落合を歩く

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本日は東京・落合に林芙美子記念館・中村彝アトリエ記念館・佐伯祐三アトリエ記念館を訪ねます。

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林芙美子記念館

まずは林芙美子記念館を訪ねます。昭和の女流作家・林芙美子が昭和16年(1941)から昭和26(1951)亡くなるまで10年間住んでいた家です。

西武新宿線中井駅で降りて、山手通りの高架線をくぐって、住宅街の中をひたすら歩いていきます。



一の坂通り、二の坂通り、三の坂通りと通り越して、次の四の坂通りに林芙美子記念館の入口があります。



竹林に囲まれて、きっきっきっきと鳥の声が響き、都会の真ん中でありながら深山幽谷の雰囲気があります。中は大きく生活棟とアトリエ棟に分かれ広々としています。


「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」

林芙美子(1903-1951)

明治36年(1903)、下関、もしくは門司の貧しい行商人の子として生まれました。出身地は下関と言われていましたが、最近は門司説が出ています。

子供時代は養父と母に連れられて九州各地を行商して点々としていました。大正5年(1916)13歳の時、一家が尾道に引っ越して、芙美子は女学校に入ります。

大正11(1922)19歳の時、男の後を追って、上京しますが、右も左もわからない、東京にまったくツテが無い状態で貧乏生活が、どん底生活が続きます。

セルロイド工場やカフェの女給をやったり、露店商をやって食いつなぎました。その貧乏生活の中から、にじみ出てきた庶民感覚を元に小説を書きます。昭和4(1925)第一詩集「あおうまを見たり」を刊行。翌昭和5年「年小説『放浪記』を発表します。

私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。

更けゆく秋の夜 旅の空の
侘しき思いに 一人なやむ
恋しや古里 なつかし父母

私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと伝うので、鹿児島を追放されて父と落ち着き場所を求めたところは、山口県の下関と伝う処であった。私が生まれたのはその下関の町である。

…故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋しや古里の歌を、随分侘しい気持ちで習ったものであった。

林芙美子『放浪記』


大都会の片隅で自由にたくましく女性の姿が共感をもって受け入れられ、大ヒットとなります。以後、次々と作品を発表し、一躍人気作家となりました。

林芙美子はたいへんな苦労人ですから、底辺から這い上がった人ですから、そういう人が家建てると、たいがい成金趣味な、ゴテーゴテした感じになるじゃないですか。しかし、そうではない。実に素朴な、派手でない、飾ってあるものも有名人の絵とかじゃなく、無名でも本当に自分の趣味にあったものを飾っています。人柄が出ているなあと思います。

日中戦争・太平洋戦争と軍靴が高まる中、林芙美子も毎日新聞特派員として、ついで陸軍報道部として戦地に赴き、南方戦線の様子などを本国に伝えました。戦後、軍国主義がしずまると、ふたたび芙美子には原稿の依頼が増えてきます。落合の自宅で執筆活動に専念。昭和26年(1951)心臓麻痺で、帰らぬ人となりました。47歳でした。

次は林芙美子が女学生時代を過ごした尾道に行ってみたくなりました。一つの旅が次なる旅のきっかけとなる、素晴らしいことです。

JR目白駅から徒歩10分。住宅街の中に、中村彝(つね)のアトリエ記念館があります。


学習院大学の西門から歩いて10分くらいです。こんな近くにそういうものがあるなんて、学生時代は知りませんでした。歩いてみるもんですね。

大丸ピーコックの横の道から住宅街の中に入っていきます。見えてきました。中村彝の記念館です。屋根がまたメルヘンチックですね。ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家みたいです。


中村彝は明治末から大正にかけて生きた画家です。セザンヌ・レンブラント・ゴッホの影響を受けた印象派の味の入った、思い切った明るい色づかいに特徴があります。

まず彝っていう漢字がすごいじゃないですか。これ、読めますか?そもそもどういう時に使う漢字なのか。調べてみたら、音読みは「イ」であり、「人の常に守るべき道」という意味があるらしいです。

アトリエの中に入ります。

北側に大きな採光窓と天窓があって、ああとても明るい感じです。漆喰と明るく鈍い緑色の腰壁が、とても落ち着いた感じを醸し出しています。中には代表作のエロシェンコ氏の像と、中村彝の生涯を解説したビデオが上映されています。

中村彝は明治20年(1887)茨城の水戸に生まれ、幼くして父がついで母が亡くなったため、兄をたよって上京。はじめ軍人を目指していましたが、17歳の時に肺結核にかかり、断念せざるを得なくなります。

それで、療養のために転地して千葉の港の風景を写生していました。そのころから、あっこれ、いいじゃないか、ということで、画家を目指すようになりました。

明治42年(1909)に文展に初入選。明治44(1911)、新宿中村屋を営む相馬愛蔵・黒光夫婦のご厚意により中村屋裏手に自宅兼アトリエをもうけて住んでいました。しかし、中村夫婦の娘・俊子と恋仲になり、気まずくなり、

ここ落合に自宅兼アトリエを築いて住むようになりました。以後、中村彝は創作活動に励みますが、肺結核は悪化し、大正13年(1924)37歳の若さで亡くなりました。

佐伯祐三アトリエ記念館

次に、大正時代の西洋画科・佐伯祐三のアトリエ兼自宅である「佐伯祐三アトリエ記念館」を訪ねます。


目白通りから住宅街に入り、うねうね曲がりくねった道を歩いていきます。ぜんぜん見つかりません!非常に、行きにくいです。地図を見ても、住宅街のブロックの中央で、どこが入口かサッパリわかりません。細くまがりくねった道を、時々あらわれる案内板をたよりに歩いていくと…見えてきました。佐伯祐三アトリエ記念館です。


目の前に三角屋根の白亜のアトリエが建っています。巨大な百葉箱みたいです。窓がおっきいです!

佐伯祐三。

明治31年(1898)大阪の浄土真宗の寺に生まれます。大正6年(1917)上京し、翌大正7年東京美術学校に入学。大正12(1923)パリ留学中にフォービズムの巨匠ブラマンクにたいへんな影響を受け、その手法を日本に持ち帰って、日本の景色を西洋画風の描き方で再現することに取り組みました。

このアトリエ兼自宅は大正10年(1921)に建てられました。当時の落合は武蔵野面影の残る雑木林のある住宅地でした。創作するにはいい雰囲気だったでしょう。もっとも本人は4年くらいしか住んでないですが。


昭和2年(1927)ふたたびパリに心惹かれ、奥さんとお子さんと共に旅立ちますが、留学中、結核が悪化し帰らぬ人となりました。30歳でした。

その後、帰国した妻・米子が昭和47年(1972)までここに住んだ、ということです。

私はこの佐伯祐三のアトリエ、学習院大学の学生のころに一度来たことがあるんですけども、そのころは建物があるだけで、中には入れませんでした。しかし、平成22年に記念館としてリニューアルされ中に入れるようになっていました。

中には佐伯祐三に関する展示物がありビデオが上映されており佐伯祐三の生涯について知ることができます。

庭にはすごく蚊が多くて、軽く危機感をおぼえました。蚊を駆除する業者が来ていました。

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