大垣を歩く

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本日は大垣を歩きます。

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大垣は戸田氏10万石の城下町・西美濃の中心地・東西交通の要衝として栄えました。古くから「水の都」とよばれ、今も町のあちこちに湧き水が湧いています。

市内を縦横に流れる水門川(すいもんがわ)の掘割が、城下町の風情を伝えます。戦国時代には関ヶ原合戦の直前に、石田三成が大垣城に入りました。松尾芭蕉『おくのほそ道』結びの地としても有名です。

大垣駅南口から東に徒歩3分。

水門川にかかった橋をわたり、愛宕神社を左に見て右折。

以後、水門川沿いに歩いていきます。

岐阜町道標。

高さ3メートル余の常夜灯です。文政5年(1882)石工の中谷甚平が、美濃路を旅する旅人の案内として設置しました。

掘抜井戸発祥の地。

天明2年(1782)岐阜町のこんにゃく屋文七が、川端に2メートルの穴を掘り、そこに5メートルの木材を打ち込み、引き抜いた後、節を抜いた竹を差し込んで、湧き水井戸を作りました。今も大垣の町にはあちこち湧き水が湧いています。

やがて水門川は右(西)に折れます。左に貴船神社を見ながら、川沿の道を進みます。

貴船橋~大垣藩校敬教堂跡

道すがら、松尾芭蕉の『おくのほそ道』の碑が立っています。

田一枚植えて立ち去る柳かな

夏草や兵どもが夢の跡

蚤虱馬の尿する枕元

大垣藩校敬教堂跡。

第八代大垣藩主・戸田氏庸(とだ うじつね)が天保11年(1840)藩士の師弟を教育するためにつくった藩校の跡です。後に到道館、敬教堂、学館と改名されました。

第十代氏彬(うじあきら)の時、孔子像を祀る大成殿をもうけ、その雪よけとしてトネリコの木を植えたといいます。

大垣はもとは大井荘とよばれ、奈良の東大寺の荘園でした。後醍醐天皇の御代、東大寺鎮守の手向山八幡宮を勧請したのが、この八幡神社です。

江戸時代のはじめに大垣藩主・戸田氏鉄(とだ うじかね)により再建・整備され、以後江戸時代を通じて信仰を集めました。

圓通寺

八幡神社を後に水門川沿いの道を南に歩いていきます。右に、

圓通寺。

江戸時代の大垣城主・戸田氏の菩提寺です。もとは近江膳所ケ崎で創建され、戸田氏の国替えにともなって、尼崎→大垣と移ってきました。

山門は木造本瓦葺。戸田氏が尼崎から国替えになるときに移したもので、天保年間(1830-44)の再建です。無骨な屋根とシャチホコが青空をバックに映えます。

水門川を南に付きあたりまで進みます。

水門川沿いに四季の広場という広場が整備され、虹の橋という橋がかかっています。いよいよ水の都の風情が出てきました。

全昌寺。

初代大垣藩主戸田氏鉄の妻・大誓院が建立した曹洞宗の寺院です。幕末の大垣藩家老・小原鉄心(おはら てっしん)、鉄心と交友した第25住寺・鴻雪爪(おおとりせっそう)の墓、元新選組隊士市村辰之助、鉄之助兄弟の墓があります。

市村兄弟はともに大垣藩士で新選組に入隊しました。兄辰之助は後に脱走し大垣に帰藩。弟鉄之助は土方歳三にしたがって函館まで戦い抜き、明治6年、大垣で病死しました。

奥の細道むすびの地記念館

さらに水門川を進んでいくと、奥の細道むすびの地記念館が見えてきました。

松尾芭蕉『おくのほそ道』を追体験できる「芭蕉館」、大垣の先賢について展示した「先賢館」があります。

館内で上映されている『おくのほそ道』のハイビジョン映像を作る際に、私がパナソニックのスタッフさんに『おくのほそ道』の社内講習をやったんですよ。人前でしゃべるのはほぼ初めてだったので、緊張しました。

記念館の隣に、無何有荘 大醒榭(むかゆうそう たいせいしゃ)。

幕末の大垣藩家老・小原鉄心(おはら てっしん)が安政3年(1856)大垣城下の杉村に建てた別荘「無何有荘(むかゆうそう)」の建物の一つです。

和風に中国風を取り入れた設計で、茶室・湯殿・水屋・厠の四室からなります。南側の衝立は「ギヤマン」と呼ばれる色ガラスがはめこまれて珍しいものです。

奥の細道むすびの地

元禄2年(1689)3月27日、松尾芭蕉は江戸深川を出発し『おくのほそ道』の旅に出ました。奥羽・北陸を経て、ここ美濃の大垣に到着したのが同年9月3日です。

その後、芭蕉は大垣の俳人たちと歌仙を巻き、交流します。

9月6日、芭蕉は伊勢神宮の式年遷宮を拝むため、谷木因・近藤如行ら大垣の俳人たちに見送られ、水門川の船町(ふなまち)港から桑名まで、舟に乗って下っていきました。

蛤のふたみに別行秋ぞ

船町港は江戸時代から明治時代にかけて大垣城下と桑名を結ぶ水門川の川港として栄えました。

住吉燈台は船町港の標識と夜間の目印として天保11年(1840)に造営されたといいます。

高さ8メートルの寄棟造で、最上部の部屋に灯りをともし周囲を照らしました。その当時の風情を思うと、味わい深いものがあります。

大垣城

大垣城に向かいます。大垣の町の中央に大垣公園があり、その東北の隅にあるのが大垣城です。

創建

大垣城は天文4年(1535)宮川安定(みやがわ やすさだ)による築城。ほかに明応9年(1500)竹腰尚綱(たけこし ひさつな)築城という説も。はじめは堀と土居を築き本丸と二の丸だけの小さな砦でした。城主氏家直元(うじいえ なおもと)の時、土塁を高くし、堀を深くし、三の丸・松の丸を拡張しました。

天守は慶長元年(1596)、城主伊藤佑盛による創建。この時は石垣の上にそびえる三階建ての天守でした。

関ヶ原合戦における大垣城

慶長5年(1600)8月10日、城主伊藤盛正の時、石田三成が大垣城に入ります。城主伊藤盛正は西軍に味方していたので、大垣城を明渡し、大垣城南方の今村に移りました。

それに先立つ7月19日、上方で三成背くの報が江戸の徳川家康のもとに届いていました。しかし家康は意に介さず、下野古河から小山まで進みました。が、

再度、三成が味方を集めている報告が届くと、家康は石田三成討伐のため諸将を西へ向かわせます。

家康自身は江戸に戻り、じゅうぶんに準備を整えてから9月1日、江戸を出発しました。東海道沿いの国々を通過しながら、9月13日、美濃に入り、大垣城北西の赤坂に布陣します。

家康ははじめ、大垣城を水攻めにしようと考えていました。しかし軍議の結果、大垣城の石田三成は無視して、三成の居城である佐和山城、さらにその先の大坂城を攻めようということになりました(諸説あり)。

三成はあわてて大垣城を出て、翌9月15日、天下分け目の関ヶ原合戦が戦われました。

関ヶ原合戦後、大垣城は一週間東軍の攻撃に耐えましたが、城内に裏切りが続出し、9月23日、落城しました。

戸田氏入城

関ヶ原合戦の後、大垣城主は石川三代、松平二代、岡部二代、松平一代と移り変わります。その間、元和六年(1620)松平忠良の改築により、天守は四層四階総塗籠様式に生まれ変わりました。

堀は永禄4年(1561)城主氏家直元が城の四方に堀をめぐらし(内堀)、慶長18年(1613)城主石川忠総が、市内を流れる水門川(すいもんがわ)を中心に、総堀(=外堀)を整えました。ここに本丸・二の丸・三の丸を囲む内堀と、広く城下町を囲む総堀が完成しました。

寛永12年(1635)摂津尼崎より戸田氏鉄(とだ うじかね)が城主として入ります。以後大垣城は戸田氏十一代、十万石の居城として、明治維新まで続きました。

昭和20年の空襲で焼けてしまいましたが、昭和34年(1959)往時の姿に再建され、現在に至るまで大垣市のシンボルであり続けています。

おあむ物語

関ヶ原合戦の後の大垣城包囲戦に際して、物語が伝わっています。

少女おあんは父山田去暦とともに大垣城に籠城していました。落城の不安がつのる中、東軍から大垣城内に矢文が届きます。「山田去暦は家康公の御手習いの師匠であるので逃がす」と。そこでおあんは父母とともに堀の近くの松のところから、堀にたらい舟を浮かべて逃がれたという話です。その松を誰言うともなく「おあんの松」というようになりました。

『おあむ物語』の原文で読みます。年老いたおあんが、大垣城脱出のことを子供時代の思い出として語っているという設定です。

城は翌日中攻め落とさるるとて、皆々力を落として我等も明日は失はれ候はんと心細くなっておじゃった。親父ひそかに天守へ参られて、此方へ来いとて、母人・我等をもつれて、北の堀脇より梯子を懸けて、つり縄にて下へつり下げ、さて盥に乗りて堀を向うへ渉りておじゃった。その人数は親達二人、わらはとおとな四人ばかり、その外家来はそのままにておじゃった。

今回は大垣を歩きました。水門川の掘割に城下町の風情が漂います。石田三成や大垣藩主の戸田氏、松尾芭蕉の昔に思いをはせながら歩いてみるのはいかがでしょうか。

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