泉涌寺を歩く

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本日は泉涌寺を歩きます。泉涌寺は京都東山にある真言宗泉涌寺派の総本山です。皇室の信仰篤く「御寺(みてら)」として親しまれています。京都駅から歩いても30分ほどですが、人里離れた仙人郷の雰囲気があります。

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総門

バス停「泉涌寺道」下車。東に進む坂道を登っていきます。

見えてきました。泉涌寺の総門です。

ここから先が泉涌寺の境内となります。鬱蒼と木々が茂り、道沿いに塔頭寺院が並び、風情あります。

坂道を登りきった所に泉涌寺の大門。扁額の文字「東山(とうぜん)」により「東山門」ともいわれます。

屋根は切妻造・本瓦葺。簡素ながら堂々とした四脚門です。

慶長年間(1596-1615)に徳川家康が後水尾天皇側位の際、御所を再建。その時、以前の御所の部材を移築したと伝えられます。蛙又の唐獅子・龍・麒麟・獏などの彫刻が桃山文化の息吹を伝えます。

大門をくぐり坂道を下った先に、仏殿が見えています。

泉涌寺について

泉涌寺は東山三十六峰の一つ・月輪山(がちりんざん)のふもとにある真言宗泉涌寺派の総本山。皇室の信仰篤く「御寺(みてら)」として親しまれています。

背後には四条天皇はじめ歴代天皇の眠る月輪陵(つきのわりょう)があります。

天長年間(824-834)に弘法大師空海が開いた草庵が始まりと言われます。その後、左大臣藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)が法輪寺を建立し、後に仙遊寺とあらためました。

建保6年(1218)宋から帰国した月輪大師・俊芿(しゅんじょう)が仙遊寺の地を寄進されて再興。その時、境内に泉が湧いたので泉涌寺としました。仁治3年(1242)四条天皇を埋葬して以降、皇室の香華院(こうげいん=菩提寺)となりました。

四条天皇は父後堀河天皇の譲位を受けて二歳で天皇になり、12歳で崩御した人物です。

応仁の乱で伽藍が焼失するも、天皇家との関係の深さから代々の禁裏の建物が移築され、現在に至ります。

泉涌寺という名の由来となった泉を庇う屋形です。

寛文7年(1667)再建。屋根は入り母屋造・こけら葺きで正面に軒唐破風(のきからはふ。装飾用につけられた唐破風)のある風格ただよう建物です。

内部は別所如閑(べっしょにょかん)の筆による蟠龍図を配した鏡天井になっているということですが…拝観はできません。今も水は湧き続けています。

※鏡天井…格縁(ごうぶち=縦横に組んだ角材)などがなく、鏡のように平面に板を張って仕上げた天井。

清少納言歌碑

泉湧水屋形の北隣に清少納言歌碑。

夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
よに逢坂の関は許さじ
清少納言

まだ夜が明けないうちに鳥の鳴き真似をして函谷関の関守は騙せたとしても、私とあなたを隔てる逢坂の関の関守は騙せませんからね。

小倉百人一首62番。男の誘いを機知に富んだ言い方で、つっぱねている歌です。

清少納言は晩年、泉涌寺のあたりに隠棲し、主君・藤原定子の菩提を弔ったといいます。藤原定子の眠る鳥戸野陵(とりべののみささぎ)は泉涌寺の北の丘の上にあります。

仏殿は四代将軍徳川家綱による再建。

もこし付き入母屋造り本瓦葺の唐様建築。正面五間、側面五間の巨大な建物です。

御本尊は運慶作「三世仏(さんぜぶつ)」。中央の釈迦如来が過去を、左の阿弥陀如来が現在を、右の弥勒如来が未来をあらわしています。

狩野探幽による天井の蟠龍図、壁面の飛天図、「三世仏」の壁裏にある「白衣観音図(びゃくえかんのんず)」は必見です。また毎年の涅槃会をはさんだ3日間(3/14-3/16)、「大涅槃図」が公開されています。

舎利殿

仏殿の北にあるのが舎利殿。

釈迦の骨「仏舎利」をおさめる建物です。寛永19年(1642)御所からの移築。屋根は入母屋造・本瓦葺。白壁に花頭窓と蔀戸を配し、周囲を縁をめぐらします。

月輪大師の弟子・淡海宗師(たんかいそうす)が宋から持ち帰った釈迦の骨…佛牙舎利(ぶつげしゃり)をおさめ、説法をする口に関係していることから、特にありがたいとされます。

佛牙舎利は舎利殿中央の舎利塔という容器におさめられ、その左右を月蓋長者と韋駄天像が守っています。天井には狩野山雪による蟠龍図。手をたたくと竜が鳴くような音がすることから「鳴き竜」として知られます。日光薬師堂のそれと並び、東西の鳴き竜と称されます。

平成20年、今上陛下御即位20周年を記念して、当舎利殿にて薪能「舎利」が奉納されました。

私が行った時は、舎利殿内でなにか現代アート展をやってました。よくわからない絵や彫刻が飾ってありました。古いものと新しいものがまじりあって、妙な感じでした。

舎利殿の北にあるが霊明殿。入母屋造・桧皮葺・総桧造の建物で、四条天皇の御尊像をはじめ、歴代の天皇・皇后の御尊牌(位牌)179基が安置されています。ふだんは非公開です。

御座所

霊明殿の西に御座所。皇族の方々が霊明殿・御陵(ごりょう)を参拝をされる時、御休息されるための場所です。参拝の際は御座所南の勅使門から通り、御車寄に馬車等を停められました。

御座所の建物の東側から南側にかけて庭園があります。庭園のまわりを霊明殿・海会堂(かいえどう)・御陵が取り囲みます。庭園は明治17年(1884)の造営。小規模ながら池と築山を配し、風情のある庭園です。これから紅葉してくるとさぞ見事だろうと思います。

庭園中央にちょこんと座った雪見灯籠は年代の古いもので、桂離宮のものと並び雪見灯籠の双璧とされます。

御座所はふだんは非公開です。

歴代天皇および皇族の方々の御念持仏を安置した建物です。念持仏とは身近に置いて礼拝するための小さな仏像です。建物の外観は白壁の蔵造りで屋根は宝形造(ほうぎょうづくり)・本瓦葺。明治17年(1884)再建。ふだんは非公開です。

楊貴妃観音殿

大門入ってすぐの左手奥に楊貴妃観音殿。

本尊楊貴妃観音は六体の羅漢像と一体の僧形像に囲まれています。湛海律師が寛喜2年(1230)南宋からもらい受けたものとされます。その目鼻立ちが美しいため、玄宗皇帝が亡き楊貴妃を生き写しにして作らせたという伝承を生みました。美人になれるということで女性の信仰を集めています。

泉涌寺は、どこか普通と違う感じがする寺です。京都駅からも東大路通(最寄りの大通り)からもほど近いわりに、深山幽谷の雰囲気があります。仙人境に迷い込んだ感があります。また、参道沿いの塔頭寺院もそれぞれ言われがあって面白いです。ぜひ時間をかけてゆったり歩いてみてください。

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