輝元の寄進と伝わります。

唐院

参道より一段高く堀に囲まれたエリアが唐院です。四脚門・灌頂堂・唐門・大師堂・長日護摩堂(ちょうじつごまどう)などが並びます。

智証大師円珍が唐に渡り天安2年(858)に持ち帰った経文や仏具をおさめるため、清和天皇より宮中の仁寿殿(じじゅうでん)を下賜されたものです。三井寺でもっとも神聖な場所とされます。

微妙寺

さて三井寺には「三井寺五別所」とよばれる五つの別院(別所)があります。

水観寺(すいかんじ)・微妙寺(びみょうじ)・近松寺(ごんしょうじ)・尾蔵寺(びぞうじ)・常在寺(じょうざいじ)の五つです。

このうち尾蔵寺・常在寺は廃絶しました。現在、尾蔵寺跡は長等公園となっています。水観寺・微妙寺は三井寺の境内に移されています。近松寺のみは創建当時の場所にあり続けています。

微妙寺は正暦五年(994)開基。天智天皇の御念持仏と伝わる十一面観音を本尊とします。

厄除けの利益をもとめて往時には参拝客があふれました。あまりの繁盛っぷりに御本尊の笠が破れ、脱げるほどでした。それで「はづれ笠の観音さま」「笠ぬげ観音」と呼ばれました。

毘沙門堂

観音堂に向かう道すがら毘沙門堂。

宝形造・檜皮葺。三井寺五別所の一つ・尾蔵寺からこの地に移されました。近年、彩色が復元され、往時の華やかな姿がよみがえりました。

西国十四番札所 観音堂

これよりは南院です。長等山(ながらやま)の中腹・琵琶湖をのぞむ高台に観音堂を中心として、鐘楼、百体観音堂、観月舞台、絵馬堂、地蔵堂などの建物がたちならびます。

石段をのぼると。左に百体観音堂と観月舞台、

右に鐘楼が見えてきます。

展望台からの大津市内、琵琶湖の眺めが素晴らしいです。

観音堂は西国三十三所霊場の第十四番札所。

御本尊の如意輪観音菩薩像は智証大師手彫りと伝えられ33年に一度しか御開帳されない秘仏です。

水観寺

観音堂を後に、長い石段を下っていきます。

下りきったところに、水観寺(すいかんじ)。

三井寺五別所の一つ。長久元年(1028)志賀の大僧正・明尊の開基。薬師如来を本尊とします。明尊は平安三蹟の一人として名高い小野道風の孫にあたり、天台座主・三井寺長吏を歴任しました。

本堂は豊臣秀吉の闕所(廃絶)令の後、明暦元年(1655)に再建されました。現存する三井寺五別所の本堂でもっとも古く、県指定文化財に指定されています。

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