葛飾柴又を歩く(一) 柴又帝釈天

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こんにちは。左大臣光永です。だいぶ寒くなってきましたね!
私は毎日、近くのお寺で発声練習をしているのですが、
先日、どうぞと住職さんの奥様からリンゴをいただきました。
いつも聴かせてくださりありがとうございますと。あ、いやこちらこそ、
タダで使わせてもらって、えへへと、心温まるやり取りでした。

さて、本日は東京葛飾区柴又を歩きます。

▼音声が再生されます▼

映画『男はつらいよ』の舞台として知られる、下町風情の残る街並み。老舗の団子屋や川魚料理屋が軒をつらねる帝釈天参道と柴又帝釈天。そして東京唯一の渡し・矢切の渡しと、見どころが多いエリアです。


京成金町線

日暮里で京成本線に乗り、京成高砂駅で京成金町線に乗り換えます。この京成金町線のホームがこじんまりして、のんびりして、いい雰囲気です。都内の喧騒とは、全く空気が違います。



電車は一時間4本から5本程度。四両編成で、席もガラガラでした。のんびり景色をながめながら揺られること2分…

短っ!

着きました。柴又駅。さっそく草団子の看板が目に入り、下町情緒を醸し出しています。



柴又駅下りるとすぐに寅さんの銅像が迎えてくれます。


『男はつらいよ』シリーズは昭和44年の第一作『男はつらいよ』に始まり、平成8年の第四十八作『男はつらいよ・寅次郎 紅(くれない)の花』で、渥美清さんが亡くなったことにより終わりを告げました。

この寅さん像は地元商店会と観光客の募金によって建てられたものです。

寅さんが柴又を去るにあたって、妹のさくらを心配しながらもう一度振り返っている場面です。足元の台座には、山田洋次監督が寅さんに託したメッセージが刻まれています。

寅さんは損ばかりしながら生きている。
江戸っ子とはそういうものだと
別に後悔もしていない
人一倍他人には親切で家族思いで
金儲けなぞは爪の垢ほども考えたことがない
そんな無欲で気持ちのいい男なのに
なぜかみんなに馬鹿にされる
もう二度と故郷になんか帰るものかと
哀しみをこらえて柴又の駅を旅立つことを
いったい何十辺くり返したことだろう
でも 故郷は恋しい
変わることのない愛情で自分を守ってくれる
妹のさくらが可哀想でならない
──ごめんよさくら いつかはきっと偉い
兄貴になるからな──
車寅次郎はそう心に信じつつ
故郷柴又の町をふり返るのである

一九九九年八月 山田洋次

写真を撮るなら、向こうに「食事処 さくら」の看板があるので、寅さんと「さくら」の文字をフレーム内に収めたいところです。次々と記念撮影の人が絶えません。寅さんは大人気です。

正面から写真写すのもいいんですが、斜め後ろや、真後ろも哀愁漂っていていいですよ!


八幡神社

まっすぐ人の流れに沿って素直に歩いていくとすぐに柴又帝釈天の参道ですが、ここで左に折れて、京成線の線路を渡ります。しばらく道路沿いに進んでいくと、八幡宮があります。



この八幡宮がちょっといわくつきです。本堂の地下に古墳(円墳)が見つかったのです。

近年の調査で6-7世紀の円墳であることが判明しました。

境内は銀杏の大木がそそり立ち、落ち着いた雰囲気です。裏手に回ると、古墳を祀った「島俣塚」があり古墳の存在を感じられます。



では柴又帝釈天の参道を歩きます。楽しい雰囲気です!まっすぐでなく、微妙に曲がりくねっているところが、景色に複雑さを加えていて、面白いです。



トトトン、トント、トント…軽妙な音が聞こえてきました。おおっ!なんですかこれは。飴屋の店頭でパフォーマンスをしています。二人の飴職人が、トントン、トントンとすばやく包丁を刻み、飴を切っていくのです。

庖丁がまな板を叩くその音が、軽快なリズムを生んでいます。最後には二人クルッと包丁を空中一回転させて、パッと握ると、パチパチパチパチ。拍手が起こりました。なるほど、こりゃあ売れるわ。私も一袋買いました。



「高木屋老舗」は『男はつらいよ』に登場する「くるま屋」のモデルになった店です。


「とらや」は「寅さんの実家」として、第一話から第四話の撮影に使われました。


「川千家(かわちや)」は川魚料理の店として有名で、『男はつらいよ』で寅さんの妹、さくらが結婚式を挙げた場所でもあります。ただし映画がシリーズ化される前のテレビ映画の時代の話です。


柴又帝釈天

見えてきました。柴又帝釈天の山門です。



本堂前をタテヨコに覆う松の梢が見事です。


柴又帝釈天は日蓮宗の寺院で正式には経栄山題経寺。千葉県市川市の中山法華経寺の日忠上人(にっちゅうしょうにん)の創建と伝えられます。日蓮上人手彫りの帝釈天本尊は、一時所在不明になっていましたが、安永8年(1631年)の本堂修理の時に見つかりました。それが庚申(こうしん・かのえさる)の日だったので、以後、60日ごとの庚申の日が縁日となりました。

おなじみ、寅さんのナレーションに出てくる寅さんが産湯につかったという御神水も健在です。



本堂の階段下で履物を抜いで、本堂内部に入ります。この時ちょうど七五三の時期でしたので、子供づれで祈祷をささげていました。木魚の音が実にリズミカルです。

トトン、タンタン、トントン、タタン。激しくエイトビートを刻んでる感じ。商店街の飴切実演といい、柴又の町は楽しいリズムにあふれています。

法華経説話彫刻

帝釈堂周囲の「法華経説話彫刻」は昭和初期の名工を集めて、法華経の物語を彫刻したものです。緻密かつ迫力ある造形は、一見の価値ありです。


ことに「三車火宅(さんしゃかたく)の図」には目を引かれました。


「三車」とは羊・鹿・牛が牽く三つの車のこと。「火宅」とは燃える家のことです。ゴオーーーと炎が家を取り巻いているのです!しかし、家の中ではそんなことも知らず子供たちが無邪気に遊んでいる。父親は、子供たちを救うために三つの車を差し向けた、という図です。

無常が、死が目前に迫っていることも知らず、のうのうと日常生活を送る人間と、それを救おうとしている御仏を象徴しています。

日中や夕方、朝早くなど、時間帯によっても影の感じが変わり、味わいが変わります。いろいろな時間に見たいところです。

帝釈天を出て江戸川方面へ歩いていくと、割烹川甚(かわじん)と、向こうに江戸川の土手が見えまてきます。割烹川甚は文学作品にゆかりが深く、夏目漱石の『彼岸過迄』や林芙美子『晩菊(ばんぎく)』に実名で登場します。



すぐ矢切の渡に向かいたい所ですが、割烹川甚の手前で右に折れ、少し歩くと、山本邸の入り口があります。


山本邸はカメラ部品製造業・山本工場の創設者・山本栄之助の自宅跡です。山本一家は関東大震災によってこの地に移り住み、以後四代にわたって居住しました。昭和63年葛飾区の所有となり、平成3年4月から一般公開されています。

建物は木造茅葺二階建て、地下室、土蔵、和洋折衷式の長屋門などを備え、大正5年から昭和5年にかけて増改築を重ね、現在の姿になりました。

伝統的な書院造と西洋風の建築を織り交ぜた和洋折衷の建物と、純和風の書院庭園が見事な調和をなしています(以上、説明は案内板より抜粋)。

現在、工事中で、残念ながら通り抜けができなくなっています。

次回は矢切の渡しから船に乗り、「野菊の墓文学碑」を訪ねます。

左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

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