坂本を歩く(ニ)
本日は宇治であがた祭りがあるのです。夜11時から始まる幻の祭りです。今から行ってきます。ワクワクしています。
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本日は坂本を歩く(ニ)です。琵琶湖のほとり、比叡山延暦寺の門前町・坂本。全国の日吉神社・山王神社の総本社たる日吉大社、穴太積みの石垣、風情あふれる里坊の数々、琵琶湖の眺めもすばらしく、心が落ち着きます。
前回「坂本を歩く(一)日吉大社」からの続きです。
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旧竹林院
日吉大社のすぐ門前に、旧竹林院があります。ここも坂本の町に数ある、里坊跡の一つです。
旧竹林院
里坊とは延暦寺の僧が隠居後に与えられた隠居場所です。
旧竹林院
竹林院は明治初年に個人所有となりましたが、その後大津市に寄贈されました。池泉廻遊式の庭園があります。
旧竹林院 庭園
旧竹林院 庭園(二階から)
庭園は背後の八王子山を借景として築山と滝組を配し、四季折々の草花が楽しめます。
また大正時代に建てられた二棟の茶室と四阿(あずまや)が景色にアクセントを添えています。
旧竹林院 庭園
旧竹林院 四阿
この旧竹林院のほか、坂本には50もの延暦寺里坊があります。ほとんどは非公開ですが、5月の連休には交代で公開されます。また桜や紅葉の季節のみ公開している所などもあります。
旧竹林院を後に、県道47号線を北上します。途中、穴太積みの石垣と、琵琶湖の眺めが素晴らしいです!
徒歩20分。見えてきました。西教寺の総門です。
西教寺 総門
西教寺は聖徳太子により創建され、真盛上人により再興された天台真宗総本山です。織田信長の比叡山焼き討ちの時焼失しましたが、後に坂本城主・明智光秀が再建しました。その縁で、境内には明智光秀はじめ明智一族の墓があります。
総門は坂本城から移築したものです。
江戸時代の名僧・沢庵禅師が西教寺を訪れた時の詩です。
西教寺 沢庵禅師の詩碑
西方行者卜斯山
不断称名日夜閑
水鳥樹林皆念仏
見來安養在人間西方行者 斯(こ)の山を卜(ぼく)し
不断の称名 日夜 閑(しず)かなり
水鳥 樹林 皆 念仏す
見來たる 安養 人間に在るを
西方行者(真盛上人)がこの山に住まれてからというもの、
絶えることない称名の声が、昼も夜も閑かに続けられている。
水鳥も樹木も、皆、念仏しているようだ。
この寺に来て見ると、安住の地=極楽浄土が地上にあるように思える。
参道を上っていきます。
西教寺 参道
宗祖大師殿。
天台真宗宗祖・真盛上人の木造を安置します。
入口で振り返ると、琵琶湖と三上山がよく見えます。
ぽこんとした、お椀をひっくり返したような山が三上山です。いい形をしています。
さらに階段を登っていくと、
本堂です。
西教寺 本堂
ご本尊の木造阿弥陀如来坐像を安置します。紫香楽の浄福寺から移したものです。
芭蕉句碑
西教寺 芭蕉句碑
月さびよ 明智が妻の 話せむ
芭蕉が伊勢で又玄(そうげん)という人の家に泊まった時の句です。月よますます寂れて輝いてくれ。私はご夫婦と明智光秀の妻の話をしようと思うから。
「明智が妻の話」とは、明智光秀がまだ貧乏だった頃、連歌会を営もうとしたが、費用がなくて途方に暮れていた。それならばこれを費用になさい。妻凞子(ひろこ)はそう言って髪を切った。
なんとお前…明智光秀は妻の行いに心打たれ、50日のうちにお前を玉の輿に乗せてやるぞ。と言った。そしてその通りになった、という話です。
又玄の妻がまめまめしく夫に仕えているので、又玄の妻と明智光秀の妻を重ねて、話のネタにしたわけです。
聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像
西教寺 聖衆来迎阿弥陀如来二十五菩薩像
阿弥陀如来が二十五の菩薩をともなって来迎し、念仏を唱える人を極楽浄土に導くさまを石像に作ったものです。菩薩さんたちが思い思いの楽器を奏で、変化にとんでいます。
明智光秀と一族の墓
西教寺 明智光秀と一族の墓
元亀2年(1571)織田信長は比叡山延暦寺はじめ坂本の寺寺を焼き討ちにしました。ここ西教寺も燃えました。それを復興したのが坂本城主・明智光秀です。
以来、西教寺は明智一族と縁が深くなりました。早世した光秀の妻・凞子も西教寺に葬られています。
天正10年(1582)6月13日、山崎の合戦に破れた明智光秀は坂本に逃げていく途中、落ち武者狩りの農民の手にかかって命を落としました。
殺された場所は伏見の小栗栖とも醍醐とも山科とも伝わっています。本能寺で信長を討って、わずか11日目のことでした。
光秀の首は秀吉により粟田口にさらされましたが、後に西教寺に葬られました。
宗祖 真盛上人御廟
西教寺 宗祖 真盛上人御廟
天台真宗を開いた真盛上人の御廟です。境内はずれの高く長い石段の上にあります。
滋賀院門跡
西教寺からふたたび県道47号線を日吉大社前まで戻り、今度は日吉大社の参道の南側…二ノ鳥居に向かって左側を散策します。
またも穴太積みの雰囲気ある小路です。坂道のむこうに琵琶湖が見えているのが、気分高まります。
滋賀院門跡につきました。
滋賀院門跡
滋賀院門跡は延暦寺里坊の一つです。元和元年(1615)徳川家康の側近をつとめた南光坊天海が、後陽成天皇より京都法勝寺を賜って移築し、明暦元年(1655)後水尾天皇より滋賀院の号を受けました。
江戸時代には、天台座主をつとめた法親王が住まわれたので、滋賀院御殿とも言われました。狩野派の襖絵、小堀遠州作庭の庭園が名高いです。係の方が一つ一つの部屋を丁寧に解説してくれます。
庭に芭蕉の句碑
滋賀院門跡 芭蕉句碑
叡慮にて 賑ふ民の 庭竈
天子の思し召しによって、民は賑わい、家々では庭の竈を囲んで団らんしている。元禄元年(1688)初冬の作。仁徳天皇が高台に登って民の竈から煙が一つも立ち上っていないのを見て税金を三年間免除したところ、民の竈から煙が立ち上るようになったという話をふまえます。その時の仁徳天皇御製は、
高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり(新古今707)
では中に入ります。
滋賀院門跡 入り口
蹴鞠の庭。
滋賀院門跡 蹴鞠の庭
法親王さまは望んでご出家されるのではないんですね。政治上のことで三男坊、四男坊が若くして出家されわけです。そらストレスがたまります。そこでこういう所で遊んで、ストレス発散した…ということです。
庭園。
滋賀院門跡 庭園
小堀遠州作庭と伝えられます。鯉がヤケクソに多かったです。
勅使門。
滋賀院門跡 勅使門
門跡寺院ですからね。朝廷からの勅使をお迎えすることもあったのです。屋根がダメージを受けているところに、2017年の台風で酷いことになってしまいました。修繕には3000万円くらいかかるとのことです。
滋賀院門跡の隣が、天海僧正の像をまつる恵日院慈眼堂です。
慈眼堂
徳川・秀忠・家光三代に政治顧問として仕えた天海僧正の像を安置した廟です。三代将軍家光による建立です。天海僧正は織田信長によって焼き討ちされた延暦寺はじめ坂本の寺寺の復興につとめ、坂本の町には縁の深い人物です。慈眼大師天海といったので、慈眼堂というわけです。
慈眼堂
気は長く 勤めは固く 色薄く 食細うして 心広かれ
という天海僧正の歌は有名です。
天海僧正は100歳だか120歳まで生きたとか、明智光秀が山崎の合戦の後、殺されずに実は生き延びて、天海になった、などという話もあり、謎の多い人物です。
慈眼堂
廟の左側の高台には、江戸時代以降の歴代の天台座主の供養塔、
慈眼堂 歴代の天台座主の供養塔
桓武天皇、紫式部、和泉式部、清少納言らの供養塔。
慈眼堂 桓武天皇供養塔
慈眼堂 紫式部供養塔
その隣には、13体の阿弥陀如来石仏が並びます。
慈眼堂 阿弥陀如来石仏
滋賀県高島市にある鵜川四十八体仏のうち、十三体を天海僧正が移したものといいます。
慈眼堂 阿弥陀如来石仏
長年の風雪に表面が削られていますがおだやかな表情が見て取れます。
慈眼堂 阿弥陀如来石仏
日吉東照宮
最後に、日吉東照宮を訪ねます。
徳川家康に重く用いられた天海僧正が、日光東照宮の雛形として創建したという社です。
途中の道も両側が石垣になっていて、風情あります。
比叡山高等学校の生徒さんたちが、走り込みをしていました。
権現川を渡り、山道を登っていきます。日吉東照宮の前に来ました。比叡山高等学校の生徒さんが、箒でチリを掃いてました。ここですか日吉東照宮は?あっ、そうですよ。どうぞどうぞ…そんなやり取りが、ほのぼのした感じでした。
日吉東照宮
日吉東照宮は徳川家康に重く用いられた天海僧正が、日光東照宮の雛形として創建したと伝えられます。
日吉東照宮
だから日光東照宮とほぼ同じ形ですが、サイズは半分程度です。正面の唐門、社殿の周囲を囲む透塀(すかしべい)も見どころです。
日吉東照宮 透塀
本殿と拝殿を石の間でつなぐ、権現造です。関西の日光と呼ばれています。
日光にはあまり個人的な思い入れは無いので、東京の上野東照宮や根津神社のほうを思い出しますね…
高台にあるので、境内から琵琶湖が見渡せます。最高の景色でした。
本日は坂本を歩きました。穴太衆積みの石垣と里坊の数々が、独特の風情を醸し出します。歴史ある日吉大社、西教寺…、琵琶湖の眺めもすばらしく、心が落ち着きます。
次の旅「比叡山延暦寺を歩く」