高輪泉岳寺・赤穂義士祭り
こんにちは。左大臣光永です。
赤穂義士討ち入りの本日、いかがお過ごしだったでしょうか?
私は高輪泉岳寺の「赤穂義士祭(あこうぎしさい)」に行ってきました。
というわけで今日は泉岳寺の話です。
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泉岳寺 本堂
泉岳寺は赤穂義士が本懐を遂げた後、宿敵吉良上野介の首を主君浅野内匠頭長矩の墓前に捧げたことで有名です。
浅野内匠頭長矩と赤穂義士の墓。討ち入り三百年を記念して建てられた、赤穂義士記念館が見所です。
元禄赤穂事件
元禄14年(1701年)3月14日。
江戸城内松の廊下にて、勅使接待役・赤穂藩主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみ・ながのり)は儀礼指南役・吉良上野介義央(きらこうずけのすけ・よしひさ)に背後から、
「この間の遺恨覚えたるかーッ!」
ズバァーーッ…
突然、斬りかかります。
「なんと!」振り向いた吉良上野介の額に、
スパッ、スパッ!
二刀あびせかける!
バッタと倒れる吉良上野介。
「殿中でござる!殿中でござる!」
斬りかかった浅野長矩はすぐに留守居番・梶川頼照(かじかわよりてる)に取り押さえられます。
斬られた吉良は別室に運ばれます。
去る3月11日、朝廷からの勅使・院使が江戸に到着し、接待をしたところでした。勅使とは天皇の使い、院使とは上皇の使いです。そして15日には勅使・院使は芝・増上寺に参詣して帰ろうという前日の14日。刃傷事件は起こったのでした。
しかもこの時期、将軍綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)が朝廷から従一位の位をさずかることを、綱吉は朝廷に強く働きかけていました。今回の接待は、母の従一位がかかった大切な場でした。そんな大切な場を、血で汚された…親孝行な将軍綱吉は激怒します。
「わが母の顔に泥をぬりおって!
カンベンならぬ!」
切りかかった理由は諸説あって、よくわかっていません。
浅野長矩は即日切腹を命じられ、赤穂藩は改易(取り潰し)となります。
風さそう花よりもなお我はまた
春の名残りを如何にとやせん(浅野長矩)
浅野長矩の辞世です。
赤穂藩士は屋敷・領土を取り上げられ、武士の身分を剥奪され、浪人となりました。一方の吉良義央(きらよしひさ)はお咎め無しでした。
「これでは喧嘩両成敗の原則に反する!
もはや我等だけで仇を討つしかない!」
……
…
翌年の元禄15年(1702年)12月14日。深夜。大石内蔵助良雄(よしたか)をはじめとする四十七人の赤穂義士は、
旧主浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の無念をはらすため江戸・両国の吉良上野介邸に討ち入ります。
二時間にわたる乱闘の末、宿敵・吉良上野介の首級を挙げた赤穂義士は、両国の吉良邸から浅野家の菩提寺、泉岳寺まで10キロの道のりを引き上げ、旧主の墓前に吉良の首をささげました。
両国 吉良邸跡
あら楽し思いは晴るる身は捨つる
浮き世の月にかかる雲なし(内蔵助)
その後、大石良雄はじめ赤穂義士は4つの大名家に分けて預けられ、大石良雄は肥後熊本藩主細川綱利(ほそかわつなとし)のもとに預けられました。
翌元禄16年(1703年)2月4日、大石良雄は切腹を命じられました。
右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消え残る
名は千歳の後までも鉄道唱歌より
京浜急行泉岳寺駅で下ります。
すぐ駅前が泉岳寺の参道です。
赤穂義士グッズの店などを覗きながら参道をちょっと歩くと、中門です。
泉岳寺 中門
もとは総門、中門、山門と三つの門がありましたが、現在残っているのは中門と山門だけです。
泉岳寺は慶長17年(1612年)徳川家康の命により曹洞宗の門庵宗関(もんなんそうかん)により建立されました。はじめ外神田霊南坂(そとかんだ・れいなんざか)に建立され、寛永18年(1641年)の火事で焼失し、現在の場所に移されました。その後、丹波、水谷(みずのや)、毛利、朽木、浅野の五大名により再建されました。
中門横には大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)の像が立ちます。元禄羽織をまとい、連判状を手に、江戸のある東の方角をじっと見ている姿です。
泉岳寺 大石内蔵助良雄像
山門~境内
山門をくぐります。大きく白く「泉岳寺」の文字が目立ちます。
泉岳寺 山門
泉岳寺 山門
境内は、お祭りということで出店が多く並び、活気がありました。本堂前の垂れ幕には、右に浅野家の家紋である違い鷹の羽、左に大石家の家紋である二つ巴があしらってあります。
泉岳寺 本堂
浅野家家紋違い鷹の羽は左の羽が上になった左鷹の羽です。奥方さまの阿久利の紋は右側の羽が上になった右鷹の羽だということです。
本物は羽に虫食いがあるらしいですが、これはデザイン的に模式化されたものだからでしょうか。虫食いはありませんでした。
そして大石家の家紋は、芝居の陣太鼓などで印象深い、二つ巴(ふたつどもえ)です。
いよいよ赤穂義士の墓に向かいます。すごい行列です。
ゆっくりゆっくり前に進みます。途中、右手に「首洗い井戸」が見えます。本懐を遂げた赤穂義士たちが宿敵吉良の首を洗ったものです。
墓所入口の門は、浅野家江戸上屋敷の裏門を移築したものです。
門をくぐった所で線香の束を売ってます。100円で、ドッシリ大量にくれました。なにしろ四十何人ぶんですからね。大変な量です。
まずは浅野内匠頭の奥方・阿久利のお墓です。よく写真を御覧ください。
正面の灯籠にある違い鷹の羽は左が上ですが、扉にある違い鷹の羽紋は右が上の「右鷹の羽」です。これが阿久利姫の御紋です。
次に浅野内匠頭の墓です。なんか奥方の墓のほうが立派な気もします…
続いて赤穂義士たちの墓を一つ一つ回ります。
義士たちの墓の中、ひときわ大きいのが大石内蔵助良雄の墓です。
どこからか、忠臣蔵の浪曲をうなる声が聞こえ、いい雰囲気でした。
それにしても、こんなにたくさんの線香をささげたのは初めてです。目がしぱしぱしました。家に帰ってなお、線香くささが抜けないです。
赤穂義士記念館
境内の赤穂義士記念館は赤穂義士関係の遺品を展示しています。中にも、大石内蔵助自筆の書状と、幕末に作られた大石父子像が目を引きました。
赤穂義士記念館
討ち入りの日ということで、大石父子象の前で詩吟をうなってる方々がいました。気合いの入ることです。
別館の「義士木造館」には、四十七士全員の木の人形があります。
義士木造館
中にも「仮名手本忠臣蔵」の芝居における早野勘平(はやのかんぺい)のモデルとなった萱野三平(かやのさんぺい)だけ顔がまっ青です。いかにもやさ男然としてます。萱野三平は父の反対で討ち入りに参加できず、討ち入り後、切腹しました。「なんでこの人だけ青いの~」と子供が不思議がってました。
次の旅「葛飾柴又を歩く(一) 柴又帝釈天」