長岡京跡を歩く

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本日は、長岡京跡を歩きます。

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長岡京は桓武天皇が延暦3年(784)に遷都し、延暦13年(794)平安京に遷都するまでの10年間、都が置かれていました。


ところが長岡京の発掘が始まったのは意外に新しく、昭和29年(1954)からです。それまではほとんど知られていない「幻の都」でした。

平城京から長岡京に遷都した理由も、わずか10年で平安京に遷都した理由も、いろいろな説はあるものの、本当のところはわかっていません。まだまだ長岡京は謎に包まれています。

奈良時代と平安時代をむすぶ架け橋として、これほど興味深い場所は無いと思います。今後の発掘・研究に期待しつつ、今日は長岡京を歩いていきます。

長岡京について

阪急京都線西向日(にしむこう)駅下車。



道すがら、ざっくりと長岡京の概要を頭に入れておきましょう。

長岡京は桓武天皇が延暦3年(784)11月11日に平城京から遷都し、延暦13年(794)10月22日、平安京に遷都するまでの10年間、都が置かれていました。

東西4.3キロ、南北5.3キロ。中央に朱雀大路が走り、朱雀大路の東が左京、西が右京。このへんの名称は平城京や平安京と同じです。

長岡京 条坊図
長岡京 条坊図

朱雀大路の果には長岡京の政治の中心部・長岡宮(ながおかきゅう)。長岡宮の中には役人たちが政治や儀式を行う朝堂院、朝堂院の北に天皇が政治を行う大極殿、朝堂院や大極殿の東に天皇の日常のおすまいである内裏がありました。

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着きました。

長岡京の中心部・長岡宮の朝堂院跡です。


南面回廊と楼閣跡

朝堂院の南面回廊と楼閣跡が石柱により示されています。


朝堂院は政務・儀式などが執り行われました。長岡京大内裏の中心的な施設です。建物の周囲は築地や回廊で囲まれていました。

長岡宮・朝堂院
長岡宮・朝堂院

南門から左右に鳥が羽を広げたように回廊がのびて、それぞれの回廊が南に折れて、その先の基壇の上に二階建ての楼閣がありました。

今立っているのは、南門に面して左側の楼閣のあたりです。

楼閣を伴う門は中国で「闕(けつ)」とよばれ、帝王の権威と人民への恩徳をあらわします。桓武天皇は自分の皇統の正当性を、中国長安城の「闕(けつ)」を模倣することにより、示したかったのでしょう。

なにしろ桓武天皇の父光仁天皇は久しぶりの天智系…天智天皇直系の天皇でした。その息子である桓武も、天智天皇直系です。だから、それまでの天武系の都である平城京からあらたに天智系の都を作るために遷都した…という説もあります。

また桓武天皇は母方が渡来人です。これは卑しい身分とされており、本来は即位できるはずではありませんでした。しかし光仁天皇の皇太子他戸親王(おさべのみこ)が失脚・死亡したため、桓武が即位することになったのです。

桓武天皇は母方の血筋が卑しいことを生涯気に病み、コンプレックスを抱いていました。だからこそ、ことさらに中国風を誇示し、権威づけようとしたのかもしれません。

朝堂院西第四堂

その先の開けたエリアには、朝堂院西第四堂跡(ちょうどういん にしだいよんどう)を示す盛り土があります。


長岡京の中心部・長岡宮には、北に天皇が政治を行う大極殿、南に役人たちが政治や儀式を執り行う朝堂院がありました。

朝堂院は中央に「朝廷」と呼ばれる庭があり、その左右に役人たちが列座する「朝堂」がそれぞれ四堂ずつ、計八堂配置されていました。

本来の朝堂院は役人たちが政治を議論して、決まったことを大極殿の天皇に報告するという役割でした。しかし長岡京の時代には政治は内裏で行われるようになり、もっぱら儀式を行う場所となったようです。

ペーパークラフト

公園案内所では、係の方が長岡京の発掘や歴史について詳しく教えてくださいました。また、おみやげに長岡宮のペーパークラフトをくれましたよ!


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非売品で、ここでしか手に入らないものです。これはいいですね。長岡京の仕組みを立体的に味わう楽しみがあります。

藤原京や平城京のペーパークラフトもあったら並べて遊べそうです。

なぜ平城京から長岡京に遷都したのか?

延暦3年(784)11月11日、平城京から長岡京に遷都しました。ところが遷都の年は記録されていますが、「なぜ遷されたか」という理由については「水陸の便ありて都を長岡に建つ」と当時の勅にあるばかりです。これではよくわかりません。

そこで色々な説が考えられています。

財政難の政府が、渡来系秦氏の財力を期待して、秦氏の根拠地である山背の地に遷都することにしたとか、

仏教勢力の根強い平城京と縁を切りたかったとか、

桓武天皇は天智天皇の孫である白壁王を父に持つ天智系の天皇なので、聖武天皇以来の天武系の都である平城京を去りたかったとか、

長岡京のある乙訓の地は桓武の母の実家で、桓武にとっては幼い頃過ごした懐かしい地であったなど、

どれも一理ありそうに思えます。

そんなことを考えならが3分も歩くと、もう大極殿跡に着きました。

さっきの朝堂院跡から300mほど北に位置します。

宝幢

大極殿正面に、宝幢(ほうとう)が復元されています。


宝幢とは、天皇の即位式と元旦の朝賀の時に大極殿の前に立てる旗飾りです。青龍・白虎・朱雀・玄武の四獣と、鳥・日・月の絵があしらわれた七本の宝幢が大極殿の前に立てられ、天皇の権威を示しました。

天皇の即位式と元旦の朝賀の時に…といいますが、長岡京では桓武天皇一代限りで天皇の即位はなかったので、元旦の朝賀でのみ、宝幢は使われたことになります。

大極殿

大極殿では天皇が政治を行いました。長岡宮の中でももっとも重要な場所です。


発掘調査で、難波宮から持ってきた屋根瓦が多数みつかりました。

桓武天皇の長岡京遷都は奈良の仏教勢力と関わりを断つために秘密裏に猛スピードで行われました。そのため建築資材も、平城京ではなくわざわざ難波宮から持ってきたと考えられています。

後殿

大極殿北側には後殿があります。


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後殿は天皇が大極殿にお出ましになる際の、休憩所と考えられています。

築地跡

また近くには長岡宮の築地跡があります。


築地とは土塁の上に柱を立てて、柱を芯として木枠で囲み、練土を入れて固め、屋根に瓦を葺いたものです。

寺院や御所に見られますが、古代の築地が残っているのは平城京や法隆寺、多賀城跡など限られており、極めて貴重であるということから、国の史跡に指定されています。

うーん…再現図を見てたら築地塀のペーパークラフトも作りたくなってきました。プラ版で組むのもいいかもしれません。というか築地塀の形した最中やバームクーヘンがお土産にあったら最高です。

築地跡を後に、向日神社に向かいます。向日神社はこのあたりの産土神で、祀られているのは向井神(ムカヒノカミ)・火雷神(ホノイカヅチノカミ)・玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)・神武天皇。「長岡」の名の由来と思われる岡の上にあります。

商店街に面した石の鳥居をくぐると長い石畳の参道が続きます。



うーんこの雰囲気。鎌倉の寿福寺を思い出しました。はるかに登っていくと、舞殿、幣殿、本殿とあります。




本殿は檜皮葺・三間社流造。室町時代の創建で、明治神宮の本殿のモデルとなったといいます。本殿の裏庭も、数ある摂社も、神々しい感じがあります。


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元稲荷古墳

向日神社境内には、古代の前方後方墳・元稲荷古墳があります。


3世紀後半に桂川流域を治めた王の古墳と見られています。


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ちゃんと上に登れます。長岡の丘陵の端にあるので、高い位置から景色が見渡せます。ここで埋葬されてるのはけっこういい気分かもと思いました。

男山をのぞむ

向日神社の脇の高台からの景色がいいです!


右手前に見えるのが明智光秀と羽柴秀吉が戦った天王山。奥に見えるのが石清水八幡宮のある男山。そして天王山と男山のはざまあたりに、後鳥羽上皇の水無瀬の離宮跡もあるはずです!胸にロマンがこみあげます!

乙訓寺

乙訓寺は真言宗豊山派長谷寺の末寺です。

推古天皇の頃の創設と伝えられ長岡京が都になったことに伴い繁栄しました。平安時代には弘法大師空海が別当となり、宇多法皇が行宮を置き、「法皇寺」と呼ばれました。しかし応仁の乱で衰退。今の伽藍は五代徳川綱吉の母・桂昌院が再建したものです。

境内には2000株の牡丹が植えられ、「牡丹の寺」として親しまれています。





早良親王の怨霊

また乙訓寺は桓武天皇の弟・早良親王が幽閉された寺として有名です。境内には早良親王の供養塔があります。


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藤原種継は桓武天皇の絶大な信頼を得て、長岡京造営を進めていました。

しかし。

延暦4年(785)9月23日、藤原種継は長岡京嶋町(現乙訓郡島坂)で工事現場を視察中、何者かが放った矢によって殺害されます。

種継を厚く信頼していた桓武天皇は、怒りにふるえます。

「おのれどこの誰が。
必ず犯人を見つけ出せ」

そこで藤原氏と権力争いを続けていた大伴氏に目がつけられ、
大伴継人(おおとものつぐひと)をはじめ数十人が捕縛されます。

継人は訴えました。

「犯行はすでに亡くなった大伴家持(おおともの やかもち)の指示です。
家持が、桓武天皇の弟早良親王の指示を受けてやったことです」

「なに家持が。許さぬ!」

桓武天皇はすぐに家持の墓をあばかせ、その官位を停止します。
『万葉集』の編者として知られる大伴家持ですが、政治的には不遇で
死後までもこのような辱めにあいました。

ようやく家持の罪が許され従三位の位が返されたのは
21年後の大同3年(806年)のことです。

一方、桓武天皇の弟早良親王は淡路島に流されることとなりました。

早良親王は乙訓寺に幽閉されると一切の飲食を拒み、
無実を訴え続けました。そして淡路へ護送される途中、
無念のうちに亡くなりました。

早良親王の屍はそのまま淡路に送られて埋葬されました。

早良親王の死後、桓武天皇の周りでは不幸が相次ぎます。桓武天皇の夫人旅子が没し、翌延暦8年桓武天皇の生母・高野新笠(たかののにいがさ)が没し、皇后乙牟漏(おとむろ)も没します。

加えて長岡および畿内で天然痘が流行し、多くの人の命を奪いました。伊勢神宮に泥棒が入り建物に放火しました。

ついで皇太子に立ったばかりの安殿(あて)親王、後の平城(へいぜい)天皇が心の病にかかってしまいます。

「やはり怨霊のしわざなのか。弟よ。お前は無実だったのだな…。
私のことを恨んでいるのか…」

桓武天皇は、淡路に勅旨を遣わし早良親王の霊を祭りました。そして早良親王に「崇道(すどう)天皇」の号を送りました。が、怨霊への恐れが消えることはありませんでした。

根本的に怨霊と関わりを断つには、遷都する必要がある。和気清麻呂の提案もあって、わずか10年で長岡京を後にすることになった…という話ですが。

遷都、という国家の命運を左右する大事業が、まさか天皇家の個人的な怨霊問題だけで行われるはずはないはずです。

もちろん早良親王の怨霊問題も理由の一つではあったと思いますが、長岡京は洪水が多かった、鼠の害が多かったなど遷都にはもっと実質的な理由もありました。

遷都の決定的な理由は現状「わからない」としか言いようがないです。今後の発掘調査に期待したいところです。

ところで長岡には菅原道真と在原業平がよく訪れて詩歌管弦の遊びに興じたと言われています。そうなんです。菅原道真と在原業平は同時代人。といっても業平のほうが20歳年上ですが。

なんか道真と業平が応天門の変の謎を解くといった漫画もありましたが…あながち荒唐無稽な話でもないわけです。

というわけで、最後に長岡天満宮を訪れます。延喜元年(901)菅原道真が大宰府に流される時、名残を惜しんだ家来が後に道真の木造を安置したことに始まる神社です。

八条池

長岡天満宮前には広大な八条池が広がります。

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室町時代に後陽成天皇の弟君・八条宮智仁(はちじょうのみや としひと)親王が灌漑用に作らせたものです。


池のほとりにはキリシマツツジが群生し、4月下旬には見事に花開きます。


古今伝授の間ゆかりの地

八条池のほとりに「古今伝授の間ゆかりの地」の碑が立ってます。

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八条宮智仁親王といえば、細川幽斉公(藤孝)から『古今和歌集』を伝授されたことで知られます。この歌はこうこうこういう意味ですよ。こうこうこういう解釈もありますね。見どころはこうこうです…などと、『古今和歌集』の全1100首あまりの歌について、一対一で伝授されたのです。

八条宮家は後の桂宮家です。

八条宮智仁親王が『古今和歌集』を伝授された建物は、もともと京都御所内にありましたが、二代智忠親王が建物を山城国乙訓郡の長岡天満宮境内に移し、明治初年にこれを細川家に賜り、大正元年、現在の熊本市水前寺公園正面に移しました。

熊本市水前寺公園内の「古今伝授の間」は、私は熊本出身ですので、子供の頃から親しんできた建物です。故郷熊本と、長岡京がくしくもつながっていることには感動をおぼえます。

というわけで本日は、長岡京跡を歩きました。

奈良時代と平安時代をむすぶ架け橋として、これほど興味深い場所は無いと思います。また、菅原道真や在原業平の昔に思いをはせながら歩いてみるのも、一興と思います。

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