葛飾柴又を歩く(二)矢切の渡し
こんにちは。左大臣光永です。
江古田の雪華堂という和菓子屋で「昔みそまんじゅう」なるものを買って食べました。まんじゅうの皮が、練馬名物の味噌を原料として作ってあるのです。実に味噌くさいまんじゅうです。特に鼻息を漏らしながら食べると、鼻腔いっぱいにミソのニオイが広がりました。というか味噌が練馬の名物だってこと自体、はじめて知りました…
さて、本日は前回に引き続き、「葛飾柴又を歩く(二)矢切の渡し」です。
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前回はこちら
https://sirdaizine.com/travel/Shibamata1.html
寅さん記念館・山田洋次ミュージアム
山本邸近くには、寅さん記念館があります。
寅さんの生い立ちをジオラマで表現したもの、大船撮影所から移設した「くるまや」のセット。タコ社長の「朝日印刷所」の原寸大に再現した部屋、「くるまや」の模型など、見どころが多いです。
寅さん記念館と向かい合った正面は山田洋次ミュージアムです。
デビュー作『二階の他人』から、2013年1月公開の最新作『東京家族』まで、8つのテーマに沿ってその軌跡を辿ります。撮影に使われた35mm映写機がひときわ目をひきます。
ふたたび江戸川に向けて歩きます。すぐに江戸川の土手です。
いや~気分がいいです。マラソンをしている人が多いです。江戸川と、柴又の町を一望できます。日曜だったので河川敷で野球やってました。おーーい、いったーーと、子供たちの声が元気です。
まっすぐ階段を下りて、河川敷の中の道をつっきると、矢切の渡です。道すがら、水原秋櫻子の句碑。
葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり
そして、「矢切の渡」の碑。
などを見つつ歩いていくと、もう矢切の渡の桟橋です。
矢切の渡は東京に現存する唯一の渡です。東京都柴又と千葉県松戸市下矢切(しもやきり)とを往復します。
矢切の渡しの始まりは江戸初期にさかのぼります。江戸への出入りは厳しく規制されており、関所破りは重大な犯罪としてはりつけにされました。しかし、農作業に従事する農民が、いちいち松戸の関所まで遠回りをするのは仕事にさしさわります。
そこで特例として、江戸川両岸に田畑を持つ農民は関所を通らず、舟で江戸川を渡ることを許されました。いわゆる農民渡船というもので、これが明治以降も地元の足として利用され、現在では東京で唯一の渡しとなっています(以上、説明は案内板より抜粋)。
対岸からゆったり舟が渡って来るのを待っている間も、ワクワクします。
片道200円を払い、乗り込みます。さーーと涼しい風が吹いて、気分いいです。
船頭さんは歌わないですが、乗ってるおばちゃんたちが、「つれて逃げてよ~ついておいでよ~」思わず歌い出しました。
ゆらゆら揺れる水面に岸辺の緑が映りこみ、カワセミの声が響き、向こうにはスカイツリーがそびえています。
約5分。対岸に到着しました。
野菊の墓文学碑
対岸の土手の向こうにはネギ畑とキャベツ畑が広がっています。矢切の渡しとこのあたりは伊藤左千夫の『野菊の墓』の舞台となっています。
畑中の道をぶらぶらと歩いていきます。要所要所に、「野菊のこみち」の案内板があるので道に迷うことはありません。ほんのり漂うネギの香り。向こうからカタンコ、カタンコ…時折響く、北総鉄道の音もいい情緒です。
こののんびりした景色、どこかで見覚えが…と思ったら、斑鳩の法起寺近くの景色に、そっくりと思いました。法隆寺から法起寺までぶらぶら歩いていくと、こんな感じの田園風景になってきます。東京(千葉)にいながら斑鳩気分が味わえるとは、いい感じです。
斑鳩 法起寺付近
畑をつっきり、坂川という細い川を渡り、
道路を横切り、
山道を上っていき、
山の中腹にあるのが西蓮寺(さいれんじ)。
その境内にあるのが野菊の墓文学碑です。伊藤左千夫の門人・土屋文明(つちやぶんめい)の筆によるものです。
『野菊の墓』は15歳の政夫と、2歳年上の従姉・民子の淡い恋心を描いた小説です。1906年1月、雑誌「ホトトギス」に発表されました。
政夫と民子は大の仲良しでした。二人で畑中の道を歩き、まあきれいな野菊…私ほんとうに野菊が好きよ。道理で民さんは野菊のような人だね…そんなやり取りが、あるのでした。
二人の間には恋心がめばえていきます。周囲で噂が立ってきます。二人は清い交際でしたが、政夫の母親はこれをまずいと見ます。
間違いでも起こったら大変だ。まして年上の嫁などとんでもないと。そこで政夫を千葉の学校へやることにしました。小雨そぼ降る矢切の渡しから旅立っていく政夫を、見送る民子。これが今生の別れとなってしまいました。
互に手を取って後来(こうらい)を語ることも出来ず、小雨のしょぼしょぼ降る渡場に、泣きの涙も人目を憚(はばか)り、一言の詞(ことば)もかわし得ないで永久の別れをしてしまったのである。無情の舟は流を下って早く、十分間と経たぬ内に、五町と下らぬ内に、お互の姿は雨の曇りに隔てられてしまった。物も言い得ないで、しょんぼりと悄(しお)れていた不憫な民さんの俤(おもかげ)、どうして忘れることが出来よう。…(中略)…八百屋お七は家を焼いたらば、再度(ふたたび)思う人に逢われることと工夫をしたのであるが、吾々二人は妻戸一枚を忍んで開けるほどの智慧も出なかった。それほどに無邪気な可憐な恋でありながら、なお親に怖(お)じ兄弟に憚り、他人の前にて涙も拭き得なかったのは如何に気の弱い同志であったろう。
冬休みに帰省した政夫は民子が市川の実家に帰ったことをしります。翌年の冬には、民子が嫁に行ったことを知らされました。しかし心には依然、民子を思い続けていました。
ところが、スグカエレの電報があり帰ってみると、民子が流産で死んだということでした。あれだけ嫌がった民子を無理に嫁がせた、私が民子を殺したようなものだ。政夫の母は、そう言って泣きました。民子は政夫の写真と手紙を胸に死んでいったのでした。
政夫は民子の墓に野菊をお供えし、くずおれる…そんな話です。
左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。ありがとうございました。
次の旅「谷中を歩く(一) 朝倉彫塑館・谷中銀座」