近江神宮と周辺を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

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さて、百人一首ということですので…本日は近江神宮とその周辺を歩きます。

近江神宮は滋賀県大津に、天智天皇を祀って昭和15年(1940)建てられた新しい神社です。天智天皇が都を置いた場所が大津。そして天智天皇の歌が百人一首の第一首目に採られていることから、毎年正月に、競技百人一首の名人戦・クイーン戦が行われます。

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近江神宮 楼門
近江神宮 楼門

また近江神宮周辺には、天智天皇の遷都した近江大津宮の跡や、天智天皇が建立した「崇福寺」の跡があるので、そちらも歩きます。

近江大津宮(おうみおおつのみや)錦織(にしこおり)遺跡

JR京阪石山坂本線・近江神宮前駅下車。山のほうに歩いていきます。

JR京阪石山坂本線・近江神宮前駅
JR京阪石山坂本線・近江神宮前駅


まず見えてくるのが、近江大津宮(おうみおおつみのや)錦織(にしこおり)遺跡。天智天皇が667年に遷都した大津京の中心地・大津宮の跡です。

近江大津宮錦織遺跡 第八地点
近江大津宮錦織遺跡 第八地点

663年、倭国は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗北を喫します。4年後の667年、中大兄皇子は都を飛鳥から大津に遷しました。

翌668年、正式に38代天智天皇として即位。さまざまな改革事業を行います。しかし遷都5年目の672年、天智天皇は亡くなり、天智の没後、天智の弟・大海人皇子(おおあまのみこ)と天智の息子・大友皇子(おおとものみこ)の間で壬申の乱が起こります。

結果は大海人皇子の勝利となり、壬申の乱の後は大海人皇子が天武天皇として即位。都を飛鳥に戻し、大津京は廃墟となってしまいました。大津京はわずか5年の短命の都でした。

昭和49年(1974)民家の建て替えに伴う発掘調査で、ここ大津市錦織の地に大津宮があったことが確定しました。とはいえ住宅街のただ中にあるため十分な発掘調査はできていません。

道路沿いに三つの地点がみられます。

駅チカから第八地点、

第一地点、ここでは大津宮内裏南門跡が発掘されました。

近江大津宮錦織遺跡 第一地点
近江大津宮錦織遺跡 第一地点

近江大津宮錦織遺跡 第一地点
近江大津宮錦織遺跡 第一地点

近江大津宮錦織遺跡 第一地点
近江大津宮錦織遺跡 第一地点

第二地点、

近江大津宮錦織遺跡 第二地点
近江大津宮錦織遺跡 第二地点

頭の中に大津京の姿を想像しながら歩くのは楽しいものです。

天智天皇は667年、飛鳥から大津に遷都しました。そして翌668年、正式に38代天智天皇として即位しました。

なぜ大津に遷都したのか?諸説あって結論は出ていません。

663年に倭国は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に負けており、唐・新羅が国内に攻め込んでくる危険が生じた。だからより飛鳥よりも敵に対処しやすい大津に遷った…ということがよく言われる説明です。

しかし唐は白村江の後も高句麗や新羅と戦争を続けており、すぐに倭国に攻め込めるような余裕はありませんでした。

また白村江の戦いの後、すぐに唐と倭国との間に捕虜交換が行われています。しかも倭国は高句麗や新羅との戦いにおいて唐に協力すると、約束までしています。

つまり戦争の危険はとっくに去っていました。わざわざ遷都するほどの問題でもありませんでした。

それよりも琵琶湖の水運を狙った。北陸から畿内に至る物資の流れをスムーズにして、国を富ませることが目的だった、という説のほうが筋が通っています。

とはいえ大津京遷都の理由はいまだ結論が出ていません。今後の研究が待たれるところです。

近江神宮

近江神宮の参道に来ました。青葉若葉の初夏の梢の中を、歩いていきます。

近江神宮 参道
近江神宮 参道

近江神宮 参道
近江神宮 参道

見えてきました。近江神宮の楼門です。

近江神宮 楼門
近江神宮 楼門

近江神宮 楼門
近江神宮 楼門

石段の上にそびえる姿。カッコいいですね。

近江神宮は滋賀県大津に、昭和15年(1940)紀元2600年を記念して創建された新しい神社です。大津に都を置いた天智天皇を祭ります。

拝殿

楼門をくぐると、正面が拝殿です。しっかり拝んでいきましょう。

近江神宮 拝殿
近江神宮 拝殿

漏刻

境内には漏刻の模型があります。

近江神宮 漏刻模型
近江神宮 漏刻模型

記録によると天智天皇10年(671)(および斉明天皇6年(660))天智天皇が「漏刻」を作り時を知らせたとあります。

「皇太子(中大兄)初めて漏刻を造り、民をして時を知らしむ」(『日本書紀』斉明天皇6年条)

漏刻とは古代の水時計です。枡形の容器を階段状に並べて、上から順に水を流します。一番下の枡形には矢が垂直に立っており、水位によってその矢が上がっていきます。その矢が上がった所の目盛りを読んで、時を知るという仕組みです。

漏刻の仕組み
漏刻の仕組み

時計としてちゃんと機能するためには、常に一定間隔で水が流れ続ける必要があり、そこが技術的に難しかったようです。とはいえ漏刻の仕組みには不明な部分が多く、解明されていません。

奈良県明日香村の飛鳥水落遺跡(あすか みずおちいせき)は、天智天皇が築いた漏刻の跡地と言われています。

時計館・宝物館

時計館・宝物館には100点あまりの時計が展示されています。毎年6月10日の時の記念日には漏刻祭が行われています。

近江神宮 時計館・宝物館
近江神宮 時計館・宝物館

近江勧学館

境内北側の近江勧学館は競技百人一首の名人戦・クイーン戦の行われる場所として有名です。

近江神宮 近江勧学館
近江神宮 近江勧学館

映画「ちはやふる 結」が公開された時期であり、ロケに使われた小道具などが展示してありました。また近江勧学館は宿泊施設ですので、ふつうに泊まることができます。かるたの聖地で一泊するのも、後々の話のタネになるんじゃないでしょうか。

近江神宮を跡に、崇福寺跡を目指して歩いていきます。はるかに琵琶湖がみわたせ、いい気分です。


途中、南滋賀町廃寺跡があります。

南滋賀町廃寺跡
南滋賀町廃寺跡

昭和初期の調査で塔・西金堂・金堂・僧坊跡などが発掘され、この地に寺があったことが明らかとされました。

南滋賀町廃寺跡
南滋賀町廃寺跡

その後の調査で、この寺の伽藍配置は塔と西金堂が東西に位置し、回廊がそれらを取り巻く「川原寺式伽藍配置」であることがわかりました。

南滋賀町廃寺跡
南滋賀町廃寺跡

ただし寺の名前はわからず、南滋賀町廃寺跡と仮に呼ばれています。

荘厳な寺院の姿を脳内に思い浮かべます。

野原の中にジャングルジムなど子供用の遊具があるのはちょっと…何だかなって感じですが。家々の甍のむこうに、琵琶湖が見渡されます。

三上山も見えます。いい形をしてます!

南滋賀町廃寺跡から三上山を望む
南滋賀町廃寺跡から三上山を望む

百穴古墳群

西大津バイパスの高架線をくぐり、住宅街の中の坂道を登っていきます。しだいに神さびた空気が出てきます。振り向くと満々たる琵琶湖。気分いいです。



しばらく家々の間の坂道を登っていくと、

右に百穴古墳群の入り口。

百穴古墳群
百穴古墳群

6世紀頃の古墳とみられ、斜面に70余りの横穴式石室を持つ円墳が点在しています。

百穴古墳群
百穴古墳群

これらの墓は古代朝鮮の墓と共通する特徴があり、埋葬されたのは渡来人であったと推定されます。

百穴古墳群
百穴古墳群

大津京遷都以前、この地には渡来人が多く住んでいました。その人々の墓と思われます。

竹やぶの中に墓は点在しています。石室が露出して中が覗き込めるものも多いです。

百穴古墳群
百穴古墳群

さらに山道を登っていきます。


鳥が鳴きしきり、川音がざばざはと響き、もう完全に別世界です。小さなお堂が見えてきました。



志賀の大仏(おぼとけ)です。

志賀の大仏
志賀の大仏

鎌倉時代に作られたと伝えられる3メートルの阿弥陀如来座像です。長年の風雪に削られ、細かな凹凸は無くなっていますが、おだやかな表情がうかがえます。

大津から京都北白川へ抜ける旧山中越(やまなかごえ。志賀越道)の途中にあり、旅人が道中の安全を祈ったと思われます。

崇福寺跡

さらに山道を登っていくと、崇福寺跡の標識が見えます。


崇福寺は大津に遷都した翌年の668年(天智天皇7年)、天智天皇の勅願で建立された寺院です。


大津京が廃された後も平安時代末期まで繁栄。多くの参拝客で賑わいました。しかし比叡山延暦寺と大津の三井寺の争い(山門・寺門の争い)に巻き込まれて衰退。鎌倉時代には断絶しました。


金堂・講堂跡

三つの尾根ごとに伽藍跡があります。まずは南尾根。金堂・講堂跡に登ります。



緑の光がすごいです!

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

神々しいまでの緑の光!日光が、青もみじを通して、さんさんと降り注いでいました。傍らには杉が林立し、青もみじと、杉と、光の饗宴。あまりの美しさに涙がこみあげました。

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

訪れる人もぜんぜん無いので、静かに座って、緑の光を満喫してきました。来てよかったと、しみじみ思える場所でした。

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

崇福寺 金堂・講堂跡
崇福寺 金堂・講堂跡

小金堂・塔跡

尾根をいっん降り、山道を登っていきます。


崇福寺建立にまつわる金仙滝(きんせんのたき)と霊窟があります。

金仙滝と霊窟
金仙滝と霊窟

ある日、都の乾(西北)に霊窟があると夢に見た天智天皇が、不思議に思ってやってくると、僧侶がいて、これがその霊窟ですと言う。そこで天智天皇はこの地に崇福寺を建立したと伝えられます。

金仙滝から尾根道を登ると、


小金堂・塔跡です。東に小金堂、西に塔跡、二つの基壇がならびます。

崇福寺 小金堂・塔跡
崇福寺 小金堂・塔跡

崇福寺 小金堂・塔跡
崇福寺 小金堂・塔跡

弥勒堂跡

金仙滝まで戻りさらに進んでいくと、


弥勒堂跡。弥勒堂という瓦葺きの建物があった跡です。


ここからさらに山道を登っていくと夢見が丘、ケーブル延暦寺駅にまで至りますが、今回はここまでとします。



次の旅「三井寺を歩く

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