近江高島を歩く~藤原仲麻呂・継体天皇ゆかりの地

■【古典・歴史】メールマガジン

今日は。左大臣光永です。

コンビニでトイレを借りて、何も買わないで店出るのは忍びないので、私はちょっとした買い物をするんですが、考えてみると別に私が買い物してもトイレを使わせてくれたバイトのお兄さんの時給が上がるわけでもなし、むしろ仕事が増えるだけなので、トイレ借りたからといって必ずしも何か買う必要は無いなと最近は思うようになりました。

さて左大臣の古典・歴史の名場面。本日は第1022回目です。

琵琶湖の西(湖西)藤原仲麻呂・継体天皇ゆかりの 高島を歩きます。

高島は大和・山城・近江を経て越前に至る北陸道が通り、古くから水陸交通の要衝でした。特に高島の勝野津(かちのつ)は大津・今津とともに、湖西三大港と言われ、湖西航路の中継点として重要な港でした。

『万葉集』に高島や勝野津での旅情を歌った歌は多く、町のあちこちに歌碑が立っています。

また高島は26代継体天皇の出身地であり、奈良時代最大の内乱・藤原仲麻呂の乱の最終決戦の舞台ともなりました。

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乙女ヶ池

JR湖西線 近江高島下車。高島市民病院の脇の道を琵琶湖方面に進んでいくと、見えてきました。

乙女ヶ池です。



東西150メートル、南北600メートルの細長い内湖です。

内湖とは琵琶湖周辺の小さな湖のことで元は琵琶湖と一体だったのが土砂の堆積などにより琵琶湖から切り離されたものです。

乙女ヶ池周辺の景色は『万葉集』に何首も詠まれています。またこのあたりは古代の壬申の乱・藤原仲麻呂の乱の戦場ともなりました。

中世には織田信長が甥の信澄に築かせた大溝城の外堀となりました。

万葉集 歌碑


大船(おおふね)の 香取(かとり)の海に 碇おろし
いかなる人か 物思はざらむ

大船 香取海 慍下 何有人 物不念有

万葉集・巻11・2436・柿本人麻呂

大きな船が香取の海に碇をおろすように、
どんな人が物思いに沈まないことがあるだろう。
ここを通る旅人は誰だって物思いに沈むだろう。

ここ高島の地は大和・山城を経て北陸に続く北陸道の要所であり、旅情をかきたてられる場所として人の心を捕らえてきました。ほかにも数々の歌碑が高島の町内に点在しています。

藤原仲麻呂(恵美押勝)

藤原南家の祖、藤原武智麻呂の次男。叔母である光明皇后の後ろ盾と大仏造営事業によって権力を高めていきました。その後淳仁天皇より「恵美押勝」の名を賜り太政大臣に至ります。飛ぶ鳥を落とす勢いの藤原仲麻呂でしたが、760年、後ろ盾であった光明皇太后が亡くなると、その立場は危うくなっていきます。

孝謙上皇は藤原仲麻呂(恵美押勝)の立てた淳仁天皇と日に日に対立を深め、その上道鏡なる僧を寵愛するようになっていきました。

「これではまずい」

天平宝字8年(764)、仲麻呂は道鏡の排除をもくろみ兵を挙げようとしますが、密告により事前に発覚。孝謙上皇は吉備真備を参謀として各地の道路を封鎖します。仲麻呂は越前で息子たちとの合流を図りますが、途中、近江高島の三尾崎(みおのさき)で捕らえられ、勝野鬼江で妻子・一族郎党ともに斬られました。

その、仲麻呂が斬られた勝野鬼江が、ここ乙女ヶ池の辺りと伝えられます。

乱の後、淳仁天皇は乱に加担したといって廃位させられ、孝謙上皇が重祚して称徳天皇となります。

乙女ヶ池のほとりに大溝城本丸跡があります。


大溝城は天正6年(1578)、織田信長が甥の信澄に築城させた城です。設計は明智光秀が行ったと伝えられます。琵琶湖とその内湖(洞海)を外堀として活かした「水城」でした。


天正10年(1582)本能寺の変が起こると信澄は明智光秀の娘を妻としていたため、織田信孝・丹羽長秀に疑いをかけられ大阪城に攻め滅ぼされました。


その後、大溝城は、京極高次はじめ城主がたびたび替わりますが、慶長8年(1603)廃城となりました。江戸時代に分部(わけべ)氏がこの地に入り、大溝藩を置きました。そして大溝城の三の丸跡地に陣屋を構えました。

白鬚神社

乙女ヶ池・大溝城本丸跡を後に、国道161号線を南下すること車なら約3分。徒歩なら30分くらい。

白鬚神社です。



白鬚神社は近江最古の大社です。朱塗りの大鳥居が琵琶湖の中に立ち、近江の厳島とも呼ばれてます。社伝によれば、11代垂仁天皇皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)による創建。延命・長寿にご利益があるとされます。それは、祀られている猿田彦命が白髪姿の老人の姿をしているため。白鬚神社の名もそこから来ています。


また猿田彦命は天孫降臨に際してニニギノミコトを先導して道案内した神様です。そのため導き・道開きの神ともされます。

境内には多数の歌碑・句碑があります。


四方より 花吹入れて 鳰の海

松尾芭蕉

桜満開の琵琶湖の四方から、花びらが風に乗って琵琶湖に吹き入れている。


近江の海にて三尾が崎といふ所に網引くを見て

みおの海に網引く民のてまもなく
立ちゐにつけて 都恋しも

紫式部

長徳2年(996)紫式部が父藤原為時の越前赴任に付き添った時の歌です。一行は逢坂山を越え、大津から船に乗り、湖西の港港によりながら越前を目指しました。途中、三尾が崎にて、紫式部は漁師たちが網引く姿を見たのです。都育ちの式部には初めて見る、不思議な景色だったでしょう。

みおの海に 網引く民の てまもなく 立ちゐにつけて 都恋しも…みおの海(琵琶湖)で編み引く漁師たちの手を休める暇もない立ち振舞を見るにつけても、もうここが都でないことが実感され、遠く離れつつある都が恋しく思われるなあ。

しらひげの 神のみまへに わくいづみ
これをむすべば ひとの清まる

上の句 与謝野鉄幹
下の句 与謝野晶子

白鬚神社のみ前にわく泉。
この水を手ですくえば、清められる。

白鬚神社を後に、ふたたび国道161号線を北上します。今度は行きには無視した左手の細い山道に入ります。見えてきました。

鵜川四十八体石仏群(うがわしじゅうはったいせきぶつぐん)です。


定印を結んだ花崗製の阿弥陀如来座像で等身大よりも一回り大きいです。近江の大名六角義賢(ろっかく よしかた)が母の菩提を弔うため建造したと考えられていましたが、その後、もっと以前にこの石仏群について記述されている史料が見つかり、この説は否定されました。

現在残っているのは48体のうち33体のみです。

総門

ふたたび乙女ヶ池を通り過ぎ、今度は高島の町中に入っていきます。江戸時代に入ってきた分部(わけべ)氏の整備した武家屋敷町の雰囲気が残ります。総門は唯一現存する武家屋敷時代の建物です。


総門より東に武家屋敷町が、西北に職人町が広がっていました。そこかしこに当時の町名が石碑として立ってています。蝋燭町・船入町・長刀町など…地名に当時の面影が漂います。



町割り水路が町のあちこちに見られます。


城下町の町割によって作られた生活用水路です。昔は琵琶湖の魚がここまで遡ってきたそうです。しかしこれ…柵も何もないので子供が落っこちないのかと、それが心配になりました。

勝野津(現 大溝港)

琵琶湖に面した大溝港のあたりは、かつての「勝野津(かちのつ)」の港の雰囲気が漂っています。


ここにも万葉の歌碑。


何処(いづく)にか われは宿らむ 高島の
勝野の原に この日暮れなば

万葉集 巻3・275・高市黒人

どこで私は野宿しようか。高島の勝野の原でこの日が暮れてしまったら。

羇旅(たび)にして作る

大御船 泊(は)ててさもらふ 高島の
三尾の勝野(かちの)の 渚し思ほゆ

万葉集 巻7・1171

天智天皇により大津に都が置かれていた時代(667-672)の歌です。天皇の御船が停泊して天候をうかがっている、高島の三尾の勝野の渚のことが思い出されることよ。

天智天皇のお供をした作者が、その日、高島の勝野で風を待ったことを、後で思い出している感じの歌です。

万葉の歌を口ずさみながら、昔の人が高島・勝野に感じた旅情をしみじみと追体験します。

高島の中心部を後に、北に向かいます。小高い丘と丘の上の覆屋が見えてきました。


6世紀頃の前方後円墳・稲荷山古墳です(または地名から鴨稲荷山古墳)。


埋葬されているのは継体天皇に関係した人物と見られています。石棺はもともと後円部の横穴式石室の中に置かれていましたが、明治35年に露出してから雨風に吹きさらしになっていました。昭和62年覆屋が建てられ現在は覆屋のガラス越しに石棺を見ることができます。

出土品は金製の耳飾りや金銅製の冠など、多品目にわたり、しかも朝鮮の新羅の出土品と共通しています。この地が新羅や渡来人と深い結び付きがあったことを裏付けるものです。

継体天皇

26代継体天皇。


『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇の五世の孫で、父は彦主人王(ひこうしおう・ひこうしのおおきみ)。母は垂仁天皇7世孫の振姫(ふりひめ・ふるひめ)。名は男大迹王(をほどのおおきみ)。

近江高嶋郷で生まれるも幼い頃父が死んだため、母の故郷である越前高向(たかむく。福井県坂井市三国町)で育てられました。

25代武烈天皇が跡取りを指定しないまま亡くなると、群臣が話し合った結果、はじめ仲哀天皇五世の孫・倭彦王(やまとひこのおおきみ)を大王として迎えようとしました。しかし倭彦王は、迎えの軍勢を見るとビビッて逃げてしまいました。

継体天皇 系図
継体天皇 系図

そこで今度は越前に使いを出して応神天皇五世の孫・男大迹王(をほどのおおきみ)に大王になってくれと頼みます。男大迹王は何度も辞退した上で大王となることを承諾しました。

26代継体天皇です。

しかし反対勢力が邪魔したのか。即位したのは河内においてであり、大和に入るまでは20年ほどかかっています。なぜ継体天皇が20年間大和に入れなかったかは諸説あって解明されていません。

継体天皇の時代には九州で新羅と結んだ磐井の反乱が起こり、鎮圧に手を焼きました。

さて、「応神天皇の五世の孫」といってもその間の系譜が曖昧なため、実はつながっていないのではないか?武烈天皇でいったん天皇家の血筋は途絶えて、継体天皇からまったく新しい王朝が始まったのではないかという説もあります。

継体天皇 系図
継体天皇 系図

真相はいまだ解明されていませんが、もしこの説が本当であれば現在の皇室が初代神武天皇につながらないことになり、大スキャンダルです。

高島には継体天皇ゆかりの場所がいくつかあります。

継体天皇の母・振姫が出産後、天皇のへその緒を埋めたという継体天皇胞衣塚。

継体天皇の母・振姫がお産の時もたれたと伝えられる「もたれ石」のある「三尾神社旧跡」。

継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)の墓と見られる「田中王塚古墳(たなかおうづかこふん)」。

この三箇所にも行ったのですが、残念ながら天候が悪く、しっかりした写真が撮れませんでした。次回の課題とします。

本日は継体天皇や藤原仲麻呂ゆかりの滋賀県の高島を歩きました。

古代史に興味がある方には、必ず得るところの多い場所です。ぜひ歩いてみてください。

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