桶狭間古戦場を歩く(一)

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こんにちは。左大臣光永です。

京都に来てから映画館にしょっちゅう行くようになりました。人が少ないので、ゆったりできます。先日は160人入る劇場に客5人でした。快適ではあるんですが、これで経営がなりたつのかと不安にはなります。

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本日は「桶狭間古戦場を歩く(一)」名古屋市緑区の桶狭間古戦場を歩きます。桶狭間の合戦は、永禄3年(1560)織田信長が今川義元を破った戦いとしてあまりに有名ですね。近年、研究が進み、かつての「桶狭間の合戦」の筋書きが塗り替えられつつあるのも興味深いところです。

有松の街並み

名鉄名古屋本線・有松下車。南口に出て、案内板に従って歩いていきます。

見えてきました。旧東海道の面影を残す、有松の街並みです。

有松の町並み

有松は慶長13年(1608)尾張藩の命によって鳴海宿と池鯉鮒(ちりゅう)宿の間に開かれた町です。

有松の町並み

住民の生業として「有松絞り」とよばれる絞り染めが生産・販売され名物となりました。幕府の保護もあって、大いに栄えました。

鳴海の絞り染とあわせて「有松・鳴海絞り」ともいいます。

天明4年(1784)の火事で有松の町はほとんど燃えてしまいましたが、その後、火事に強い塗籠造・瓦葺で再建されました。今も通りには塗籠造の町家が並び、旧東海道の風情を伝えています。

有松の町並み

桶狭間の合戦は、永禄3年(1560)5月19日、織田信長が尾張桶狭間・大脇山付近(名古屋市と豊明市と二説)に今川義元を破った戦いです。

桶狭間の合戦 戦況図

天文20年(1551)信長は織田家の家督をつぐや、尾張国内の反対勢力を次々と討ち、永禄2年(1559)までに尾張一国をほぼ平定しました。

しかし東には駿河・遠江・三河を領有する今川義元。北には斎藤義龍がそびえ、清洲城の信長を脅かしていました。

今川義元は信長の父・信秀の時代から織田氏とたびたび対立してきました。義元は尾張攻略の手始めとして織田方の鳴海城主・山口教継に働きかけ、今川方に寝返らせます。

ついで、鳴海城近くの大高城・沓掛城も「ならば私も」と、今川に寝返りました。

信長から見ると、自国の領内に今川方が大きく食い込んでいる形です。見逃せない事態でした。一方、今川から見ると、尾張攻略の心強い足掛かりを得た形です。

5月12日、今川義元は駿河・遠江・三河の軍勢2万5000を率いて駿府を出発。17日、尾張沓懸城入。19日、沓掛城を出て、西に向かいます。

今川義元 桶狭間合戦までの動き

対して信長は、鳴海城の北に丹下(たんげ)砦を、東に善照寺(ぜんしょうじ)砦を、南に中島(なかしま)砦を築きます。黒末川の向こうには、鳴海城・大高城の連絡を絶つため、鷲津(わしづ)砦・丸根(まるね)砦に配下の武将を置き、今川義元を迎え撃たんとします。

桶狭間の合戦 戦況図

19日早朝、織田信長はわずかな軍勢を率いて清州城を出ます。以後、熱田神宮→丹下砦→善照寺砦→中島砦と進み、

桶狭間の合戦 戦況図

雨のふりしきる中、桶狭間で休憩中の今川軍に攻撃を仕掛けました。今川軍は総崩れとなり、大将の今川義元も打ち取られました。

今川義元が西へ向かったのは上洛して天下に号令するためだったという説がありましたが、現在ではほぼ否定されています。三河と尾張の間の単なる国境紛争だったという説が有力です。

桶狭間の合戦によって今川氏は没落し織田氏が勢いを伸ばしました。今川軍に従っていた松平元康(=徳川家康)は、二年後の永禄5年(1562)今川から独立。信長と手を結びました(清洲同盟)。

高根山

住宅街の中にこんもり盛り上がった高台があります。高根山です。

高根山

今川軍の先遣隊・松井宗信(まつい むねのぶ)率いる数千が着陣したとされます。このあたりで一番高く、北には鳴海城と織田軍の中島砦・善照寺砦が見渡せました。また織田方別働隊、佐々政次・千秋季忠の率いる軍勢を今川方が破っています。

高根山

高根山

現在でもとても見晴らしがいいです。ここに立ったら、なるほど戦場がよく見渡せたでしょう。

高根山

高根山西方にあるのが釜ケ谷(かまがたに)です。

釜ケ谷は信長が軍勢を潜ませて、桶狭間への奇襲の機会を伺った場所とされます。現在は桜花学園大学・名古屋短期大学の敷地内になっています。

釜ケ谷

ただし「桶狭間奇襲説」は現在ではほぼ完全に否定されています。

かつては「桶狭間」という地名から、今川義元は低い窪地に布陣していたと、思われていました。そこへ、織田信長がわずかな勢力を率いて側面から回り込み、太子ヶ根(たいしがね)という高台から奇襲をかけて、今川を殲滅したと。

しかし近年、研究がすすみました。今川義元は窪地ではなく「桶狭間山」という高台に布陣していた。そこへ、信長はわりと正面から戦いを仕掛けた、というのが現在の定説になりつつあります。

よってこの「釜ケ谷」の真偽はあやしいんですが…まあ「奇襲説」の時代の名残と見ておきましょう。

七ツ塚

釜ケ谷近くの住宅街の中に七ツ塚。

七ツ塚

七ツ塚

織田信長が桶狭間合戦の勝利の後、釜ケ谷に軍勢を集め、付近の住民に命じました。戦死者を埋葬をせよと。そこで等間隔に七つの穴を掘って、大量の死体を埋め、塚を立てました。これを七ツ塚といい、取り壊す者にはたたりがあったといいます。現在は、塚が一つと、石碑が立っています。

七ツ塚

桶狭間古戦場公園に来ました。

桶狭間古戦場公園

織田信長と今川義元の像が並び立ちます。

桶狭間古戦場公園 織田信長と今川義元の像

公園には桶狭間の戦場全域を模した遊歩道がしつらえてあり、歩きながら桶狭間の合戦を学ぶことができます。

桶狭間古戦場公園

桶狭間山

桶狭間古戦場公園裏手から、いよいよ桶狭間山に登ります。

桶狭間山へ

「桶狭間」は「狭間」ということから、かつては低地と考えられていました。信長は低地に陣取る今川軍に側面の高地から奇襲をしかけたと。しかし現在ではこの「桶狭間奇襲説・低地説」はほぼ完全に否定されています。

今川義元は桶狭間山という高地に陣取り、信長はそこへ、わりと正面から攻撃を仕掛けたというのが現在の定説になりつつあります。

山の中腹に「おけはざま山」の碑。

「おけはざま山」の碑

どんどん坂道を登っていくと…頂上。このあたりが今川軍の本陣跡と現在では言われています。

桶狭間山

桶狭間山

まあ普通に考えて低い場所に本陣は置かないでしょう。ここはいかにも本陣らしいと思えました。

ただしここ名古屋市緑区の「おけはざま山」のほか、豊明市栄町にも「桶狭間古戦場伝説地」があり、どちらが正しいかは決着がついていません。地元では「桶狭間の本家争い」でさかんに議論がされているようです。今後の研究が待たれるところです。

桶狭間古戦場公園までもどり、今度は南に向かいます。

大池の東ほとりに瀬名陣所跡の碑が立ちます。

瀬名陣所跡の碑

瀬名陣所跡の碑

永禄3年(1590)5月17日、今川方先発隊・瀬名伊予守氏俊の率いる約200名が着陣したという場所です。鳴海・大高方面の監視と、19日に今川本隊が昼食をとるための本陣設営がその任務でした。こんもりと木が茂っています。あのあたりに陣を置いたんでしょうか…。

長福寺

大池の東南に長福寺の入り口があります。

東福寺

今川義元に仕えた林阿弥が、桶狭間の合戦の後、今川方武将の首実検をさせられた場所といわれます。

本堂には今川義元と今川軍先遣隊を率いた松井宗信の木造を安置します。

東福寺 本堂

境内の杉の大木のあたりで林阿弥が首実検をしたといいます。

境内奥の弁天池は「血刀濯ぎの池」と江戸時代の史料にあります。

桶狭間の合戦で血糊のついた刀を洗ったということでしょう。睡蓮が群生し、ウシガエル?ゲエゲエ鳴いてました。

大池の南に、戦評の松。

桶狭間の合戦の時、今川方先遣隊隊長・瀬名伊予守氏俊が、松の根方に配下の武将を集めて評定した場所と伝えられます。現在の松は植え替えられたものです。

桶狭間神明社

戦評の松の近くに桶狭間神明社があります。

桶狭間神明社

桶狭間合戦に逆立ち、今川方先遣隊を率いた瀬名伊予守氏俊が戦勝祈願をしたと伝えられます。

桶狭間神明社

本日は、名古屋市緑区の桶狭間古戦場を歩きました。次回は「桶狭間古戦場を歩く(ニ)」織田方の鷲津砦・丸根砦、今川方の大高城跡を歩きます。お楽しみに。

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