関ヶ原古戦場を歩く(一)松平忠吉・井伊直政 陣跡~徳川家康 最後 陣跡

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本日から三日間にわたって、関ヶ原古戦場を歩きます。現在、関ヶ原には東軍・西軍の各部隊の陣地跡に石碑が立ち、のぼりが翻り、案内板などもとても親切でわかりやすいです。歩きながら関ヶ原合戦について学ぶことができます。

関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原

JR東海道本線関ヶ原駅下車。

JR東海道本線関ヶ原駅

関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原

駅前に「関ヶ原駅前観光交流館 いざ!関ヶ原」があります。関ヶ原の地図がもらえます。地図に記された番号順にまわれば、関ヶ原の合戦を追体験できるようになっています。また、特に景色の綺麗な場所を選んでルートを設定してあるようなので、地図はぜひもらっていきましょう。

関ヶ原の合戦は慶長5年(1600)9月15日、美濃関ヶ原で、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍の間で戦われた合戦です。

徳川家康像
徳川家康像(静岡市葵区駿府城公園)

石田三成像
石田三成像(滋賀県彦根市龍潭寺)

慶長3年(1598)豊臣秀吉が死ぬと、秀吉の家臣のうち五大老・五奉行が政務を代行しますが、やがて五大老筆頭・徳川家康が力を伸ばしていきます。

大名家同士の婚姻を禁ずるという秀吉生前の決まりに家康は公然と背いて、伊達正宗や福島正則といった大名家と政略結婚をすすめていきました。

こうしたことが重なり、五奉行と家康の対立が深まります。ことに五奉行筆頭・石田三成は家康への反感をあらわにしました。

慶長5年(1600)5月、五大老の一人・上杉景勝について不穏な噂が流れました。上杉景勝が会津領内で城郭を整備し兵糧を蓄え武器を調達している。これは謀反を企てているのだと。そこで家康は上杉景勝に命じます。すぐに上洛し、弁明せよと。

上杉景勝はしかし。重臣直江兼続の意見を容れて、家康の要求をキッパリ断りました。

家康は5月末に上杉討伐の軍をおこしました。

すると畿内に家康がいない留守を狙って、佐和山城に逼塞していた石田三成が挙兵します。

佐和山城阯
佐和山城阯

当初は石田三成と越前敦賀城主・大谷吉継ふたりだけの挙兵でしたが、毛利家重臣・安国寺恵瓊を通して、五大老の毛利輝元・宇喜多秀家をかつぎ、五奉行の長束正家(なつか まさいえ)・増田長盛(ました ながもり)・前田玄以(まえだ げんい)をも巻き込んでの挙兵となりました。

8月1日、伏見城を落とし、8月11日、大垣城に入ります。

大垣城
大垣城

石田三成挙兵。

その知らせを受けた家康は上杉討伐を切り上げ、下野小山から江戸に引き返します。9月1日、江戸を出発。13日、美濃に入りました。

翌9月14日。

家康は全軍を西へ進め、大垣城西北の赤坂に布陣。軍議の結果、石田三成のいる大垣城には構わず、このまま西へ向かい三成の居城・佐和山城、さらにその先の大坂城を攻めようということになりました。

しかも家康はこの情報を故意に西軍方に流したようです。

「敵の狙いは佐和山城、さらに大坂城だと!こうしてはおれぬ!」

大垣城では軍議の結果、先回りして関ヶ原で東軍を迎え撃とうということになりました。

14日午後7時、三成は関ヶ原で家康を食い止めようと、雨の中、大垣城から4万の軍勢を率いて出発。大垣城から南宮山南側の牧田路を通って、関ヶ原まで16キロを進みました。

夜半過ぎ、家康は三成が大垣城を出た報告を受けると、東軍諸将に関ヶ原への進撃を命令。

15日午前1時、西軍主力部隊が関ヶ原に到着。

15日午前5時。東軍先鋒部隊が関ヶ原に到着。午前7時。東軍、関ヶ原に布陣を完了。家康自身は関ヶ原を西に見下ろす桃配山(ももくばりやま)に本陣を置きました。

あたり一面、濃い霧が立ち込めていました。

関ヶ原盆地中央に布陣する東軍に対し、関ヶ原西口・笹尾山に三成本隊。松尾山に小早川秀秋隊。関ヶ原東口の南宮山に毛利勢。

関ヶ原布陣図
関ヶ原布陣図

明治政府が招聘したドイツの陸軍参謀メッケルが関ヶ原合戦の布陣図を見て「西軍が敗れることは絶対にありえない」と断言したのは有名な話です。

東軍7万4千。西軍8万4千。

午前8時。うっすらと霧が晴れる中、東軍方・福島正則隊と井伊直政隊の味方同士の先陣争いから戦いは始まります。

しかし西軍の多くは事前に家康に調略されて東軍への寝返りを約束していました。南宮山の吉川広家や、松屋山の小早川秀秋などは西軍方でありながら家康から調略を受けており、一切動きませんでした。

戦いは一進一退しましたが、正午過ぎ。松尾山に陣する西軍方・小早川秀秋が東軍方に寝返り西軍最右翼・大谷吉継隊に襲いかかります。以後、西軍方は次々と切り崩され、総崩れとなりました。天下分け目の合戦はわずか6時間で終わりました。3日後の9月18日、石田三成の居城・佐和山城が攻め落とされます。

石田三成は伊吹山の山中を逃げていきましたが、近江古橋村で捕らえられ、別に捕らえられた安国寺恵瓊・小西行長とともに、京都六条河原で処刑されました。

伊吹山
伊吹山

関ヶ原の合戦の勝利により、家康は天下の実権を握り、三年後の慶長8年(1603)征夷大将軍に就任。以後260年続く江戸幕府の礎が築かれました。

松尾山から関ヶ原を一望
松尾山から関ヶ原を一望

松平忠吉・井伊直政 陣跡

松平忠吉・井伊直政 陣跡

松平忠吉は家康の四男。井伊直政は徳川四天王の一人。滅亡した武田家臣団を預かり、「武田の赤備え」あらため「井伊の赤備え」という、甲冑・旗・馬印などすべて赤で統一したスタイルはよく知られています。

開戦にあたり、井伊直政は初陣の松平忠吉とともに東軍先鋒・福島正則隊の脇を通り過ぎ、西軍の宇喜多秀家隊に一斉射撃を浴びせかけた、これによって関ヶ原合戦の戦端が開いたと言われています。

松平忠吉・井伊直政 陣跡の隣に東首塚。関ヶ原合戦後、関ヶ原の領主であった竹中重門が、東軍・西軍の死者の首を葬って塚を築いた場所です。

傍らには名古屋市東区布池(ぬのいけ)町の護国院から移築された大日堂と唐門があります。東西両軍の戦没者を供養するためのものです。

関ヶ原 東首塚 大日堂

関ヶ原 東首塚 唐門

田中吉政 陣跡

田中吉政 陣跡

田中吉政は三成本陣と向かい合う最前線に布陣しました。ここで田中吉政は三成本陣から繰り出される先遣隊を相手に戦いました。

合戦後、伊吹山山中を逃げていく三成を捕縛したのは田中吉政の部隊でした。

しかし。田中吉政は三成とは子供の頃からの親しい間柄であり、三成の境遇には深く同情していました。

「この度、数万の軍兵を率いられたことはまことにゆゆしき智謀でござった。しかし勝敗は天の命。人の力でどうにもできるものではござらぬ」

そう言って三成を慰めたといいます。

徳川家康 最後 陣跡

徳川家康ははじめ関ヶ原東方の桃配山に本陣を置いていました。しかし戦の進み具合を見て午前11時頃、西に移動し、関ヶ原・陣場野に本陣を置きます。以後、合戦が終わるまで家康はこの場所で指揮を取りました。

徳川家康 最後 陣跡

現在、「陣場野公園」として整備されています。たくさんのトンボが飛び交っていて、鼻先にぶつかりそうでした。

徳川家康 最後 陣跡

公園奥の盛り土は、天保13年(1842)、幕府の命により竹中氏が築いたものです。

徳川家康 最後 陣跡

盛り土の中央に「床几場(しょうぎば)」。家康が合戦の後、討ち取った敵将たちの首実検を行った場所とされます。

徳川家康 最後 陣跡

次回は、「関ヶ原古戦場を歩く(ニ)」細川忠興 陣跡から、石田三成 陣跡を経て、宇喜多秀家 陣跡まで歩きます。お楽しみに。

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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

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