浜松~三方ヶ原古戦場を歩く(一)

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本日は浜松に三方ヶ原古戦場を歩きます。

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三方ヶ原合戦とは

元亀3年(1572)10月。

武田信玄は2万5千の軍勢を率いて甲府を出発し、遠江に侵攻。天竜川を越えて浜松城に迫りました。浜松城主・徳川家康は籠城戦を覚悟するも、

武田軍は浜松城を完全無視して、北西の三方ヶ原台地に抜けていきます。


おのれ浜松城を無視するか。待てい!

家康は家臣の反対を押し切って、織田の援軍とあわせて1万9千を率いて出撃。

一方武田軍は三方ヶ原を突っ切り、三方ヶ原北の祝田(ほうだ)の坂で軍を休めていましたが、徳川軍が三方ヶ原を北上してくるや全軍を反転。12月22日夕刻。徳川軍に襲い掛かります。

もとより兵力は武田方が優勢。

徳川方はざんざんに打ち負かされ、徳川家康はほうほうの体で浜松城に逃げ帰ったという、

元亀3年(1572)歴史に名高い三方ヶ原合戦。本日はその舞台を歩きます。

静岡市内から、牧之原を通って浜松に至ります。牧之原は御茶畑多いです。特に新茶の季節でしたので、青々と目にまぶしかったです。「茶」という文字が茶畑の中に大きく大文字焼きみたいに書いてある所がありニヤリです。

まず向かったのが一言坂の戦跡です。一言坂の戦いは、三方ヶ原の戦いの前哨戦です。


元亀3年(1572)10月13日。

甲斐の武田信玄は遠江に侵攻。天竜川に迫っていました。

浜松城の徳川家康は武田軍を迎え討たんと軍勢を率いて天竜川を越え、本多忠勝(ほんだただかつ)・内藤信成(ないとうのぶなり)らを偵察隊として先行させます。

ところが。

本多忠勝ら徳川方偵察隊は、馬場信春ら武田方先行部隊と遭遇。これはまずいと刃を交えず撤退しますが、待ていと武田軍は追いかけてきて、三箇野川(みかのがわ)や一言坂で戦いが始まります。

数に劣る徳川軍は、浜松城への撤退をきめますが、その際、味方を逃がすため、しんがりを務めたのが本多平八郎忠勝でした。

本多平八郎忠勝
本多平八郎忠勝

「わが蜻蛉切りの武威、とくと受けよ」

ぶるんぶるん

振り回す大槍「蜻蛉切」。

「ぐぬぬ忠勝恐るべし。先回りするにしくはない」

武田方・小杉左近(こすぎ さこん)は先回りして一言坂の坂下から忠勝隊に鉄砲を撃ちかけますが、

「ぐぬう後ろから。かくなる上は」

どどどどどどどど

無謀な敵中突破をはかる本多忠勝。

「正気か!」

主君・徳川家康を守るため、死を賭して敵中突破をはかる本多忠勝の武勇に忠義に、心打たれた武田方・小杉左近は、戦わずに道を空け、本多を通しました。その時、本多がすれ違う小杉左近に名をきき、感謝を述べたとも伝えられます。

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(かしら)と本多平八」

小杉左近はそう言って、本多忠勝の武勇をたたえました。

本多忠勝の働きによって、家康は無事、浜松城まで撤退することができました。

国道一号線沿いに石碑がありますが、本来の一言坂はこのすぐ北にある坂道です。なるほど…このあたりで本多が蜻蛉切りをふるったでしょうか。


三方ヶ原合戦に至る武田軍の動き

一言坂の戦跡を後に、天竜川を渡り、二俣城めざして県道を北上していきます。


道すがら、三方ヶ原合戦に至る武田軍の動きを整理しておきます。


甲府から遠江に侵攻してきた武田軍は二俣城から天竜川沿いに南下。

浜北大橋のあたりで天竜川を越えて、姫街道を通って、浜松城に迫るも、浜松城を無視して浜松城西北の台地・三方ヶ原に進みます。

ここで徳川軍が怒って浜松城を出てくる。武田軍は三方ヶ原を通り抜けて、北方の祝田(ほうだ)の坂に逗留。


そこへ追いかけてきた徳川軍に対して一斉反転。三方ヶ原にて徳川軍を打ち破った、という流れです。

ちなみに私はずっと「三方ヶ原の戦い」と思ってましたが、地元の方は三方ッ原(みかたっぱら)の戦いと言ってました。

車の左の窓から三方ッ原台地の横ッ腹が堤防のように見えます。


大きなクジラが横たわっているようにも見えます。三方ヶ原に上ってしまうと広すぎてもうこの堤防感は味わえないので、今のうちにしっかり堤防感を味わっておきます。

ふたたび天竜川を渡ります。


このあたりで天竜川は大きくクランク状に蛇行しているので、さっき一度渡って、もう一度渡ることになったわけです。そして二俣の町中に入ります。


二俣でまず訪れたのが、岡崎次郎三郎(おかざきじろうさぶろう)信康(のぶやす)の菩提寺・浄土宗清龍寺です。


岡崎次郎三郎信康(松平信康)(1559-1579)。

徳川家康の嫡男。永禄2(1559)家康が今川家の人質になっていた頃の、駿府に生まれます。母築山御前は今川義元の姪にあたります。

桶狭間の合戦で今川義元が討たれると、信康は人質交換により岡崎城に入ります。

9歳で織田信長の娘徳姫(五徳)と結婚するも、これは複雑な家庭でした。

母は今川義元の姪。妻は今川を亡ぼした織田信長の娘。嫁姑の関係はしだいに悪くなり、夫婦仲も悪くなります。ついに徳姫は、父信長に対して12箇条の手紙を出し、その中で。

「築山御前が武田勝頼と内通しています」

それを受けて信長は。

「うぬぬ、けしからん」

信長は家康に対して、信康の切腹、築山御前の殺害を命じました。

かくして。

天正7年(1579)9月15日。信康は二俣城において、切腹させられました。21歳でした(『三河物語』)。

信長の手前、わが子と妻を殺さなければならなかった家康の心中、いかばかりだったでしょうか…。ただし信康が死ぬに至った経緯については諸説あり、よくわかっていません。

諏訪神社の左手に、坂道があります。苔むした石垣がいい感じです。ひんやりと涼しい。小鳥のさえずりも心地よい中、石畳の道を上っていくと、浄土宗清龍寺の山門です。




境内奥の石段をさらに登っていくと、


岡崎次郎三郎信康を祀った「信康廟(のぶやすびょう)」です。



四面を木の柵に囲まれたお堂の中に、五輪の塔があります。



お堂の手前には信康に殉死した人々を祀った塔があります。


すぐ隣が二俣小学校で、子供の元気な声が響いてきます。それが鳥のさえずりと溶けあって、いい感じです。二俣小学校といえば、本田宗一郎の母校として有名です。当時は二俣尋常小学校でした。本田宗一郎少年は、お昼の鐘を30分早くついて弁当を食べた早弁したという話が残っています。

二俣城跡

清龍寺を後に、二俣城跡に上ります。


二俣城は天竜川と二俣川が交差する要衝の地にありました。武田信玄と徳川家康の間で3年間にわたって(元亀3年(1572)~天正3年(1575))争奪戦が繰り広げられたことで知られます。

また、天正7年(1579)織田信長に疑いをかけられた岡崎次郎三郎信康(松平信康)…徳川家康の長男が、ここ二俣城にて自害させられたことでも知られます。


チキチキ、ホーホケキョ。鳥が鳴きしきり、いい雰囲気です。

石畳の道の右側に、天竜川の雄大な流れが見下ろせます。

本丸に出ました。


天守台に上ることができます。アスレチック感覚で、楽しいですね。



天守台の裏側は、すぐに天竜川です。本丸裏手の道を下りていくと、石垣の合間に二俣の街並みが見下ろせ、いい気分です。「まむしに注意」と書いてあるのが物騒ですね!


うっそうとした山道を下っていくと、


満々たる天竜川が見渡され、ざざーー木々の梢が風にゆれます。


山道を下りきると、天竜川の土手です。すごく深そう。


昼は浜松ですから、うなぎを食べました。


そして午後。

いよいよ三方ヶ原古戦場に向かいます。武田軍は南から北へ三方ヶ原を横切りましたが、我々は北から南へ攻めていきます。

次の旅「浜松~三方ヶ原古戦場を歩く(二)

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