坂本を歩く(一) 日吉大社
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本日は比叡山の門前町・坂本を歩きます。穴太積みの石垣とたくさんの里坊跡(隠居した延暦寺の僧が住んだ僧坊の跡)が風情ある町並みをなしています。
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歴史ある日吉大社、西教寺…、琵琶湖の眺めもすばらしく、心が落ち着きます。
「若き日の 最澄」像
JR湖西線・比叡山坂本駅下車。
駅前の公園に「若き日の 最澄」像が立ちます。
伝教大師最澄といえば頭巾かぶってすましている姿がパッと浮かびますが、若い時はこんな感じだったんでしょうか。
すぐ駅の前が日吉大社の参道です。
道すがら右に見えてくるのが、公人(くにん)屋敷です。
公人屋敷
江戸時代、坂本の町は延暦寺の寺領でした。そのため幕府や大名からの支配は受けませんでしたが、延暦寺からの支配を受けました。年貢は延暦寺に支払い、町の行政は延暦寺に委ねるのです。
その時、延暦寺から派遣されて、坂本の町の行政指導に当たったり年貢を徴収する役目をになったのが公人(くにん)と呼ばれる人々です。
彼らは延暦寺の僧侶でありながら苗字帯刀を許されていました。
この屋敷は代々延暦寺の公人を務めた岡本家の屋敷が、平成13年、大津市に寄贈されたものです。
主屋(しゅおく)。屋敷の中心となる建物です。
公人屋敷 主屋
江戸時代後期の新築と推測され、公人屋敷の雰囲気を今に伝えます。晩年を坂本の町で過ごした横井金国による襖絵も、屋敷の風情を深めています。五月のことで、五月人形が展示してありました。
米倉。徴収した年貢を、蓄えたところです。
公人屋敷 米倉
厳しく取り立てたんでしょうか。それとも領民に優しかったのか。それはわかりませんが
穴太積みの石垣
公人屋敷を後に、日吉大社の参道を進んでいきます。京阪電鉄石山坂本線・坂本比叡山口を通り過ぎると、日吉大社のニの鳥居です。
日吉大社 ニの鳥居
いよいよ参道の雰囲気が出てきます。
穴太衆(あのうしゅう)積みの石垣。風情あります。
穴太積みの石垣
坂本の隣の穴太町にいた穴太衆という人々が積み上げたので穴太積み。特徴は、割石を使わず、自然石だけで、すきまは小石を詰め込んであります。
穴太積みの石垣
日吉大社参道だけでなく、坂本の町のいたる所で見られ、町のシンボルマークになっています。
側溝にざばざば水が流れているのも、癒やされます。
日吉大社の入り口(三の鳥居)に着きました。
日吉大社 三の鳥居
日吉大社は比叡山の東・大津市坂本にあります。約2100年前の崇神天皇7年の創建。古くは日枝社(ひえしゃ)といい、日枝(ひえ・ひよし)山王社、日枝山王権現ともいいます。全国3800余りの日吉神社・日枝神社・山王神社の総本社です。
祭神は比叡山の地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)と、天智天皇の大津京遷都(667)によって遷されてきた三輪山(大神神社)の大己貴神(おおなむちのかみ)。
広大な境内には21の摂社と多数の末社があり、摂社だけを数えて山王二十一社、摂社・末社あわせて山王百八社と称しました(ただし失われた末社もあるので現在は百八は無い)。
平安京遷都後は、平安京の表鬼門(東北)にあたることから王城鎮護・魔除け・方除けの神社としてことに信仰を集めました。
比叡山に延暦寺ができると延暦寺の鎮守の社となり、天台宗の護法神となり、神仏習合により「山王権現」として延暦寺と結びつきを強めていきました。
比叡山の僧兵が「強訴」といって都に繰り出す時には、日枝社の神輿をかついでいきました。歴代の天皇上皇もこれには逆らえず、やっかいなことでした。
元亀2年(1571)織田信長の焼き討ちによって、日枝舎の社殿・宝物もほとんどが焼失します。その後、豊臣氏の援助を受けて復興され、江戸幕府からも篤い庇護を受けました。
明治元年(1868年)神仏分離令により延暦寺と分離。明治4年(1871)、官幣大社とされ、第二次世界大戦後、日吉大社と改名されました。
大宮橋~山王鳥居
鳥居を越えて、元三大師を本尊とする求法寺を右手に見て進むと、
受付があり、ここから日吉大社に入っていきます。
まっすぐ進み、正面の大宮橋を渡ります。
日吉大社 大宮橋
大宮川
右手に見える走井(はしりい)橋・ニ宮(にのみや)橋とともに日吉三橋(ひよしさんきょう)とよばれ、豊臣秀吉の寄進です。
鬱蒼とした木々の合間に見えてきました。
山王鳥居です。
日吉大社 山王鳥居
ふつうの鳥居の上に三角の合掌組の柱が帽子のように乗ってますね。「合掌鳥居」ともよばれ、日吉大社独特のものです。神道と仏教が融合した、山王神道を形にしています。
「山王」とは?
日吉大社は「山王(さんのう)さん」「山王権現」とも呼ばれます。「山王」とは何でしょうか?それは日吉大社(日枝社)が比叡山延暦寺の鎮守の社とされたことと関係があります。比叡山延暦寺はインドの霊鷲山・中国の天台山になぞらえられます。
霊鷲山はお釈迦様が説法した山、天台山は中国天台宗発祥の地、いずれもありがたい、仏教の聖地です。
そして霊鷲山・天台山の鎮守の社を「山王」と言います。それで延暦寺の鎮守の社である日枝社で祀られている神々のことを「山王」と呼ぶようになったというわけです。
権現とは?
では「山王権現」の「権現」とは何でしょうか?仏の本質(本地)が、神の姿をして仮(「権」)に「現」れたものです。中身は大日如来なのだが、表面的には天照大神として現れるといった具合です。これを本地垂迹(ほんじすいじゃく)思想といいます。
日吉大社の場合、西本宮で祀られている大己貴神の本地は釈迦如来。東本宮で祀られている大山咋神の本地は薬師如来となります。
神の本地が仏であるという本地垂迹思想は平安時代から鎌倉時代にかけて発達していきました。まあいかにも日本人らしいごたまぜの考え方ですが、これによって仏教と神道の宗教戦争が起こらなかったわけで、なかなか優れたシステムだと思います。
神猿舎
参道右手に見えてきたのが神猿舎(まさるしゃ)です。
日吉大社の守り神である猿を飼ってあります。
「神猿」と書いて、まさる。「まさる」は「魔去る」「勝る」に通じることから縁起がいいのです。
なぜ日吉大社が猿と結びついたのか?
詳しいことはわかりません。
しかし日吉大社は背後に八王子山を負い、比叡山の麓でもありますので、古くから猿は親しい動物だったのでしょう。
平安京に都が遷ると、平安京の鬼門封じとして、日吉大社の猿の役割はいよいよ増しました。
日吉大社は平安京の表鬼門(東北)に当たりますので、悪霊や鬼といった悪いものが、入ってくる方角です。その「魔」を、猿の力によって、去る、というわけです。
京都御所の艮の鬼門には、猿が辻といって一部へこんだ部分があり、軒下に猿の像が安置されています。
見ず聞かず言わざる三つのさるよりも思はざるこそまさるなりけり
第18代天台座主慈恵大師良源が日枝社に奉納した七首の和歌に、「さる」という言葉を読み込み、処世術を述べました。これはその七首目です。
人の悪い面を見ない聞かない言わないのがよいと言うが、一番いいのはそもそも人の悪い面なんて考えないことだと。
西本宮
日吉大社の境内は広く、大小たくさんの社殿があります。それらは大きく西本宮(旧大宮)系と東本宮(旧ニ宮)系のグループに分かれています。
西本宮系は、天智天皇の大津京遷都の時、大和から遷されてきた神々で、東本宮はそれ以前から祀られていた神々です。
西本宮の楼門まで来ました。
日吉大社 西本宮楼門
楼門の屋根の四角に、それぞれ神猿(まさる)の彫刻があることに注目です。参拝者を見守ってくれています。
日吉大社 西本宮楼門 神猿
楼門をくぐります。正面に拝殿。奥に本殿。
日吉大社 西本宮 拝殿
日吉大社 西本宮 本殿
本殿の社殿は、正面と左右に庇がつく「日吉(ひえ)造」と呼ばれる独特のものです。別名を聖帝造(しょうたいづくり)といいます。現在の建物は天正15年(1586)の建造。
西本宮の主祭神である大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神は、天智天皇の大津京遷都翌年の668年、大津京の守り神として、大和の三輪山・大神(おおみわ)神社から勧請されました。
その時、大己貴神はまず琵琶湖にうかぶ漁船にあらわれ、唐崎の宇志丸(うしまる)という人に命じて、唐崎の地に社殿を立てて自分を祀らせた。その後、現在の日吉大社の場所に鎮座したと伝えられます(『耀天記』)
日吉大社の例祭、「山王祭(さんのうさい)」では、この大己貴神勧請の様子が再現されます。
本殿脇の桂の御神木が見事です。
日吉大社 西本宮 桂の御神木
宇佐宮
西本宮東の門から出て、すぐ東隣に鎮座しているのが摂社の宇佐宮(うさぐう)です。
宇佐宮 拝殿
宇佐宮 本殿
豊前(大分)の宇佐八幡宮から勧請したものです。本殿は東西本宮と同じく日吉造ですが、規模はやや小さいです。
白山姫神社
宇佐宮の東隣が白山姫(しらやまひめ)神社。
白山姫神社 拝殿
白山姫神社 本殿
加賀国(石川県)白山比咩(しらやまひめ)神社から勧請した菊理姫神(くくりひめのかみ)を祀ります。現在の社殿は慶長3(1598)の造営。
山宮遥拝所
宇佐宮・白山宮を後に、東本宮への山道を歩いていきます。
途中、左手に八王子山に登る石段と、その左右に小さな社があります。
日吉大社 奥宮二社の遥拝所
この社は奥宮二社の遥拝所です。なかなか奥の宮まで登るのは大変なので、ここから拝むわけです。
八王子山の上には牛尾宮・三宮2つの奥宮があり、それらにはさまれて、金大巌(こがねのおおいわ)という高さ10メートルの岩があります。日吉大社のはじまりの場所とされています。
3月から4月にかけて行われる山王祭りでは、ここから神輿を担いで下り、琵琶湖渡りをします。山王祭りは湖国三代祭(大津祭・山王祭・船幸祭)の一つに数えられています。
東本宮
東本宮楼門に着きました。
日吉大社 東本宮楼門
楼門をくぐると広い境内です。
日吉大社 東本宮境内
正面に東本宮本殿、
日吉大社 東本宮本殿
左に摂社の樹下宮、右のその樹下宮の拝殿があります。まずは東本宮本殿に参拝しましょう。
日吉大社東本宮は、この地にもともと鎮座した大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀ります。比叡山の山の神様です。
『古事記』には、「大年神(おおとしのかみ)と天知迦流美豆比売(あめちかるみづひめ)との間に生まれた神で、近江の国の「日枝(ひえ)の山に祀られた」とあります。
大年神(おおとしのかみ)といえば、お稲荷様として有名な宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の兄ですので、大山咋神はお稲荷様の甥に当たるわけです。しっかり拝んでいきましょう。
樹下宮
境内には他に摂社の樹下宮(じゅかのみや)とその拝殿があります。
樹下宮 拝殿
もう一度整理すると、
日吉大社の境内は西本宮系と東本宮系に分かれ、西本宮系には天智天皇の大津京遷都(667年)のときに勧請された大己貴神とその眷属が祀られ、東本宮系にはもともとの土地神である大山咋神とその眷属が祀られています。
新しく持ち込まれた大己貴神と、古くからの土地神であった大山咋神が、合わせ祀られているのが面白いです。こういうのが日本で宗教戦争が少なかった所以でしょうか。
猿の霊石
東本宮の参道脇には、大きな石が立っています。
東本宮 猿の霊石
正面の凹凸が座った猿に似ていることから、「猿の霊石」と呼ばれます。最後に振り返ると、「またおいでやす」と言っているように思えました。
山王二十一社、山王百八社
そのほか、境内には21の摂社と多数の末社があります。これを山王二十一社、山王百八社と称します。すばらしいことに、一社一社、紹介文が掲げてあります。これはいいですね。
説明があると、その神様のゆえんがわかるので、よいです。日吉大社では摂社末社に到るまで、大切にされているなァと思いました。