天下分け目の天王山に登る
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本日は「天下分け目の天王山」として有名な天王山に登ります。
天王山は京都と大阪の境近くにある標高270メートルの小高い山です。古くから軍事上の要衝でした。天正10年(1582)明智光秀と羽柴秀吉の「山崎の合戦」は、天王山のふもとで戦われました。
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天王山山頂 山崎城跡
以後、天王山は、ここ一番の勝負ところをさす代名詞ともなりました。元治元年(1864)7月、久留米藩士真木和泉守以下17名と、新選組はじめとする幕府軍が天王山で戦い、真木和泉守以下17名は壮絶な切腹を遂げました。
登り口 山崎宗鑑 冷泉庵跡
東海道本線・山崎駅下車。
東海道本線・山崎駅
徒歩2分。天王山の登り口です。
天王山 登り口
山崎宗鑑 冷泉庵跡の碑が立ちます。
山崎宗鑑 冷泉庵跡
山崎宗鑑は戦国時代の連歌師・俳諧師。生没年・出自などは諸説あります。もと足利家家臣。主君の死により、世の無常を感じ、出家。各地を転々とした後、山崎に庵を結び、山崎宗鑑と呼ばれました。
近くの八幡宮社頭で連歌会の指導にあたり俳諧撰集『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』をあらわしました。その奔放な作風は後の俳諧にも影響を与えています。
天正10年(1582)6月2日、織田信長は本能寺で家臣明智光秀に討たれました。
羽柴秀吉は遠征先の備中高松で信長討たれるの報をきくや、すぐに交戦中の毛利と講和。軍勢を率いて中央に引き返します。「中国大返し」です。6月6日に出発して12日には京都の西南・山崎に入りました。
同12日、光秀軍も山崎に進み、天王山の東および北に布陣します。この日は小競り合いのみで、翌13日夕刻から本格的な合戦が行われました。
戦が始まってみると秀吉方は秀吉直属軍に加え、織田信孝隊、丹羽長秀隊、池田恒興隊…あわせて4万弱。
一方、明智光秀は信長を討った直後こそ2万の兵力を有していましたが、安土城や長浜城、坂本城の守りに兵力を割かれ、数を減らしていました。アッという間に切り崩されます。
「これは…かなわぬ」
光秀は御坊塚(ごぼうづか)の本陣を引き払い、山崎北東の勝竜寺城(しょうりゅうじじょう。長岡京市勝竜寺)に退きます。
そして夜になってから。
「近江坂本に退く」
夜中に、わずかな家来とともに逃げ出しますが、
途中。
「ありゃあ明智の残党だ!」
「うっひょーー」
ずば。どす。ずしゃ。
「く、くぬう…」
農民に殺されました。殺された場所は伏見の小栗栖とも醍醐とも山科とも伝わっています。本能寺で信長を討って、わずか11日目のことでした。
光秀の首は秀吉により京都粟田口にさらされました。
宝積寺
坂道を登っていきます。このへんはまだ住宅街って感じです。
右手に大念寺を見て、さらに登っていくと、見えてきました。
宝積寺です。大きく「聖武天皇勅願所」とあります。
宝積寺 仁王門
別名宝寺。社伝によると聖武天皇が行基に命じて建立させたと。その時、天皇は龍神から授かった「打出」および「小槌」を寺におさめたので、「宝寺」と呼ばれるようになりました。
宝積寺
山崎の合戦の時は秀吉が本陣を置いたと言われます。
本堂は本瓦葺の堂々とした建物です。御本尊の十一面観音菩薩が安置されます。
宝積寺 本堂
本堂左の小槌の宮には寺宝の「打出」と「小槌」、および大黒天像が、
宝積寺 小槌の宮
本堂右の閻魔堂には閻魔大王を中心に四体の眷属(司録菩薩、司令菩薩、倶生神(くしょうじん)、暗黒童子)の像が安置されています。
宝積寺 閻魔堂
参道右脇の三重塔は山崎の合戦に勝利した秀吉を記念して慶長9年(1604)建てられたと言われます。
宝積寺 三重塔
そのほか境内には秀吉の出世石があります。
宝積寺 秀吉の出世石
さっそうと指揮を取る秀吉の姿を妄想しながら、宝積寺を後にします。
このあたりから本格的な山道になります。
酒解(さかとけ)神社の一の鳥居が見えてきました。
酒解神社 一の鳥居
参道左手に「ひょうたん掛所」。
千成瓢箪は秀吉の旗印。瓢箪をかけることによって、山崎の合戦に勝利して天下人となった秀吉にあやかりましょうということです。
道すがら山崎の合戦の時、秀吉が旗印を掲げた旗立松。
その近くに旗立松展望台。
天王山 旗立松展望台
ここから山崎の合戦の舞台が一望できます。
東海道新幹線と名神高速道路がほぼ並行に走り、京滋(けいじ)バイパスがそれとクロスしています。真ん中にごしゃごしゃっとしてるのはダイハツの京都工場です。
「天下分け目の天王山」とよく言いますが、天王山で戦ったわけではなく、天王山の東側の湿地帯で戦いました。
道沿いに陶板画「山崎合戦図」が立っています。
陶板画「山崎合戦図」
今の景色と重ね合わせ、イメージをかきたてながら山道をさらに進むと、
十七烈士の墓
十七烈士の墓があります。
十七烈士の墓
文久3年(1863)8月18日、会津藩・薩摩藩などの公武合体派が京都御所でクーデターを起こし、長州派の公卿七人を追放しました。
長州派の公卿七人と三千人の長州藩士は国元に帰ることを余儀なくされました(七卿落ち)。直後に、藩主毛利敬親(もうり たかちか/よしちか)に謹慎処分が下ります。長州人の怒りは高まります。
翌元治元年(1864)6月5日、池田屋事件で長州の志士たちが多数、新選組に討たれます。
ここに至り、怒りをつのらせた長州人は軍勢を率いて京都に押し寄せます。当初の目的はあくまでも話し合いでした。藩主の免罪を求め攘夷の実行を迫ることが目的でした。しかしいざという時は武力行使もやむなしという構えでした。
福原越後の長州勢は伏見の長州藩邸に入り、ここから兵力を三手に分けて京を取り囲みます。
久坂玄瑞・真木和泉・益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)率いる300人余は山崎天王山に。福原越後ら三百人余は伏見に。来島又兵衛(きじままたべえ)・国司信濃(くにししなの)率いる600人余は嵯峨・天龍寺に、京を取り囲むように、それぞれ布陣しました。
6月19日早朝。先発した国司信濃・来島又兵衛・福原越後の率いる部隊が、禁裏を守る会津藩兵と蛤御門で激突。禁門の変が勃発しました。
長州勢は肥前藩兵の守る中立売御門を突破し、禁裏内に乱入しますが、やがて乾門を守る薩摩藩兵が救援にかけつけると形成は逆転。長州勢は山崎方面へと撤退していきます。
その撤退戦を指揮したのが久留米藩士・真木和泉守です。
「真木和泉はここ天王山にて討死の覚悟である。志を同じくする者は残って運命を共にせよ。そうでない者はこれより馬関に落ち延び、反撃の準備をせよ」
一方、幕府方は
「一気に攻め落とせーーーッ!!」
天王山の山道を駆け上がる新選組隊士たち。
「新選組に先を越されるなーーーッ!!」
後に続く薩摩藩兵・会津藩兵。
天王山の山頂付近で、真木和泉守以下17名と、会津藩兵・新選組とで鉄砲の撃ち合いになります。
火薬の煙が立ち込め、空中で弾と、弾がぶつかりあうほどの勢いの中、乱戦は小一時間にも及びますが、やがて、真木和泉以下決死隊17名は弾を撃ち尽くすと、陣小屋の中に駆け込み、火薬をしかけ、ドン、ドンドンドンドン…ゴオーーー…燃え盛る炎の中で、全員切腹して果てました。
その、真木和泉守以下十七烈士の墓がこれです。
酒解(さかとけ)神社に来ました。
酒解神社
酒解神社は古くは山崎社といい、奈良時代の創建とみられます。かつては天王山のふもとにあったようですが、離宮八幡宮の勢力がしだいに強くなってくると山崎山=天王山の山上に追いやられます。
その名も山崎社から天王社となり、山も天王山と呼ばれるようになりました。明治に入って酒解神社の名で呼ばれるようになりました。
本殿左手に立つ神輿庫(しんよこ)は、鎌倉時代のものです。厚い板を重ねて温度を保つ、「板倉」とよばれる珍しい形式です。
山崎城跡
天王山山頂には山崎城跡があります。
天王山山頂 山崎城跡
天正10年(1582)6月13日、山崎の合戦で明智光秀を破った羽柴秀吉は、信長家臣団の中でトップに躍り出ます。
それを警戒する声もありました。「秀吉の好きにはさせぬ」もっとも目を光らせていたのが、柴田勝家です。
6月27日の清州会議では、秀吉は柴田勝家に長浜城を譲るはめになりました。かわりに山城国を手に入れました。
そこで秀吉は、山城国天王山に新たな城を築きます。山崎城です。石垣をめぐらし、天主まで建てた立派な城でした。
山崎城跡
「こんなのは許せん。清州会議違反である」
柴田勝家が難癖をつけてきました。ここから、柴田勝家・羽柴秀吉の関係はさらに悪化し、天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦へとつながります。
賤ヶ岳の合戦で柴田勝家を破った羽柴秀吉は天下人としての地盤を固めるため大阪城の築城に取りかかります。不要になった山崎城は天正12年(1584)12月、取り壊されました。わずか2年の短命な城でしたが、石垣や、礎石が今も残り往時をしのぶことができます。
山道を下りきったところに、
小倉(おぐら)神社があります。
小倉神社
養老2年(718)創建。平安京遷都の時、平安京の裏鬼門に当たることから、鬼門除けとして祈願されました。
天正10年(1582)山崎の合戦の時は羽柴秀吉が家臣を遣わして戦勝祈願をさせています。
久保川の清流沿いにある神社です。常に水音が響き、澄んだ空気に満ちています。
小倉神社
御神木の樹齢600年の籾と杉の大木が、見事です。
本日は天王山に登りました。明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の合戦の昔に思いをはせながら、鳥の声や美しい景色に癒やされながら、歩いてみるのはいかがでしょうか。
次の旅「大原野を歩く~西行法師出家の勝持寺など」