関ヶ原古戦場を歩く(ニ)細川忠興 陣跡~石田三成 陣跡~宇喜多秀家陣跡
北野天満宮の近くのそば定食の店に入ったんですよ。ビックリしました。店の中に茶室があるのです。ちゃんとこけら葺きの庇があり、囲炉裏が切ってあって、にじり口がある、本格的なものです。聞くと、主人が宮大工で、自分で作ったということでした。そばを注文したら、ザルではなく黒部杉を切った板の上に載ってくるし、箸も箸置きも、主人が独自に細工した立派なものでした。嬉しくなりました。
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本日は「関ヶ原を歩く(ニ)」です。細川忠興 陣跡から石田三成 陣跡を経て、宇喜多秀家 陣跡まで歩きます。
細川忠興 陣跡
前回の続きです。
徳川家康 最後 陣跡を後に、歴史民俗資料館の前の道を道沿いに進んでいきます。
JAの建物が見えてきたら手前の道を左に入ります。
細川忠興 陣跡です。
細川忠興は細川藤孝(幽斎)の長男。はやくから織田信長に従い、本能寺の変の後、明智光秀の誘いを受けるも、これを断ったため、秀吉から丹後一国を与えられました。
秀吉没後は家康に接近。家康が上杉討伐の軍を起こすと、それに従います。しかし、家康の留守をついて石田三成が挙兵。忠興の妻ガラシャは三成の軍勢に細川邸を囲まれると、家老に命じて自らを斬らせました。
忠興は関ヶ原合戦で黒田長政らと石田三成の本隊を相手に戦い、136もの首級を揚げたといいます。
関ヶ原合戦後、その功績により豊前小倉に移封。その後、息子の忠利が肥後に国替えになったのに伴い、肥後八代城を居城としました。忠興は父幽斎と同じく文化人でした。ことに茶道では、千利休の弟子となり三斎流を起こしました。
細川忠興 陣跡を後に、小川を見ながら歩いていきます。
やがて信号を渡り、道がどんどん上り坂になり、
竹やぶに入っていきます。
山頂に出ると、パッと視界が開けます。
黒田長政・竹中重門が布陣した場所です。国道の小高い丘であり、丸山とも岡山とも呼ばれます。ここから開戦を知らせる烽火を上げたと言われています。
今も関ヶ原盆地が一望できます。西には石田三成の本陣のある笹尾山が1.5キロの距離に見渡せます。
黒田長政・竹中重門隊は関ヶ原の最北部=東軍最右翼に布陣し、笹尾山の石田三成本陣と向かい合っていました。
竹中重門は秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛重治(しげはる)の息子です。不破郡菩提に本拠地があったため、関ヶ原の地理に通じていました。
そこで黒田隊は竹中重門の案内で石田三成本陣側面に出て、一斉射撃を浴びせかけました。石田方に多くの死傷者が出ました。ことに三成の右腕的存在・島左近が負傷し、戦線を離脱したことは、三成にとって大きな打撃となりました。
決戦地
山道をぐるっとまわって、笹尾山の方面まで下ります。
途中、池がいくつかあり景色がとてもきれいです。
決戦地ののぼりが見えてきました。
小早川秀秋の裏切り後、東軍優勢となり西軍は総崩れとなりました。ここは東軍諸将が押しかけ、三成の首を取ろうと激戦を繰り広げた場所です。
しかし三成方も大坂城から持ち込んだ石火矢(大砲)を笹尾山の上から発射し、容易には本陣まで敵を近づけさせませんでした。
さらに畑中の道を歩いていくと、むこうに大一大万大吉の旗がひるがえっているのが見えてきます。いよいよ石田三成の本陣・笹尾山です。
大一大万大吉。一人が皆のために皆が一人ために尽くせば世の中が平和になるという石田三成の掲げたモットーです。
笹尾山前面に、竹矢来と馬防柵が復元されています。馬防柵の横に島左近 陣跡の碑。
島左近清興(きよおき)。大和国平群郡の地方豪族の出身。畠山氏、ついで筒井氏に仕えるも、主家を去って浪人(理由は不明)。
石田三成に任官の誘いを受け、2万石の高禄で迎えられます。当時、三成は4万石の大名だったため、主君と家臣と禄高を半分に分け合う、破格の待遇でした(ただし創作という説も)。
三成に仕えた正確な時期は不明ながら、天正18年(1590)小田原征伐の時はすでに仕えていたようです。「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」と讃えられました。
関ヶ原合戦の前日、西軍を鼓舞するため、兵500を率いて東軍方に戦を挑み、勝利(杭瀬川(くいせがわ)の戦い)。
関ヶ原合戦当日は石田三成本陣の手前に布陣。正午過ぎ、小早川秀秋が裏切ると西軍は総崩れとなり、東軍が三成の本隊に攻め寄せます。その時左近は、正面の黒田長政隊および田中吉政隊に突撃し、敵の銃撃を受けて戦死したと伝えられます。ただし左近の死体は見つかっておらず、生き延びて京都に潜伏したとも言われています。
私の家の近所の上京区立本寺に墓があって、ビックリしました。
笹尾山・石田三成 陣跡
笹尾山の石田三成陣跡に登ります。
石田三成。豊臣秀吉の長浜城主時代に見出され、豊臣政権を支える奉行として活躍しました。小田原征伐・朝鮮遠征で功績を立て、補給・後方支援・外交に能力を発揮しました。
文禄4年(1595)近江佐和山城主として19万4000石を領有。
秀吉没後、五大老筆頭の徳川家康が勢いをのばしていくと、三成は家康への反感を強めていきました。
慶長5年(1600)5月、徳川家康が上杉討伐のために東国へ向かうと、隠棲中の佐和山城で挙兵。
五大老の毛利輝元・宇喜多秀家をかつぎ、五奉行の長束正家(なつか まさいえ)・増田長盛(ました ながもり)・前田玄以(まえだ げんい)を巻きこみ、家康と対抗しうるだけの勢力を整えました。
9月14日、大垣城を出て、翌15日早朝、関ヶ原西口の笹尾山に布陣。
石田三成の本隊は約6000人。上下二段に陣を分け、石田三成の本陣は笹尾山に、その手前に島左近隊、蒲生郷舎隊を配しました。
笹尾山山頂に登ると大一大万大吉の旗がひるがえり、関ヶ原が一望できます。
正面に小早川秀秋が布陣した松尾山。右手前に小西行長・宇喜多秀家らが布陣した天満山。左奥に吉川広家・毛利秀元が布陣した南宮山が見渡せます。
笹尾山から坂道を下っていきます。途中、神明神社が見えたら右に折れます。突き当りの角にあるのが島津義弘 陣跡です。
薩摩の島津義弘は、三成挙兵直後に西軍として伏見城攻めに加わりました。三成が大垣城から関ヶ原に移動すると、その後を追って第二陣として北国街道沿いに着陣しました。
しかし合戦が始まっても積極的には戦わず、敵が攻めてくると打ち払うのみ。三成からの出撃要請も無視したといいます。
やがて小早川秀秋の裏切りによって西軍総崩れとなると、島津義弘隊は敵中に孤立。そこで島津義弘は、家康の本陣を中央突破し、伊勢街道に抜けて、薩摩まで帰還した、いわゆる「島津の退き口」はあまりにも有名です。
開戦地
梨の木川を渡って目の前の広場に、開戦地の碑。
東軍の松平忠吉隊・井伊直政隊が先駆けして西軍宇喜多秀家隊に射撃して、関ヶ原合戦の火蓋が切って落とされたという場所です。
その隣に、北天満山・小西行長 陣跡。
小西行長ははやくから三成と気脈を通じ、三成挙兵直後に西軍に加わりました。キリシタン大名としても有名です。大垣城から関ヶ原へ向かう時は、石田三成・島津義弘についで第三陣として関ヶ原に入り、北天満山に布陣しました。
開戦直後、東軍の寺沢広高・戸川達安(とがわ みちやす)と激しい戦闘となりますが、小早川秀秋の裏切りにより西軍総崩れとなると戦意を失い、戦場から逃亡しました。伊吹山山中で捕らえられ、石田三成・安国寺恵瓊とともに京都六条河原で処刑されました。
南天満山・宇喜多秀家 陣跡
道なりに進んでいくと、
天満(てんまん)神社があり、
境内に南天満山(みなみてんまんさん)・宇喜多秀家 陣跡があります。
宇喜多秀家は五大老の一人で西軍の副総帥を務めました。秀吉の養子であり同じく秀吉の養女であった前田利家娘・豪姫を妻に娶っています。合戦開始直後、東軍の松平忠吉隊・井伊直政隊により攻め込まれました。関ヶ原の合戦に破れた後は、八丈島に流されました。
明日は、「関ヶ原古戦場を歩く(三)」大谷吉継 陣跡・松尾山の小早川秀秋 陣跡を歩きます。お楽しみに!
聴いて・わかる。日本の歴史~崩れゆく江戸幕府
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八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。江戸幕府後半約130年間の歴史の流れを32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。詳しくはリンク先まで。
■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
https://sirdaizine.com/CD/KyotoSemi_Info.html
第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。